26 夢現
約二百年前。
それは非常に長い月日であり、黒エルフであるセナにとっても同じだ。
幾つかの記憶は思い出へと薄く変わり、殆どが遠い場所へと納まる。頑張って思い出そうとしないと、其れ等は手元に戻ってこない。
だがそれでも、何かのきっかけで鮮烈な映像となって視界を覆い尽くすのだ。
セナの手に、先程思わず買い入れた「夢護り」があった。エルフの住う森にしか生えない植物の蔦。その蔦で編んだ小さな小さな籠状のカタチ。その中には透明度の低い宝石がコロコロと一つ入っている。
「……オーラヴ、か」
今も愛し、忘れることなど出来ないあの娘。彼女の名にも刻まれた村だ。
別れた当初は幾度となくカードを使い、その安否を気遣うと言い訳を唱え見ていた。先の未来を眺めて、佇む白の姫をただ見詰めれば、想いは強く上書きされる。
彼女は現在世界中を旅しており、都度背景は変わった。そして、長い時間の中で耳に入ってくる。白の姫クラウディア=オベ=オーラヴが未だに探していると。
あれだけ酷いことをした自分に何故執着しているのか、セナは今もよく分かっていない。復讐なのか、それとも抗議を伝えるのか。セナが考えるものとして"再試合を挑んで来る"と言うのがあるが、あの負けず嫌いな戦闘狂ぶりだから最も可能性が高いと思っていたりする。そう、一番最後に戦ったときはセナの圧勝だったから。
「もう絶対に勝てないけどな……精霊の愛し子になんて」
二百年前でさえ、いわゆる腕力に圧倒的な差があった。精霊の補助を無意識に受けた白の姫は、信じられない重量物もヒョイと持ち上げるのだ。その上で精霊魔法にも制限がなく、餌となる魔力も不要ときている。つまり、間違いなく世界最強のエルフである。
「シャティヨン、何で説得しないんだろ……事情は分かってるだろうに」
"敵対者"としての能力を使い、クラウディアを死から遠去ける。その為に再会などあってはならない。未だ未練タラタラなあの娘に会ってしまったら、セナが"旨み"を得たと判断される可能性だってある。鈍感なくそったれな世界に気付かれないようにしないといけないのに。
しかし、寧ろシャティヨンは協力的らしい。まあ、それが再試合云々を疑う理由だが。クラウディアの安否に関わるセナに再び会わせようとするなど、運命自体を断ち切る手段と捉えているのではないか。
例え旧来の友人であろうとも、彼女ならばきっと決断する。それだけの忠誠を白の姫に捧げているのがシャティヨンだ。
クラウディアの戦闘への執着。シャティヨンの冷静な思考。あの娘を悲しませてしまった後悔。その涙と叫びを見せた相手への憤怒。其れ等は長い年月の中で醸成され、鋭く研がれたのではないか。
そもそも誰であっても"揺り戻し"を真の意味で信じる事は出来ないだろう。アレは敵対者以外に理解出来ない異能である。そう、カードを授けてくれた森の上位精霊のミスズでも無い限り。
「それとも、まさか……まだ好き、とか」
愛するクラウディアを想うたび、その自分に都合の良い妄想が頭の中に浮かぶ。つまり二百年もの間、クラウディアが未だに好きでいてくれる、と。
「いやいや、ないない。こっちは反則技でクラウを盗み見てるけど、向こうからしたらずっと会ってない相手だぞ? 普通に考えて、もう過去の人になってるはず。そうなるとやっぱり再試合? いやだなぁ」
全盛期の自分だとしても、現在の白の姫に勝てる保証はない。ましてや今は、冒険者を辞めてから百五十年が経過しているのだ。間違いなく腕は衰えているだろうし、そもそも戦い自体が好きじゃない。
「はぁ……あ、明日お客さん来るんだった。早く寝ないと」
色々考えたり思い出したりしていたら、随分と遅くなってしまったらしい。徐に立ち上がると、セナは寝支度を始めた。
そう。
彼女は知らない。
あの時、クラウディアに対して行った酷い仕打ち。その真意を、愛する気持ちを、その全てをシャティヨンが伝えたことを知らないのだ。
成長したクラウディアが、セナを悲しませる運命すら斬ろうとしていることを。
文字通りの"世界"に戦いを挑もうと、美しき白の姫が力を蓄えていることを。
どれほどに深く愛されているかさえも。
◯ ◯ ◯
宵闇。
月明かりもなく、星の光だけが降っていた。
セナは何故か外に居て、肌寒さを感じる。少しだけ震えた体を自ら抱きしめ、両手で肌を擦った。
外なのに、薄い寝巻きらしき布一枚。下着も透けて見える。見上げると、フワフワと雪がチラつき始めた。
ああ、夢だ。
セナは思った。
オーフェルレム聖王国は南方に位置し、冬でさえ雪など殆ど降らない。なのに自分が立つ森に白が舞っているのだ。
知らない森。懐かしいオーラヴでなく、訪れた事もない。ザーと風が吹き抜け、夜行性の鳥達の囀りも止まった。
夢と理解して、セナは冷静に考えることが出来る。彼女にとって"夢"はただの幻でなく、ある種の呪いだ。だから、幾度もの経験から思考を乱したりしない。そのように鍛えるしかなかったから。
何が起きるのか、敵対者としての力の発露なのか、判断を迫られる。中には馬鹿らしいほどの"ただの夢"もあるからだ。
チラついていた白が明確な雪へと変化していく。横殴りの風に混ざる冷たさは、其れが夢なのかと不安を煽ってきた。
寒い。夢なのに酷く寒い。
「……あれ、は」
樹々の合間に見えた。最初は薄ら、暫くすればはっきりと。
それは二つの光だ。黄金に光る点が浮いていた。少しずつ、少しずつ、近づいて来る。
続けて聞こえたのは唸り声。低く、お腹に響き、セナにも分かる。猛獣がグルルルと喉を鳴らし、威嚇するときのもの。つまり、あの光は星明かりに反応する二つの獣の眼だ。
この世界の獣は強者に分類される。魔物が存在しようとも順応した種なのだ。中には魔物さえ統べる王者さえも生息している。
二つの光の浮かぶ高さから、身長の高いセナをも上回る巨体と分かった。間違いなく、武装をしていない今は逃走するべき相手。森に住むあのクラスの獣には精霊魔法さえ決定的でないからだ。
だが、セナは動かない。いや、体が言う事を聞いてくれなかった。夢らしく、緩慢な反応しか返してくれないのだ。
もう世界は吹雪へと変貌している。肌に当たる雪は痛い程で、瞼を開いておくのも難しい。それでも、この現象が何を意味するのか、何としても知る必要があると確信していた。
間違いない。これは敵対者としての夢だ。
雪を踏み締める音さえ風に掻き消され、それでも闇から威容が姿を見せようとした瞬間。
もう少し……そう思ったとき、パチリと瞼が開く。随分と見慣れてきた天井が映った。
ラウラに借りた住居兼店舗の寝室だ。
「……くそ、見失った」
間違いなく未来予知だが、余りに情報が少ない。見知らぬ森、雪、風、そして妖しく見詰める二つの光。たったそれだけ。あの化け物染みた獣は、確実に圧倒的な強者だ。アレほどの存在ならば一目だけでも確認したら正体を掴めただろうに。
いや、だからこそ見れなかったのだ。占術に於いても、対象が特別であればあるほどに効きが悪くなる。多くの経験からセナは学びを得ていた。以前の、エルジュビエータやクラウディアと出逢った頃とは違う。
いつもする様にベッドから立ち上がり、寝汗を拭く為に寝室から出る。敵対者として見る夢は精神的圧力が強く、大抵は気持ち悪いほどに汗を掻くのだ。今回も例に漏れていない。
水に清浄な布を浸して硬く絞り、それを持って寝室に戻った。下着姿になると首元や腕を拭う。両胸は片方ずつ持ち上げて、その下側も同じようにした。此処は汗が溜まりやすいのだ。
「んー」
そうして体の隅々まで拭くと一息ついた。
ふと見れば、手に入れた"夢護り"がテーブルに置いてある。オーラヴの誰かが作成したらしいそれは、無言で佇んだまま。もし顔見知りが作ったならば、ちょっと文句を言いたくなるセナだった。
「ね、悪夢から守ってくれるんじゃなかった? 買ったその夜に見たんだけど?」
理不尽と思うが、それくらいは許して欲しい。そもそも敵対者が見る夢が何なのかさえ分からないが。
魔力も変わらず込められているし、丁寧な作りから作成者の素晴らしさも理解出来る。でも、誰も聞いてないのだから仕方ないのだ。
「クレーム受けてくれないだろうなぁ。あの親父さんに返品に行ってやるぞ、ホントに」
冗談を独りで呟きつつ、心は落ち着きを取り戻していく。
「……アイツ、何だったんだろ。あのデカさなら有名どころと思うけど」
四足歩行でありながら、視点はセナを超えていた。もし立ち上がれば見上げるほどの高さに達するだろう。間違いなく地域最強に数えられる、出来るなら遭遇したくない相手だ。アダルベララを装備し、事前に察知すれば勝ちを拾えるが、不意打ちを喰らったら苦戦は必至。場合によっては美味しくペロリと食べられる。
「まあ考えても仕方ないか……あれだけ寒いならオーフェルレムの近くじゃない」
何よりも、愛するクラウディアの姿が無かった。それがセナを不安にさせない。森、雪と来たら二百年前に見たアレを思い出すが、今回はまた別の何かだろうと考えた。誰かの死や不幸の場面も無かったし、あとは自分が注意すれば良いだけ。
当面はオーフェルレム周辺で動くし、次の目的地だって決まってない。元々寒い地域は避けていて、回避出来る類の未来視だとセナは判断した。
それが間違いだったと知るのは、まだもう少しだけ先のことだ。




