50 綾なす白と黒
セナはその場でアダルベララを構えたまま……前方に駆け出した。
「火の下位精霊。行け」
そして、会話しながら用意していた精霊魔法を放つ。それは願いでなく命令だ。強制力は凄まじく、氷の下位精霊が周囲を満たしていても即座に発動する。
間をおかず、雪と氷の上位精霊が四足で立つ両側に向けて二本の真っ赤な柱が走り抜けていった。指摘する者はいないが、一般的な精霊魔法の威力を軽く凌駕している。ましてや属性的に不利な状況下で、だ。
《なるほど。聞いてはいたが、見事なものだ》
だから、現象を眺めたフェンリルは、感嘆の声を小さく上げたのだろう。高温の炎の壁が左右を塞ぎ、動けるのは前後だけ。酷く分かり易い戦略だが、これから襲うのは精霊を簡単に滅することが出来るだろう弓による攻撃。つまり、悠長に待っているのは悪手となる。
そしてもちろん、セナは容赦しなかった。
「ふっ……!」
鋭く息を吐き、アダルベララの紅弓から矢を放つ。
接近戦とは言わないが、弓矢を使うにはかなり近い。しかも走りながらのため、鋭い鏃は一瞬のうちに目標へ届いた。それは、放った音より速く到達する。
フェンリルは地面をトンと前脚で叩いた。それに合わせて氷壁が出現。一枚、二枚、そして三枚。宙を走る矢は青い壁に突き刺さり、最初の壁を突き抜けた後、二枚目の途中で止まった。
《貫いたか。やはり……むっ》
氷の壁の向こう側、ユラユラと紅く輝き始めたのが見えた。それを認めたフェンリルは、地面を強く蹴ってその場から飛ぶ様に逃げ出す。
そして予想通り、炎の矢が全ての氷壁を抜いて飛び去って行った。アダルベララの能力の一つ、精霊力を纏った強力な精霊矢だろう。下方から上に向かい走ったのはフェンリルの動きを予測していたか。
片膝をついた体勢で、外したのを理解したセナは短く舌打ちをした。しかし直ぐに立ち上がり、次の精霊魔法を放つ。
「土の下位精霊!」
より固く凍り始めた地面を円形に隆起させ、更にバラバラにして反転させる。まるでフライパンの上で焼かれるパンをひっくり返したように。動き辛くなるのを考慮し、先に手を打ったのだろう。流石に丸く整地された全ては無理だったのか、セナを中心に全体の半分ほど。
そして、着地体勢に入ったフェンリルに向けて、土の柱が襲う。先端は鋭く尖っていて、肉体を持つ彼にとっては嫌な精霊魔法だ。
これは躱わせないと判断して、指向性を持たせた精霊力を解き放つ。
《かっ!》
金色の両眼を見開き、前方に発動。直ぐに土の柱は凍り、グズグズと細かく砕けていった。凄まじい低温のため、土精霊であろうと形を保てないようだ。
そのままスタリと降り立つと、セナの行方を探した。ある意味予想通り、さっきまで居た場所に姿はない。
瞬間、右前脚から軽い痛みが走った。見れば二本の矢が足首辺りに刺さっていて、思わずバランスが狂ったフェンリルはガクリと前のめりになってしまう。
それでも、大きな隙になろうと無理矢理に首を捻る。すると、見事な三角形の耳の横を、風の精霊力を帯びた矢が通り過ぎた。精霊力に見合った、無色で、高速な精霊矢だ。
もし喰らったならば、致命傷と言わないが相当な傷を負っただろう。
放たれた方向を向くと、少しだけ驚いた表情の黒エルフ。どうやら完全に回避されるとは思っていなかったようだ。
まだ感情は捨て切れていない。フェンリルはそんな風に思い、矢の刺さったままの右脚をブルルと震わせる。ポトリポトリと細い二本は地面に落ちた。いかなアダルベララと言えど、上位精霊相手の、体毛に覆われた箇所に通常矢では難しい。
「……何で反撃して来ない」
スッと立ち上がり、セナは問い掛けた。
《して欲しいのか?》
雪と氷の王は、変わらぬ落ち着きのある声だ。
「体力切れ……ううん、精霊力の枯渇待ち?」
《殺す気が無いとは考えないか》
「どうでもいい。早く消えてよ」
このままじゃ雪が止まない。それだけがセナの焦燥感を刺激し続けている。そしてその焦りは別の感情へと直ぐに置き換わった。
「みんな邪魔ばかり、して。何で……何で、何で」
その感情により、周囲の精霊達も反応を始めて行く。彼等にとってそれは畏れであり、逃げ出そうと踠いた。しかしそれを許さないと、現在のセナしか操れない力で命令する。その対象はあらゆる下位精霊であり、氷の下位精霊さえも同じだった。
《奴め。相変わらず出鱈目な》
自らの支配下にあるフラウが捕まるのを知り、フェンリルは疲れの篭った声を吐き出した。通常であれば絶対に考えられない事だ。例えば"精霊の愛し子"であっても不可能だろう。
だが、今のところ目論見通りだと、次々に襲う攻撃を避けつつ、フェンリルは会話を続けていく。
《セナ。お前ほどの精霊使いならば理解出来るはずだ。今の自分に何が起きているかを。外でなく内なる精霊力を感じろ》
その投げ掛けに、一瞬だけ濁っていたセナの視線が色を取り戻した様に見えた。しかし直ぐに元の状態へと帰ってしまう。
長めの尻尾を大きく振り、同時に三本の矢を払う。精霊力を帯びた攻撃以外にやられるフェンリルではないが、だからと言って油断など出来ないのだろう。
《僅かだが、まだ可能性は残っている。違う未来を手にしたくはないか》
ほぼ真円と思える広場と森の境目辺りで問い掛け続ける。ときに襲うアダルベララの矢から逃れるため、絶えず移動しながら。防御に徹すれば、どうとでもなる、と。それが油断であったと知るのは、セナが溢す声の意味を理解したときだ。
「未来なんて……一番、大嫌い……」
ボソボソと力無い言葉たち。そこには間違いない怨嗟が込められていた。
突然、セナはアダルベララを真上に向ける。矢は番ていない。だが、フェンリルには見えた。今まで以上の、水の下位精霊達の嘆きが、赤い弓の中に消えて行くのを。
放たれたのは弓にも負けない真っ赤な矢だ。それは上空に向かい、そのまま爆ぜた。そしてその爆発の中から数十にも数えられる線が伸びて行き、周囲のまだ樹々の生える森へと落下していく。一見は花火の様に美しいが、生み出されたのは宿る精霊力らしい破壊である。
《……これほど早いとは》
ゴバッと鈍い音。続いて届くのは熱と風。
周囲の森は黒から赤へと、一気に燃え上がった。これが下位精霊の起こした現象なのか、真実を知っているフェンリルでさえ驚く威力だ。同時に、周囲で旺盛に踊っていた氷の下位精霊が喰われていく。一時的とは言え、炎に負けてしまったのだ。
《心を維持しつつ、既に痛みを失ったか。祝福を受けていながら、やはりセナは稀代の使い手だ》
当たり前だが、その熱風はセナをも襲う。チリチリと肌を焼き、呼吸さえままならない、筈だった。しかし彼女の表情には変化が全く起きていない。何らかの精霊魔法で緩和しているのは分かったが、空間へ伝わる温度なんて誰であろうと帳消しには出来ないのだ。
そう。段々と近づいている。
最悪の、痛みも、恐怖も、死さえ恐れない戦士へと。
「早く、消えて、よ」
更に濁った瞳。変わらぬ夕焼け色のはずなのに、見た者に不安だけを与えてくる。
《少し業腹だが、預言通りに役割を果たせなかったようだ》
フェンリルは笑った。オオカミなのに笑ったのだ。それは自嘲でもあり、同時に満足気でもある不思議な笑み。
そして尖った口を空に向け、全周に轟く遠吠えを発した。
空気は震え、消えたはずのフラウが舞い戻り、弱まっていた雪は横殴りの吹雪へと変わる。雪と氷の上位精霊の精霊力そのものの遠吠えは、不利な属性を一気にひっくり返した。
あれほど燃え上がっていた炎は少しずつ弱くなり、そのうちに消えて行く。火の下位精霊の存在は失われたようだ。
そのとき、ズド、ズドドと何かの音が鳴り、一瞬のうちに遠吠えが途絶える。
それを確認したセナは構えを解き、倒れ伏した巨体へと歩み寄って行った。直ぐそばで立ち止まり、金色の両眼が瞼に隠されたフェンリルを眺める。
「……血が、流れ、てない?」
首元に二本、口蓋の奥に一本。そこに深く突き立った土の精霊を帯びた矢を観察したセナは、自身が騙されたと知った。
「分体、か」
何より、周囲の雪は弱まらず、寧ろ強まっていく。
グッとアダルベララを握り締めた。
そう、今まで相対して来た相手は精霊王そのものではなかったのだ。冷静になれば分かるが、世界そのものを紡ぐ上位精霊が簡単に負けるはずがない。それが常識で、本来のセナならば理解していた。しかし、今の彼女にそれを求めるのは酷であり、再び感情が暴れ始めたのを自覚も出来ない。
解き放たれた雪と氷の精霊力は支配力を強めている。いや、今も倒れた分体から溢れ出て、無限とも思える供給を行っていた。
そして、新たな精霊力を感じたセナは顔を上げた。焼け焦げた、樹々のあった場所で、ユラユラと空間が揺れる。現れたのは、ある意味予想通りの巨体だ。
白に水色が混ざる体毛。セナを超える体高と肌で感じる程の威容が姿を再び見せる。流れて来るのは、変わらぬ落ち着いた声と冷たい精霊力。
《見事だった。今のお前は、世界を見渡しても勝てる者など殆どいない紅弓の使い手であり、精霊使いだ》
パキと何かが折れる音。食いしばった奥歯の一部が欠けたのだろう。それほどにセナの感情は支配され始めている。寒さに凍える肌や先程ジリジリと焼けた皮膚からの感覚も、欠けた歯から伝わる痛みさえ既に失われた。
「……何度でも、殺し、て、やる」
《残念だが、お前の相手は背後にいる》
振り返り、セナが見詰めた先には数人の人影があった。いや、長い耳、白い肌、細い線。弓や細剣で武装しており、全てが女性だ。
「エル、フ」
雪、森、そして幾人かのエルフたち。
セナは突然、酷い眩暈に襲われた。アダルベララを地面に落として頭を両手で抱える。何故か忘れていた記憶が襲い、強い混乱に見舞われたのだ。
「う、うぅ……あ、ぁ」
それでも、消え去りそうな意識を無視して、無理矢理に顔を上げる。
エルフ達の、更に向こう側。小さな影と寄り添う様に立つ背の高い者がいる。白銀の髪を切り揃えた背の高い女性は、左手を細剣の鞘に添え、横に避けて恭しく前を譲った。
そこには、吹き荒ぶ雪にも負けない"白"が、大剣を携えた小さな白い影が立っている。
何よりも深い"恋慕"が混ざった青い瞳。
「私のセナ」
強い"決意"がそんな青に溶けて。
「ずっと、ずっと会いたかった。抱き締めて、もう二度と離したくない。話したい事だってたくさん。だけど、今はまだ駄目」
「う、だ、誰……誰だ?」
「……ごめんなさい。凄く苦しいでしょ? そうしたのは私で、でも、これはどうしても必要なことなの」
その青が憐憫と混ざる。
「ミスズから聞いたよ。だからもう全部分かってる。辛くて、寂しかったよね。でも、あと少しだけ待ってて。昔そうしてくれた様に、今度は私がセナを助ける番だから」
想いの込められた、どこまでも優しい、慈愛溢れる綺麗な声だった。
その美しい真白と青色が何者なのか、記憶の中を再び探そうとしたとき……セナは急速に意識を失っていった。