2.
その夜、闘技場は観客でいっぱいになった。
入りきれない人びとは刃物が骨を断ち切る音をきこうと、壁にへばりついて、耳をつけた。
出場者たちは地下の待機室にいて、自分たちの番が来るのを待っていた。
この日のプログラムは四試合が組まれていて、八人の殺し屋が用意されていた。
ショートへアの少女、あるいは長髪の少年に見える殺し屋は煙草をつけて、自分の対戦相手を見ていた。黒いマントに身を隠した、尖った髪をしている殺人鬼で目がラリっていた。マントはストンと真下に落ちていたので、マントの上からでもひどく痩せているのが分かり、殺し屋は興行師の親戚か何かかと思った。
「キキキ、切り刻む、キキキ」
殺し屋は部屋を出た。裸電球がぶら下がった廊下を歩くと、出場用の門に通じる廊下に医務室があるのを見つけた。入ってみると消毒薬のつんと来るにおいがして、赤黒いシミの残った白衣を着た老医者が煙草をくわえたまま、ポケットの中身――小銭や鍵――を全部出していた。
殺し屋は空薬莢を加工して作ったライターを差し出した。
ふたりで一服すると、老医者がきいてきた。
「見ない顔だな」
「サキ・ヴィンセントの代理です」
「稼ぎ頭とは言わないが、かなりいい殺し屋だ。ファンが確実に増えている。それも女のな」
「こういう場所には女の人は入れないと思ってました」
「この町は百年前の内戦のとき、女の民兵が国王軍と戦ったんだ。男どもは腰を抜かすか酔っぱらうかで使いもんにならなかった。だから、女のほうが気が強いんだ。わしもサキ・ヴィンセントは好きだ。彼女の試合はめんどくさくないからな」
「?」
「彼女は確実に殺す。だから、蘇生やら縫合やら面倒なことをしないでいい。実は殺し合いとはいうが、トドメが刺さってないことが多いんだ」
老人は立ち上がると、死体保管用の冷蔵庫の取っ手をつかんだ。引っぱると、なんとそこには二ダースのビール瓶が横たわっていた。
「飲むといい」
「ありがとうございます」
冷蔵庫の取っ手で栓を抜き、ぐびぐび喉を鳴らした。
「ぷはぁ。ああ、おいしい」
「わしはここの生まれだが、大学は外で学んだ。そこでビールの味を覚えた。この国の人間は狂ってるよ。殺し合いにうつつを抜かして、ビールを飲まないなんて」
「同感です。あ、そうだ。ぼくの対戦相手はどうですか? ちゃんとトドメを刺しますか? とんがった髪型の黒いマントの痩せたやつなんですけど」
「ああ、あいつか。きちんと刺すよ。なぶり殺しが好きらしいが、きちんと殺して終わらせる。だが、わしはあいつが好かん」
「どうして?」
「あいつは似非サイコパスだ」
「へえ」
「わざといかれたふりをしてる。バルバルへの遠征に軍医としてついていったから分かる。戦争ってのは本当にいかれている人間を見るのに困らないからな」
「ぼくはこの仕事、結構長いですけど、いまだに狂人と普通の人の区別がつきません」
「それはきみが狂人だからだ」
「ぼくがですか?」
「ビールを手に取ったときの表情で分かる。あれは一本のビールのために平気で人を殺せる顔だった」
「えー、ぼく、いかれてました?」
「ああ、狂っている人間は狂っていることに気づかない」
そのとき、ファンファーレがきこえてきた。
「第一試合の始まりだ。もう一本どうだね?」
「いただきます」
冷たいビールはとてもうまかった。
しばらくして、医務室のベルが鳴った。
医師は立ち上がると、頭の半ばまで山刀が刺さった男の脈を取り、担架係たちに「死んでる」とお墨付きを与えた。勝ったほうの殺し屋は額を少し切っていたので、三針ばかり塗った。
「じゃあ、次はぼくの番なので」
「生き残れよ。ビールはまだあるからな」
係の職員が殺し屋をそのまま廊下のほうへと案内した。突き当りは大袈裟な鋲を打った大きな扉で戸口にしっかりはまりこんでいる。上半身が裸の屈強の二人の男がそれを開くと、殺し屋は職員にうながされて、闘技場に出た。
飛び散った脳みそと血はきれいに取り除かれ、新しい砂がまいてあった。
反対側の扉からは似非サイコパスがいて、これまで隠していた(まあ、だいたい予想はつく)内部を御開帳した。
赤い裏地に何十本という投げナイフがうまい具合に差さっていた。
「お前をハリネズミみたいにしてやるぜ。キキキ」
観客が、わあっと沸いた。
殺し屋は手にしていた山刀をゆっくり足元に置いた。
観客の嘲笑がきこえてきた。
「あいつ、ズタズタになっちゃうぜ」
「整備係も大変だよな。毎度毎度バラバラ死体を集めさせられて」
予想通り、似非サイコパスはナイフを投げまくってきた。
殺し屋は左に右に必要最小限の動きでよけ、隙ができたと思ったら、遠慮なく踏み込んだ。
殺し屋が似非サイコパスの懐に飛び込んだ瞬間、観客は頸骨が割れるほどの掌打が顎に食らわされると期待したが、実際はマントの裾をつかんで、顔をぐるぐる巻きにするだけだった。
裏地の赤いマントが顔を包んでいて、黒装束に包まれた細すぎる体がうねうね焦り動くさまは踊るマッチ棒と言ったところ。
このおちょくりには観客は大笑いし、殺し屋は一度に大量のファンを獲得した。
そこで、殺し屋はご期待に備えるべく、同じことを繰り返した。
ナイフが投げられまくり、殺し屋は相手の顔をマントでぐるぐる巻きにする。
それが五度も繰り返されると、観客たちは飽きてしまいブーイングの嵐。
獲得したファンも全員離れていった。
「そろそろかな」
殺し屋はつぶやいた。
ナイフが投げられると、それをかいくぐって踏み込み、マントの裾をつかんで、顔をぐるぐる巻きにした。
このときには殺し屋へのブーイングには殺気が込められるようになった。
「はやく殺せ!」
「つまんねえぞ!」
「殺す度胸がねえんだ、こいつはよ!」
「こいつを殺せ! 殺しちまえ!」
殺し屋の目論見通り、観客たちは激怒している。
実は今回のぐるぐる巻きはこれまでのものとは違う。
殺し屋はマントをつかんだとき、一番小さな投げナイフを一本失敬していた。手のひらに簡単に収まるほどの小ささで、命を取るというよりは不意打ちで目を潰すのに使う補助的なナイフだ。
殺し屋は顔をぐるぐる巻きにすると、バックステップで離れた。
似非サイコパスはふらふらしながら、マントを顔から剥いだ。その顔は蒼ざめていて、喉に両手をやっていた。
ブーイングが弱くなった。これまでとは何かが違う。
似非サイコパスは顔を真上に向け、震えながらゲーゲー呻いたかと思ったら、大量の血を噴水みたいに吐き出し、絶命した。
吐血の血だまりには一番小さな投げナイフが落ちていた。
殺し屋は芝居がかったお辞儀をして、山刀を拾い、退散した。
少しでも逃げ遅れていたら観客が降らせた銀貨の雨に生き埋めにされていたことだろう。