56 怒りの上位精霊
分体は消滅しようとも、雪と氷の上位精霊の置き土産は完全に消え去っていない。怒りの上位精霊でさえ喰らい尽くせなかった残り香をクラウディアだけは感じる事が出来る。
だから、空間を漂うほんの僅かな氷の下位精霊に願うだけ。
「みんな。苦しいだろうけど、あと少しだけ頑張って」
支配力を行使せず、それでも白の姫は精霊魔法を現出させる。パキパキと音を立てながら、生み出されたのは小柄なクラウディアと同じくらいあるだろう氷の柱だった。
ブォンと大剣を一度振り、続いて酷く軽々しく横薙ぎした。目の前の、真っ直ぐ天に向かって聳えるソレは、一撃で粉々になる。それだけしか振っていないが、現れたのはキラキラと光る氷の粒たちだ。クラウディアの周りを漂う美しい光景に、正常な意識のセナであれば「ダイヤモンドダストみたい」と呟いただろう。
「氷の下位精霊!」
指向性を持ったソレらは一斉に目標へと殺到した。グワリと牙を向く獣の様に、セナが持つ赤い弓へと。
美しい輝きを放つ氷の粒が一つ、二つ、そしてたくさん。アダルベララは水色に澄んだ塊に包まれ、竜皮革の籠手、そして肘の上辺りまでを凍らせていく。それでも、ずしりと重くなっただろう腕から先を無感情に眺め、セナは動かない。
一方のクラウディアの視線が向かう先は違った。愛する黒エルフより少しだけ上方、未だ首から肩にしなだれ掛かる少女の姿をしたアイツだ。
そう、顕現してから後、ずっと我慢していた。
ギリと歯を食いしばり、そして叫ぶ。
「さっきから勝手に……セナに触れるなぁ!」
吐き出されたのは燃える嫉妬と独占欲。自分だけの、小麦色した肌に触れられた怒りだ。
強く踏み出したたったの一歩。まるで宙を舞う精霊のごとく、先程のシャティヨンと比べ物にならない。一瞬に思える時間で到達し、手にある大剣で怒りの上位精霊へと突きを繰り出した。
弾け砕ける激しい音と共に剣は跳ね上げられる。氷の塊と化した腕を振り上げ、セナは一撃を防いだのだ。そしてそのままに身体をぶつけて来る。クラウディアは思わず抱き締めたくなったが、戻した大剣で迎え打った。鍔迫り合いが始まり、本来であれば拮抗すらしないはず。しかし黒と白は全くの互角で、ギリギリと競い合う。
二百年前のセナならば簡単に押し負けただろう。しかし今は怒りの上位精霊に祝福されているのだ。肉体的限界を当たり前に使い、精霊に愛された白の姫と同等となっている。
クラウディアのすぐ目の前に、幾度も夢で見た愛する黒エルフがいる。忘れることなど出来ない橙色の瞳は暗く沈んでしまった。それでも……焦がれて、焦がれ続けて、体と心に焼き付いた姿が。
だから、今は無駄と知っていても、無意識に唇は動いた。
「セナ! 私は此処にいるよ!」
心の中。ありきたりの言葉はどれだけ陳腐だろうと、決して廃れたりしない。出会ってから二百年、この想いは何も変わっていないのだから。
精霊達に願う。もっと力を、戦う力を、と。
拮抗していた力の天秤は傾き、一気に弾けた。ガツンと再び鈍い音、仰け反るセナ、更に砕けた氷。姿勢は崩され先程の様な防ぎ方は出来ない。今度こそ届いたのだ、憎っくき精霊に。
「お前さえ、お前さえいなければセナは……!」
もっと幸せでいれたのに!
ズバと怒りの上位精霊の体を突き抜け、大剣は大気ごと切り裂いた。
物理的な攻撃で上位精霊は死にもしないし、消滅もしない。しかし相手は精霊の愛し子である白の姫。一時的ならば影響を及ぼせた。だからだろうか、少女然とした精霊はクラウディアに視線を合わせ、ゆっくりと空に溶け出して行く。セナを慈しむ表情に変化はなく、それでも怒りの上位精霊は手を離したのだ。
そして、そのまま話しかけて来る。かの精霊が祝福を受けた者以外に言葉を向けるのは、間違いなく歴史上初めての事だが……それを成した白の姫は誇る事もない。
《アナタの怒りを感じる。でも、私達には届かない。セナの本質を知ることもなく、これからも理解出来ないの》
カッとなる。クラウディアは基本的に短気だし、感情を抑える方法を知るほどに成熟だってしていない。
「だまれ!」
下から斬りあげた。岩さえも、錆の竜の鱗すら紙のように切り裂く剣技が襲う。股の間から肩まで両断されると、怒りの上位精霊は空中に消えて行った。ユラユラと揺蕩う声を残して。
《セナの心からの望みを止めるつもり? そんなこと誰にも出来ない、誰にも許されない。アナタより遥かに長く見守って、愛し続けたのは私だけ》
心からの望み。それに興味を惹かれた瞬間、クラウディアの精神は強い怒りに満たされた。その怒りは相手ではなく、セナの苦しみを確かに理解していない自らに向かう。一瞬で意思を失いかけるが、内面に影響する上位精霊との関わりには幾度かの経験があった。そう、狂戦士にはならない。
そしてこれも、怒りの上位精霊から直接的に影響を受けてなお、堕ちなかった初めての存在となる。だが、そんなクラウディアは勿論気にもしなかった。
「……私なら大丈夫! シャティヨン!」
「ええ!」
今、一時的とは言えアレを引き離したのだ。
あとはセナを動けなくすれば良い。そして、勝敗が決する瞬間、再び怒りの上位精霊は姿を見せるはず。ミスズの預言通りに、解放の機会は必ずやってくる。
「少し痛いかもしれないけど……あとで謝るから」
自身に祝福を与えた怒りの象徴、そんな少女の姿が消えたからなのか、先程まで興味を殆ど示さなかったクラウディアをセナは眺めている。その真っ黒な両眼で。
「だから教えてよ。あんなに私を愛してくれたセナが、それでも言葉にしなかった"心からの望み"ってなに?」
再び、愛し子の元へ集うのは"怒り"を除く数多の精霊たち。そんな真白の彼女が願っているのだ。目の前に佇む黒エルフに、答えを示せ、と。
「あの冬の朝の再現。さあ、そのアダルベララで私を射抜いてみせて。このまま立ってるだけじゃ、セナは負けちゃうよ?」
ピクリと無言のセナが震えた。長い両耳もプルプルと二回揺れる。そう、白の姫から溢れ出た精霊力が足元から這い上がり、腰から胸、両腕と首へ。もしセナに正常な意識があれば、ググと強く抱き締められて、拘束されたように感じるだろう。
そしてそれは、怒りの上位精霊に祝福を受けたセナの行使により、空へと消えていく数々の精霊力さえ例外ではない。
身動ぎした後、セナは上空に視線を送ったようだ。流していた精霊力が完全に途絶えたと理解したのだろう、その瞳を再びクラウディアやシャティヨンに戻す。ボソボソと何かを呟きながら、今日初めて見せた感情を宿して。
それは、怒りだ。
「ジャマ、ヲ……ス、ル」
「ゼン、ブ」
「ジャマヲスル、ナ、ジャ、マヲ、ス」
「コロス、コロ、ス」
史実に記された通りの存在へ、セナが堕ちようとしているのが分かる。例え狙い通りだとしても、やっぱりクラウディアは悲しかった。
狂戦士は、あの精霊の祝福を受けた者が最後に辿り着く存在。しかし森の上位精霊のミスズが言ったのだ。祝福を受けたその後ならば引き剥がす可能性が高まる、と。
「シャティヨン、皆に警告を。見学はここまでだって」
「はい」
前を向いたままのシャティヨンはゆっくりと後退していく。その行き先は、見学、いや実際には手出しさえ出来なかった二組の冒険者パーティ。セウルス率いる赤の旋風と、ドティル達三名のバイアだ。
「シャ、シャティヨン……」
「セウルス。空への精霊力の流れは止まりましたか?」
「は、はい。あれはやっぱりクラウディアさんが?」
「ええ。かなりの力技ですが、白の姫ならば不可能ではありません。さて、ここからです。間も無く我を完全に忘れたセナに吸い寄せられ、魔物どもが此処に集まって来るでしょう。皆様には、決着がつくまで、何としても波を防いで頂きたい」
幾ら事前に説明を済ませたとは言え、ヒト種の世界に生きる彼らには関係ない戦いなのだ。間違いなくセナ=エンデヴァルを助け出す為の行いであっても、眺めていただけの男達に全ての理解は難しい。
しかしそれでも。
「怒りの上位精霊からセナさんを救い出すための戦いなんでしょう? 最初に言いましたが、僕達はとある依頼で此処にいて、偶然ですけど内容にも合致してます。ですから……誓います。この剣が持つ銘と願いに賭けて」
セウルスが握るのは黒く輝く片手直剣。
シャティヨンはチラリとそれを見た後、コクリと頷いた。
「非力だろうがバイアだって戦うぜ。赤の旋風に雇われたパーティだしな。それが無くても、俺たちはセナに命を救われて、まだ返せてない恩がある。なにより」
「なにより?」
「セナに惚れちまった弱みってやつだ」
ドティルは真面目な顔で言葉を結んだ。一方のシャティヨンには珍しく、ほんの少しだけ驚いた表情。
「な、何だよ。例え異種族だろうと文句は言わせ……」
「……忠告しておきます。それをクラウの、いえ、白の姫の前で言わない方が良いですよ。悲惨な目に遭いたくなければ」
シャティヨンは、僅かな微笑と不吉な台詞を残し、再び戦場に戻っていった。




