48 衝動の祝福
気付けば家に帰りつき、セナは長い時間無言で座っていた。
さっきまでのお祭り気分も完全に消え去って、羽織っていたローブは珍しくテーブルに放り投げたまま。
そして、考えたくないのに、思い出したくもないのに、二百年前に見たアレに揺さぶられている。
雨は冷たい雪に変わった。
そして、目の前には愛するクラウディア。
彼女の口から血がドクドクと流れ、泥濘んだ土に吸われる。
眩い青から光が消えて、瞳孔は開き動かない。
何度も聞いた胸の鼓動は届かず、握った手から体温と力が抜けていった。
いつの間にか雪の白が強くなり、白の姫を染める。払っても払っても雪は降り積もっていき、彼女の体を覆い尽くした。
直ぐ横にアダルべララが落ちていて、物も言わずに佇んでいる。でも、血とその赤だけは染まらない。
……心から愛した白の姫。あの娘との日々を、出会いを捨てなければならなかった要因が頭の中に擡げて来る。それは"敵対者"として見た夢であり、ミスズから授かったカードを初めて使用する理由にもなった。
森の中、風と雪、大地に吸われていく血とクラウの命。光が失われた瞳の色を、今でもはっきりと覚えていた。
思わず、セナはギュッと歯を食い縛る。
自分の想いに蓋をして、感情を殺し、逃げて来たのに。なのに、今も忘れたり出来ない。まさかそうなのか、と。
「くそ、くそ……何で、なんで!」
早くオーフェルレムから離れないと。そんな風に思う心の中の声はどこまでも遠かった。
万が一、万が一に雪が降り、あの場所に自分とクラウが居たら。いや、違う。もう既に行こうとしていたのだ。深く考えずに調べて、軽い気持ちのままで訪れただろう。それに改めて気付いたとき、セナは心の奥底からゾッとした。
自分の身体のあちこちに糸が繋がり、何かに操られている。意思の発露は自ら生み出したはずなのに、それは誰かに与えられたように感じる瞬間。
久しぶりの、あの感覚……ヒタヒタと、知らないうちに近付いて来る運命の足音だ。
どこまで追い掛けて来る?
いつまで逃げたらいい?
そんな言葉達がセナを襲う。心は苛まれ、蝕んで来るのだ。
「もしかして……やっぱり自分の所為なのかな……精霊がおかしいのも全部」
セナは身動ぎ出来ない。今直ぐ立ち上がり、荷造りをして、一刻も早くこの国から立ち去らないといけないのに。しかし身体は言う事を聞いてくれなかった。何かが、心の中に生まれつつあるのだ。
「何で……何で自分ばっかり? 何か悪いことした? エル、ミスズさん、教えてよ……」
平穏に過ごしたいだけ。
ただそれだけなのに。
気付けば身体は女になり、元の世界に帰ることも叶わない。こんなこと願ってもなかったし、望んだことさえ。そんな暗い嘆きは誰にも届かず、静寂に包まれた部屋は変わらず佇むだけだ。
そうして少しずつ、波打ち始めた心。
フツフツと奥底から湧き上がる何かがあった。
セナはそれを意識したが、抗う気力なんてもう消えてしまった。その何かに塗り潰されていく。普段の優しい眼差しは失われ、どんよりした視線を南に向けた。
「感じる……ああ、そっか。分かった。アレが、あの獣がいつかクラウを殺すんだ。そうなんでしょ?」
このオーフェルレムに来て、最近見た唯一の、敵対者としての夢がある。
見知らぬ森に吹く風は冷たく雪をはらんでいた。そんな森の奥深くからゆっくりと近付く何か。怪しく光る両眼、低い唸り声が届く。恐らく巨大で、化け物のような獣だろう。きっと名持ちの圧倒的強者だ。普段のセナならば態々戦いを挑むような相手ではない。
「呼んでる。早く、此処に来いって」
呼ぶのは運命か、獣か。
ふふ、ははは。
セナは力無く笑った。
「もういいよ。世界が意地悪するならするで、好きにしたらいい」
運命なんて、定めなんて。だって自分はこの世界の"敵対者"なんでしょう?
轟々と湧き上がる何か。
段々と、セナは冷静な思考が出来なくなる。それさえ意識出来ない。そこに、自分じゃない何かの思考が混ざっていることも。
遠くから、いや直ぐ近くから聞こえた。
"我慢なんてしなくていい"
"この世界に復讐を"
"誰も止めたりなんて出来ない"
"力を授けましょう"
どこまでも澄み切っていて綺麗。孤独も、悲哀も、全てを抱き締めてくれるような、赦してくれるような、そんな声が耳元で囁いた。
これは自分の声?
いま、天秤は大きく揺らされた。
◯ ◯ ◯
もう夜は深まったが、賑やかな街中は眠っていない。そんな建国祭の人混みを抜け、ドティルは目的の場所まで辿り着いた。
だが、あと一歩、足が動かなかった。
「聞くだけだ。セナは関係ないよなって」
セウルスの想定を否定出来なかった自分が情けなく、同時にその可能性を認めてしまっている。いつも笑顔で、優しくて、あんなに綺麗な彼女が悪意を持っているなど、考えるのもおかしいのに。
バイアの皆にも、赤の旋風の連中にも言わず、黒エルフの占術師に会いに来ている。こんな気持ち悪い疑念を打ち消したくて、きっとセナは笑いながら「何の話?」と返してくれるはずだから、と。
そっと窺えば、磨りガラスの窓から淡い灯りが漏れているようだ。つまり、彼女はいま在宅だろう。気配もするし、何かを動かすような物音だって響いている。
「よし……いくぞ」
思い切り深呼吸して、扉を叩こうとした。その時、フッと灯りが消えた。窓から漏れ出ていた光が失われたのだ。
ガチャリ。
そして開いたのは目の前の扉。
当たり前に、現れたのは美しい黒エルフの女性だった。だが、笑顔で話しかけるはずのドティルは固まってしまう。怖気を覚えるような、足元からの震えが襲ったからだ。
まだローブで隠していなかった顔が見えた。
まだローブから見え隠れする身体が見えた。
あの時と同じ真っ黒な衣服。それは冒険者らしき装備と出立ちだ。肩から斜めにかかる革ベルトにはナイフが数本。細い腰にも幾つかのポーチが見えた。後ろ側には矢筒があり、やはり数本の鋭いだろう矢が刺さっている。そして、背中の長細い革袋の中には間違いなくあの紅弓が入っているはずだ。
自分達を助けてくれたあの夜に、シグソーの森で出会ったときの見たそのままの姿。それなのに。
違いは明らかだった。
笑顔なんて全く浮かんでいない。しかし無表情とも違い、橙色の瞳は鋭く尖っているように思えた。不思議と幼く感じた空気も消え去り、揺れる金の髪は剣のように街明かりを反射する。
「……」
セナは間違いなく訪問者を認めたが、挨拶もせず無言のままに鍵を締めた。それがもう既に恐ろしい。全く彼女らしくないのだ。
いや、これが本来の姿なのか。自分に見せてくれた笑顔は作られた存在だったのかもしれない。ドティルは、固まってしまった口と体を意識して、そんなことを思う。
ヒューゴは言っていた。黒エルフにとって俺たちヒトなんて餓鬼と一緒。お前は遊ばれているんだと。
そしてキーランの、恐怖の混じった声がドティルの胸に木霊した。
謎多き過去の冒険者"赤と黒"。かの黒エルフは殺戮の魔弓アダルべララを操り、近付く者は仲間であろうと血の海へ沈む。黒き死を求め、遥か昔から彷徨っている。ああ、何と恐ろしいーーーー
「セ、セナ……」
「……」
「な、なあ」
そっとローブを被り直し、その姿は隠される。そのままスタスタと歩き、建物の角に消えて行った。振り返ることも、前のように手を振ってもくれない。笑顔なんて何処かに捨ててしまったのだろうか。
「嘘だよな? 違うと、違うって言ってくれ……セナ」
ドティルの投げ掛けは地面に落ちて、そのまま消えて行った。
一日に数本出る乗り合い馬車は、建国祭に合わせて増便されているようだ。それを管理する商人も、護衛につく冒険者達も、此処が稼ぎ時だと張り切っている。多少料金を引き上げても文句は出ないし、街道は比較的安全だから尚更だ。
それでも、この一便が本日最後になる。
そんな乗り合い馬車に間に合い、セナは料金を支払った。
この馬車が向かうのは北でなく……南方だ。
馬車の一番奥に深く腰を下ろし、両腕を組んで押し黙る。独特の、そんな鋭い空気に当てられたのか、他の乗客から漏れていた話し声も消えた。
セナは自分が何をしたいのか分かっていない。「雪なんて降ってないじゃないか」と確認するためなのか、探し回って原因を断つつもりなのか、それとも森そのものを、あの夢に見た化け物を殺すためだけに進むのか。
ただ奥底から湧き上がる何かに追い立てられて、それは無限の力を与えてくれている。そんな不思議な力はある種の万能感を齎し、強い高揚さえ覚えた。セナはそれに身を任せ、計画なんて考えてもいない。ただ呼ばれるままに、あの森に行けば良いと、そんな風に進むだけ。
もう何が起ころうと関係ない。邪魔をするなら、このアダルべララで全部を壊してしまえばいい。
いや。
壊してやる、と。
セナを乗せ、馬車は聖都レミュから離れていった。