51 全ては今日のために
セナ。
セナ。
私のセナ。
何度も心が叫び続けた。
今すぐにでも走り出し、その全てを抱き締めて包みたい。そんな想いに駆られるクラウディアは、それでも動かなかった。
ほんの少しだけ高くなった身長以外、白の姫の外見に大きな変化はないようだ。青が混ざる白の髪、新雪の如き肌、細くしかし均整の取れた身体も。翳ることのない美貌をこれ以上磨くことなど不可能なのかもしれない。
そんな、クラウディア=オベ=オーラヴがずっと想っていたセナは、円形に創り上げた中心にいる。
先程ガクリと腰を落とし、膝立ちの状態で動かなくなった。意識など消えたはずなのに、それ以上倒れ伏したりしない。顔も下に向けているので表情は全く見えず、しかし手の届く距離に殺戮の魔弓アダルベララが放り投げられたまま。それが緊張感を保ち続ける。
「ここまで全てミスズの預言のまま。やはり森の上位精霊は言い伝え通りの存在でしたね、クラウ」
「そう、だね。シャティヨンは信じてたの?」
「もちろんです。彼女からは、セナに対する愛を感じたので」
「まあそれは認めるけど」
「クラウ。精霊に嫉妬など、意味がありませんよ」
「……分かってる」
「さて、これからは僅かな油断も許されません。我等が相対するのは、慈愛などカケラも無い、力の解放された赤と黒。制限の失われたセナ=エンデヴァルがどれ程か、ミスズさえ知らなかったのですから」
「私だって強くなった。もうセナに守って貰うだけだった頃とは違うの」
「ええ、そうですね」
シャティヨンは、セナへの想いを二百年捧げ続けたクラウディアを眩しそうに見る。特にこの五十年は苦しかった。時に追われながら、条件に見合った上位精霊の協力を取り付け、同時に力を蓄えなければならなかったのだ。
全てはこの日、この時のため。
セナと、何より白の姫のために失敗は許されない。
「シャティヨン、精霊視は?」
「森の外縁に到着した様です。間に合いますよ」
「良かった。オーフェルレムは分かってくれたのね」
「王はもちろん、アーシアがいましたから」
「これで全部が揃った。じゃあ皆、ミスズの話した通り、これから戦いが始まるわ。お願いね」
シャティヨンだけでなく、連れ添っていたオーラヴのエルフ達はコクリと頷いた。森の上位精霊の預言を反芻しながら。
あの別れから約二百年。
長命であるエルフとしても、かなりの年月になる。
あの頃に生まれ、大きくなっていった気持ち。それは色褪せ、思い出へと変わってしまったのか。誰かがそう聞いたなら、クラウディアは必ず「どんどん強くなってる」と答える。
セナからの教えの真意を知るため、アダルベララを恐れないほどの力を得る為に、世界を巡りつつも多くの魔物と対峙してきた。知能の高いヤツもいたし、膨大な魔力を帯びた異形も。圧倒的な質量を誇る巨大な竜に至っては、遭遇するだけでも容易じゃない。
ヒト、エルフ、ドワーフ。強者と呼ばれる彼らはしかし、クラウディアからして強く感じなかった。それでも、知識でしか知らなかった魔法、技術、戦略、そして心、他にもたくさん。学ぶべきことはとにかく多い。セナ先生が言っていた「世界の広さ」とはこれだったのだと、月日が過ぎる程に理解を深めていく。
そんな日々の中で再会を願い、シャティヨン達の協力を仰ぎながら、愛しき黒エルフを探し回っていた。
セナは基本的に身を隠し、冒険者としての強大な力を賢しらに見せたりしない。占術師として活動を始めたあとも、基本的生き方に変わりはなかった。
では行方を探すのに苦労したかと言えば……実はそうでもない。
彼女の本質は今も二百年前も変化などしなかったのだ。困った誰かがいたら手を差し伸べ、種族や年齢の違いさえ何の意味も無いと優しく寄り添う。
セナが訪れた国々や街、小さな村や里。その足跡は必ず何処かに残り、出会った者は憧憬と感謝を忘れたり出来ない。まるで救済の旅だと、そんな風に誰かが言った。
だから、クラウディアはいつもセナを感じる事が出来たし、その面影を追い続けて幾度も上書きした。ほら、私の愛する、私のセナは凄いのだ、と。
懇々と湧き出る泉のように、絶え間なく感じる精霊達のように、白の姫の恋慕は高まるばかり。それがただ二百年で積み重なっただけだ。
最後の決戦と言えるこの時は、しかし勝利の約束などない。いかな白の姫といえど、完璧などあり得ないのだ。
だからこそ、五十年前の授かった預言を心に刻むのだ。雪と氷の上位精霊とセナの邂逅した今日このときから五十年前。あの別れから百五十年を数えたある日のことを。
◯ ◯ ◯
森の奥深く、穏やかな空気漂うオーラヴ村。
村は久しぶりに沸き返っていた。それなりの期間の旅の途中、その一行が一時的に帰還したからだ。見ればシャティヨンなどの総勢に変化はない。この旅は危険な目的を伴うが、負傷や脱落者もいなかったようだ。
それだけの貢献を果たした白き少女はしかし、不機嫌な顔色を隠さかなかった。愛しい黒エルフの行方が掴めた矢先だったからだろう。今直ぐにでも走り出して、抱き締めて、二度と離さない。そんな決意をして、向かうところだったのに。
なのに、長老であるザカリアから至急の帰還を命じられたのだ。今までにないほどの強い指示で、流石の白の姫であろうと逆らう訳にはいかなかった。いや、ずっと以前ならばあっさり無視しただろう。しかし彼女は日々成長し、少しずつだが成年へと近付いている。
「到着したな」
ドンと扉を強めに開け放たれて、緑髪を後ろに垂らしたザカリアは振り返った。さすがエルフ、容貌さえも全く変化していない。
「長老、早く用事済ませて。凄く急いでるの」
一方の少女はほんの少しだけ背が伸びただろうか。まあじっくり観察しないと分からないほどで、絶世の美に翳りなどないようだ。
「全く。久しぶりに再会した最初の言葉がそれか、クラウディア」
「うるさい。分かってるくせに。アーシントまで遠いし仕方ないでしょ。今度こそ絶対に先回りするんだから」
「セナの次の目的地がアーシント……熱砂漠は確かに遠いな」
またもすれ違うなど許せないクラウディアは、イライラとザカリアを睨み付けている。今までも情報を掴んでは追い掛けたが、何故かセナはスルリと姿を消してしまう。強力な未来予知で先の出来事を、いやクラウディアそのものを見られているからなのだが、流石にそこまで想像していないようだ。
「それで、なに?」
早く早く。そんな気持ちのままに問い掛けてくる。悲哀の上位精霊の影響を受けていた以前と比べ、感情の発露が非常に分かり易い。しかし、返されたザカリアの返答に、白の姫の視線は鋭い色を纏う事となった。
「落ち着いて聞いてくれ。つい最近、オーラヴの森の上位精霊から預言があった。お前のセナに危機が迫っているそうだ。このままでは命を落とし、我等の前から永遠に消え去ってしまう。だから」
"精霊の愛し子"である白の姫に頼みたい事がある、と。
樹木の中位精霊が道案内をしてくれて、クラウディアとシャティヨン、そしてザカリアは迷う事なく辿り着いた。通常ならば寧ろ迷わす方の存在なのだが、クラウディアは精霊の愛し子だ。一部を除き、その対象は大半に及ぶ。
「クラウディアが一緒だと楽だな」
「そうなのですか?」
「ああ、シャティヨンも機会が無かったか。森の上位精霊は此処の主人であり、簡単に会わせたりしてくれない。それに、精霊達は悪戯好きだ。呼ばれても、丸一日彷徨う羽目になったことがあるよ」
「なるほど、では例えば」
「そんな話はいいから。長老、森の上位精霊はいつ現れるの?」
既にイライラしていたクラウディアが会話を遮った。
「ここで待つだけだ」
「待つだけ? そんなのダメ。もしセナに何かあったら許さないから。ね、シャティヨン。この辺の樹を焼き払おうか。きっと驚いて出て来るでしょ」
至極真面目に、クラウディアは願おうとする。火の下位精霊に「ちょっと燃やしたいから手伝って」と。
≪ハァ……やめなさい、クラウディア≫
突然に溢れ出す膨大な精霊力。それはザカリア達の目の前に立っていた巨木から流れて来る。シャティヨンは初めての経験で、思わず細剣を抜こうとした程だ。
「森の上位精霊ってお爺さんじゃないんだ」
落ち着いたままのクラウディアは、ずっと昔のセナと同じ感想を抱いたようだ。聞こえたのは、精霊力そのものを内包する大人びた女性の声だった。
≪セナちゃんと性格は全く違うのに、考えることが似てるわね≫
「そうなの?」
急に嬉しそうな表情を見せたクラウディア。セナのことになると喜怒哀楽が激しくなるのだ。
≪あのね、燃やすとか物騒な方じゃ無いからね? 私のことをお爺さんと思ってたり、当時の貴女のことを心配して、早く救う手立てをって慌ててたところ≫
「そっか。セナがそんな風に」
ほんのり浮かぶ微笑に合わせ、白かった頬が赤くなる。顔を見慣れたはずのザカリアさえ凝視してしまったくらいだ。そんな可愛らしい表情をするんだな、と。
≪さてと。森の上位精霊なんて他人行儀な呼び方じゃなく、私の事はミスズと呼んで頂戴。セナちゃんはミスズさんって優しく言ってくれたのよ?≫
「ミ、スズ? んー、聞いたことない変わった響きの名前」
全く遠慮などなく、ズケズケと思った事を話す白の姫に、ザカリアは少しだけ慌てる。まあ異世界産の名前なだけに、感想自体は間違っていないだろう。
「ミスズ? 悪いけど親交を深めに来たんじゃない。私のセナの事を早く聞かせて」
嫉妬が混ざる話し方。馴れ馴れしく"セナちゃん"と呼ばれたのが気に入らなかったようだ。
≪……そうね。但し、理由も後で説明するけど、この場で話せる内容じゃないの。今から私の中に来て貰う。いいかしら?≫
「早くして」
躊躇はない。何が起ころうと斬り捨てて、セナを助ける。そんな決意をもとに、クラウディアはミスズに返した。
≪頼もしいわね≫
バキバキと幹の中心が左右に割れていく。その向こう側は光さえない真っ暗な闇があるだけ。それをほんの少しだけ観察したあと、白の姫は堂々と暗闇へと入っていった。そのあとはシャティヨンと、恐る恐るだがザカリアも続いた。