嫉妬と葛藤
夜鈴が樹宮家の姫。
それを知って、蹄はしばらく理解が追い付かなかった。
だがどうやら事実らしい。そう認めざるを得ないくらい、嫌というほどに宗蒔とのやり取りを見せられた。
そして、その事実を理解すると、今度はいくつもの疑問と感情が湧き上がってくる。
なぜこれまで教えてくれなかったのか。
平民である俺たちのことを見下していたのだろうか。
ずっと邪険にしていたことを恨んでいないだろうか。
数えきれないくらい無礼な態度をとってしまった。
(こんな俺のことを、どう思ってるんだろう……)
怒りや、後悔や不安、どれも抑えられず翻弄されてしまう自分が、情けなく思えた。
翌日。普段よりも早く目が覚めた。いや、まともに眠れなかったのだ。鍛錬なんてする気にもなれず、仁鑑の様子を見に医務室に向かった。
「おや、今日はお一人なのですね。夜鈴さまはどうされたのですか?」
「えっ、あぁ、いや……」
どうやら昨日のことは知らないようだった。あの場にいたのは夜鈴、蹄、そして盛雲だけだったから、目撃者でもいない限り話は広まらないだろう。
「喧嘩でもなさったのですか? 懲りないですね」
「あ、あぁ。そうだな……」
あえて否定しないことにした。夜鈴が隠していたことを、勝手に話すのは気が引ける。
「そういえば昨日は何やら騒がしかったですね。蹄さまは何かご存じです?」
「えっ、えーっと、……樹宮家の方が来られてな」
このくらいは言ってもいいだろう。
「そうだったのですか!? 依頼でしょうか!?」
「さ、さぁ……」
いきなりくいついてきたので驚いた。龍神家に上流貴族からの依頼がきたことは一度もないから、当然の反応だろうが。
だが内容までは話せない。歯切れ悪く濁すしかなかった。
「蹄さま、今日は随分と元気がありませんね。どこか調子でも悪いのですか?」
「えっ、そ、そうか? 気のせいだろ。……仁鑑こそ元気すぎるんじゃねぇか? もう少し大人しくしてろよ」
「私はもう十分元気ですよ。今からでも復帰できます」
「いやいや、やめとけって。仁鑑一人抜けて成り立たなくなるくらい、龍神家は弱くねぇから」
「それは、そうですね。龍神家には盛雲さまも蹄さまも、夜鈴さまもおられますからね」
「そうだ。だから安心して休んでろ」
そう言いながら、蹄は不安を募らせていた。
(夜鈴がいなくなったら……)
龍神家の強さの一つは、夜鈴だ。もしいなくなれば、龍神家は一段と弱くなるだろう。そう、それだけ夜鈴は龍神家にとって大切な存在なのだ。
「……蹄さま?」
「あっ、いや、何でもない。まあ、ゆっくり寝てて」
仁鑑にしつこく訊かれる前に医務室を出る。
「……あっ」
そして、言葉を失った。
「蹄……」
運悪く、目の前には夜鈴がいた。反射的に目を背ける。彼女に、合わす顔などない。早くその場から去りたくて、無理やり声を出した。
「何、ですか……」
「ちょっと、話がしたいんだけど。今時間ある?」
ない。そう言って早く部屋に戻りたかった。だが、目の前にいるのは上流貴族の姫。蹄に断る権利などない。小さく頷いた。
夜鈴の要望で人気のない庭に移動した。
何を言われるのか。その不安で心拍数がどんどん上がっていった。
「話って……、何ですか?」
一刻も早く終わらせたい。その一心で夜鈴を急かす。
「まずは、敬語使うの、やめてくれないかな?」
声が喉につかえる感覚がした。
(ふざけてるのか? 姫にため口を使えってのか。そんなこと、できるわけねぇだろ。簡単に言いやがって……)
心の中で抗議しているのも知らずに夜鈴は困った顔をする。
「これまでずっと、ため口で話してくれてたでしょ? 私はそれがとても嬉しかった。だから立場なんか関係なく、蹄らしい言葉で話してほしいの」
そんなことを言われても、無理なものは無理だ。何も答えられなかった。
「えーっと……、無理にとは言わないから。――それで本題だけど」
どうやら諦めてくれたらしい。内心ほっとした。だがそれも一瞬で、本題という単語に緊張が走った。
「こうなった以上、きちんと話しておきたいの。私が隠していたこと、全部」
きちんと話す。
それは蹄にとって最も望んでいたことで、しかし聞く資格などないと思っていた。
夜鈴が静かに語り始める。
樹宮家での恵まれない生活。貴族狩りに襲われ、逃げ出したところを龍神家に拾われたこと。殺し屋としての暮らしは、十五年生きてきた中で一番楽しかったこと。
話が進むにつれ、蹄はどんどん顔を上げることなどできなくなった。こんな過酷な人生を送っていたなんて、思ってもみなかったのだ。それなのに自分はあんなに酷く当たって……。
「……自分勝手だよね。強引に他人の輪を割って入り込んで、盛雲さまに掟破りの罪を背負わせて、蹄の立場まで奪おうとして。その上、隠し事までして……」
(……何言ってるんだ?)
そんなことはない。いや、少し前までの自分ならそう思っていたかもしれない。だが、夜鈴にそんなことを言われるのは、夜鈴がそんなことを思っていたというのは、とても悔しかった。
「これまでたくさん迷惑をかけてきたと思う。本当にごめんなさい」
とうとう頭を下げられてしまった。驚いて一瞬顔を上げてしまう。幸いにもそれは彼女には気付かれていないようだった。
やめてくれ。
その一言が出てこない。声が、出せない。
そうこうしている内に夜鈴は顔を上げた。
「……でもね、それでもずっと龍神家にいたいと思っちゃうの。夜鈴のままでいたい。蹄や盛雲さまたちと一緒にいたい。わがままだってことはわかってるのに……」
そこで初めて、蹄はハッとした。
少し前までなら、夜鈴が貴族だとわかってもきっとこんなに動揺することはなかっただろう。なぜこんなにも感情に振り回されるのか。それは彼も夜鈴と同じ気持ちだからだ。
ずっと今まで通りでいたい。夜鈴に貴族に戻ってほしくない。
「兄上……宗蒔さまがおっしゃっていたことは正しい。人殺しなんて決して気分の良いものじゃない。大人しく樹宮家に戻るべきだってことは理解してる。でも……」
そう、それが正しくないとしても。
間違いであったとしても。
――一緒に、いたい。
夜鈴がここまで感情を吐き出すのは初めてだった。
きっとそれだけ苦しくて、迷っていて、そんな彼女を蹄が支えてあげないといけないことなど、彼には痛いほどわかっていた。
だがそれは彼にとって、何よりも難しいことだ。声すらまともに出せないのに、支えるなどできるはずがない。
何もできないまま、重たい沈黙が流れた。
「……ごめん。こんなこと、蹄に話すことじゃないよね。説明するために来たつもりだったんだけど……。変なこと言っちゃったね。忘れていいよ。私、もう部屋に戻るね」
そのまま、夜鈴は遠ざかっていく。頼りない背中が、みるみる小さくなっていく。
(あぁ。何も、できなかった。……悪い、夜鈴。俺は、強がってるだけの、情けない兄だ)
――兄。その言葉が頭を過って、あることに気が付いた。
夜鈴は、宗蒔のことを一瞬「兄上」と言った。一方蹄を「兄」と呼んだことは一度たりともない。
それはつまり、彼女は心の中ではまだ樹宮家の姫なのではないか。夜鈴ではなく、都女なのではないか。
彼女は、もう樹宮都女ではないと言った。それはどういうことなのか。
(夜鈴……。お前はやっぱり、樹宮家に戻りたいのか?)
考えれば考えるほど違和感が湧いてくる。
夜鈴は大切な人の形見という鈴を常に持ち歩いていた。彼女が樹宮家の人間ということは、その大切な人も樹宮家の者ではないだろうか。そういえば母親と護衛を殺されたと言っていた。そのどちらかの物なのか。
もしそうであれば……。
無責任に訊いてしまったことを後悔した。
人の事情なんて無暗に訊ねていいものじゃない。それを身に染みて感じた。
だが、もしも最初からすべて知っていたら……。こんなに悩み苦しむことはなかったはずだ。それは夜鈴も同じこと。それなのに、どうして教えてくれなかったのか。
こんなに苦しまないように、もっと早く――、
教えて、ほしかった。
(おかげで俺だって、お前とずっと一緒にいたいと、思っちまうじゃねぇか……)
それから夜鈴の顔を見ることは一度もなかった。
会ったところで感情をぶつけることなどできないのだが、それでも何だか寂しかった。何もできないまま、虚しく時間だけが過ぎていく。
夜鈴には貴族として満足のいく裕福な生活をしてほしい。だが一方で、これまで通り、ずっと一緒にいたい。
そのどちらの気持ちも心に閉まったまま、宗蒔が来る日の朝を迎えた。




