0.突然ですが、ピンチです。
「諦めろ、シャルロット王女──いや、元、王女」
うららかな春の午後。
城の中でも奥まった位置にある、「王の庭」と呼ばれる花園の一角にて。
茶会のさざめき、人々の気配は遠い。
深淵を綴じ込めた濃い碧の瞳に射貫かれて、少女はまったく身動きがとれなかった。漆黒の略式軍衣を纏った男が、小柄な彼女を花壁に縫い留めている。
少女は必死に足掻くが、けして男からは逃げられない。背後は、触れれば怪我をする薔薇の生垣だ。淡い色の繊細なドレスが脚に絡み、全力疾走には向くはずのない高いヒールが地を踏み鳴らす。
──嗚呼、まごうことなき大ピンチだ。
「そんなに息を切らせて、鬼ごっこもいい加減に飽いただろう。それともまた、得意の詭弁で煙に巻くか?」
嘲笑の色を含んだ男の声音に、少女がきっと音を立てて睨み返す。その毅然とした態度とは裏腹に、内心で「彼女」はだらだらと冷や汗をかいていた。
少女は内省する。
──妹よ。
シャルロットとの可憐な名を持つ、「俺」の最愛の妹よ。
聡明な君のことだから、きっとあらゆる事態を想定して、この愚鈍な兄との「入れ替え魔術」を施したのだろう──されど、これほどの危機は、さすがの君にも予想できまい。
君の身体をまとったお兄ちゃんは、いま、あろうことか、隣国の「略奪王」に求婚されています!
「俺は、報奨を選べるのなら、一番にシャルロット──お前が欲しい」
まるで熱のこもった切実な声で男にそう説かれ、正しく「俺」の腕がにわかに粟立った。きつく掴まれた両腕を僅かに震えさせ、それすら赦さないとさらに強く握られて息をのむ。
男が、ハッとしたように力を弛め、短く謝罪の言葉を口にした。わざとしおらしい哀願を声音に乗せ、「シャルロットの顔をした俺」の機嫌を窺うのだ。
──こんなの、たまらない。尚も言い募る台詞に、「俺」の焦燥はいや増していくばかりだ。
「……ドレスか?宝石か?それとももっと別の何ならいい?お前に似合いのものならなんでも用意しよう。過去のものは何も要らない。お前の身ひとつあれば俺はそれでいい」
荒れた海をゆく水上戦が得意のくせに、日焼けを知らぬ男の白い肌が「少女」の目に眩しい。陽光を受けてきらきらと輝く金髪は、麦の穂に似たくすんだ黄金色。
まさに眉目秀麗、白皙の美貌──端正な顔立ちとは裏腹に、「略奪王」などという不名誉極まりない二つ名を持つ眼前の男が、およそ戦場では曝したことのないだろう優しい表情で「元王女」の顔を覗き込んだ。下手に出た言葉、そしてその中身の必死さたるや──数週間前、自分は「これ」に完敗したのだと思うと、お兄ちゃんはちょっと情けなくなっちまうよ。
「その透き通った白い肌に、純白の花嫁衣裳はさぞ似合うだろう。髪は今流行りの型で結い上げてもいいが、せっかくのミルクティーブロンドだ、おろしてても見栄えがよさそうだ。宝石で飾るより、いっそ生花でも編み込もうか。メイドたちが腕を鳴らして張り切るぞ」
黒衣の軍服に映える、深紅の飾緒。「略奪王」が身動ぎする度に揺れるそれが、まるで何かの暗示のように怪しくゆらめいて──俺は、どんどんと気が遠くなるようだった。
──嗚呼、妹よ。
君の見た目が美しいばかりに、中に突っ込まれたお兄ちゃんはこんな目にあっているんだが──本当に、どうしてくれよう。
「似姿を描かせたら、それだけで新しい城が建てられそうだ。きっと、誰もが羨む理想の新妻像に──」
「──黙れ!!略奪王の分際で、敵地の『戦果』を理想像だなどと!──所詮、現地妻に過ぎない存在に、不相応に愛を説いていったい何のおつもりか?!同情など、片腹痛いわ!!」
空気が固まる。──今のは、俺は悪くない。
「略奪」のセオリーならば、生まれてこの方、戦地を生きる場としてきた「俺」だからこそ重々承知している。奪い、奪われる関係に、愛だ誠実だなんて美しい感情はまやかしだ。施しのように与えられる侮蔑に、怒りを覚えこそすれ、愛情を抱くなんてもってのほか。
被征服地の王族を、その矜持を、この男は、なんだと思っているのか!
(……とはいえ、しまった……さすがに言い過ぎたか……)
思わず叫んだ俺の拒絶に、王の台詞が完全に止まった。
政治問題にならないか、今後の「我が身」が危うくならないか──あらゆる懸念事項が脳裏をよぎり、盆に返らぬ覆水を悔いた。
されど、俺の後悔は、一瞬。
──略奪の「王」と呼ばれる彼は、それほどに可愛らしい性格はしていなかった。
「……お前の、一番の美点はそこだ。その華奢な美貌から発される肝の据わった物言いが、たまらなく俺好みなんだ。──逃がすもんか」
少女がふらりと傾ぐ。
比喩ではなく、真剣に気が遠くなったらしい。
──嗚呼、妹よ。シャルロットよ。
お兄ちゃんは、いままさに、人生最大級のピンチです。
(勘弁してくれ……)
略奪王は、本気で、本心から、征服地の元王女に溺れているらしい。
何故俺が、君の身で、隣国の王に求婚されるだなとというあり得ない事態に陥ったのか──話は、数週間前にまで遡る。