(23)別離の朝
鍛錬用の細剣を手に持ち、毎朝の日課のために扉を開ける。
白の姫に剣を捧げたが、その剣が錆びついては意味がない。たったの一日も欠かさず、シャティヨンは鍛錬を繰り返していた。
まあ現在は安全なオーラヴの村内で、クラウディアの側には"赤と黒"が居る。彼女に危険が差し迫るのは考えにくいし、仮にあってもセナが対処するだろう。それほどの実力と経験をあの黒エルフは備えているのだ。
シャティヨンは心からセナに感謝し、同時に羨望の気持ちを持っている。
彼女が教導者として訪れて間もなく、クラウディアは鬱屈した日々から解放された。最近は眩しい笑顔をよく浮かべている。話をすると、セナがこうしたとか、こう言ったとか、もう止まらないくらいだ。
それだけでなく、精霊魔法にも目覚め、近い将来シャティヨンやセナも超える強さを手に入れるだろう。
そして、それを齎したことを羨ましく思うのだ。クラウディアの心の殆どを占有し、あの笑顔が向かう先はやはりセナばかり。
「ふふ、これも嫉妬なのでしょうか」
扉をしっかりと閉めて目的地へ向かおうとした時、シャティヨンは気付いた。
寒い季節の早朝、まだ空は陽を迎えていない。そんな光の乏しい時間に来客の姿があったのだ。
「……セナ?」
間違いなくセナ=エンデヴァルだ。
だが、不自然な点もある。完全な冒険者装備に身を固め、更には暗い色合いのローブに肩掛けの革袋。当たり前にアダルベララも見えるし、ナイフやポーチ類も忘れていない。
冒険者としての依頼? いや、まるで旅装だ。
そして何より強い違和感を覚えたのは。
周りを覆う淡い暗闇を思わせる表情だった。思い詰め、全てを捨てて、何かを諦めてしまったような、そんな感情の消えた表情。頬も痩けているし、目の下の隈も確認出来る。まるで病人だ。
クラウディアから体調の不安を聞いていたが、何かが噛み合ってない、そんな違和感を感じた。
「シャティヨン。約束してなくて悪いけど、少し時間を貰えるかな」
「それは構いませんが……」
「ありがとう」
「中の方が良いですか?」
「ううん、此処でいい。話はそんなに長くないから」
言葉の抑揚が余りに少ない。セナらしくないのだ。
「それで、話とは」
「村を出るよ」
「……何ですって?」
「オーラヴから離れる。それを伝えに来た。あと、ほんの少しのお願いも」
「なぜ急にそんな事を? クラウも連れて行くのですか?」
「別に急じゃないよ。教導者としての依頼は完了したし、私は元々この村の者じゃない。見たら分かる通り、黒エルフだから。あと、クラウディアはもちろん連れて行かない」
普段冷静なシャティヨンでも動揺が隠せなかった。セナが"クラウ"と愛称を使わず、突き放すような冷たい響きで話すからだ。
「な、何を……何を言ってるのか分かりません。今のクラウはセナと過ごすからこそ幸せなのです。それなのに別離を選ぶなど、一体どうしてしまったのですか?」
「カルフルゼで最初に約束したはず。教導を辞めるのも、離れるときも止めないって。そしてその時を決めるのは私。そう契約したよね」
「話を逸らさないでください!」
「……冒険者にとって契約は大事だよ」
「クラウから最近様子がおかしいと聞いていましたが、まさかこんな事を考えていたなんて。セナ、契約とは言え、理由も言わずに去るなど許せません。しかもアナタらしくな……」
シャティヨンは思い出した。古い馴染みである老ドワーフのヴァランタンからも聞いていたのだ。そして目の前のセナも言っていた。「信じなくて良いよ。運命がどうのって戯言に聞こえるだろうから」と。そう言っていたのだ。確かあれは……
「未来の予見、そして揺り戻し」
「……」
「セナは、悪い事を感じたらすぐに村を去ると、あの時そう言いましたよね?」
答えない。無言を貫いている。だが、だからこそ雄弁に物語っていた。
「何かの予感が働いたのなら、相談をすれば良いじゃないですか。カルフルゼに居た頃のようにセナはもう一人ではありません。私達ならば共に危機を脱することが出来るでしょう。長老や私だって必ずアナタを守ります。クラウを解放してくれた恩は忘れていません」
「……ありがとう。でも、もう決めたことなんだ」
「何故、何故そんな……クラウが悲しみます。また悲哀の上位精霊に眠らされたら誰が起こすのですか?」
「あの娘はもう精霊に主導権を取られないよ。それは教導者として保証する」
シャティヨンは感じた。決意とも違う、それでも動かない意思を。だが、だからと言ってこんな別れを許せる訳がない。自分はともかく、クラウディアが耐えれるとは思えないからだ。白の姫はセナを愛し、依存し、傾倒している。全ての精霊とどちらかを選べと言われたら、悩む素振りもなくセナを取るだろう。
だが、セナもクラウディアも愛している。それは仲睦まじく過ごす今までの日々を見れば明らかだ。そんな彼女が冷たい別れを、悲しませるのも分かった上で強引に進めようとしている。それは余りに不自然で、だからこそシャティヨンは思い当たった。
もう一度セナの表情を観察すれば、その想像は確信へと変わる。
「予見は自らの危機でなく、クラウの? あの子の未来の危機を知ったのですね? そして、その要因にセナ自身が強く関わっている。そう、そうでなければ理屈が通りません。今やこの村のどのエルフよりもあの子を愛するアナタがクラウを連れず、このように去ろうとするなんて」
やはりセナは何も話さない。
だが、シャティヨンはこの薄闇の中で見た。セナの瞳が揺れ、そして伏せられたことを。暫くの沈黙のあと、そんなセナは感情を無理矢理抑えた声を返して来る。その声は力なく、ただ悲しい。
「……シャティヨンにお願いがある。目が覚めたクラウディアを村の外れまで連れて来て。話は私がするから、何があっても邪魔をしないで欲しい。それと……あの子を……クラウを支えてあげて」
「セナ!」
「じゃあ、お願い」
すぐに背中を見せ、立ち去って行く。
シャティヨンはセナの深い苦悩を背中から感じ、思わず問い掛けた。
「せめて教えてください! クラウを大切に想っての決断なのか、あの子を愛した気持ちに嘘はないと!」
背中を見せたまま立ち止まり、そして、絞り出す様に答えた。
「言わないでよ……そんなの……当たり前じゃないか……クラウは、今の私にとって何よりも大切な……」
震えている。
拳を痛いほどに握り締めていた。
それなのに、クラウディアの元から立ち去ろうとしている。その未来の予見が如何にセナを蝕んでいるか、シャティヨンはその恐怖を嫌でも理解させられた。
「シャティヨン。お願いが一つ増えちゃったね」
振り返り、泣き顔を隠さずセナは言う。
「……何ですか?」
「私が、今もこれからも、クラウを大切に想っていることを」
「……」
「絶対に言わないで欲しい。あの子を大事に思うなら、剣を捧げたなら、約束して」
何故だろうか。シャティヨンは……その願いをどうしても否定出来なかった。
◯ ◯ ◯
「さむ……」
吐く息が白く煙って、寒さが増しているのを実感する。
早起きしたクラウディアは、まだ薄暗い道を早足で歩いていた。何度も使っているので少々暗くても不便には感じない。
今でもセナに悪いことをしたと、心の中はモヤモヤしている。話したくないだろう内容を、拘束してでも求めたからだ。押さえ付けた両手が痛いと訴えられた時は、本当に悲しくて辛かった。
それでも、許せなかったのだ。
話してくれないことを、頼ってくれないことを、助けてあげたい気持ちが伝わらないことを。
今日はちゃんと話してくれるらしい。約束すると言っていた。だから、それが破られることは絶対にない。クラウディアは自分の全てを賭けてセナを信じている。
やはり何かの病だろうか。
それとも何か怒らせるようなことをして、注意も出来ずに困っている可能性も考えられる。正直なところ、若干の心当たりがあるのだ。
暫く巣篭もりを我慢するよう決めたが、クラウディアは最近もっと早くならないか考えを巡らせることが増えている。偶然を装って胸を触ってみたり、不自然にならない程度に肌に触れたりしたが、やっぱりバレているのかもしれない。黒エルフは百歳まで巣篭もりを禁じているらしく、それに抵触するのが想像よりも良くない事だったら。禁忌に属する行いならば尚のことだ。
「セナの性格から、注意をするのがキツいのかも」
あんな姿形をしてるのに、セナはとにかく恥ずかしがり屋で、簡単に言うとウブなのだ。あれだけキスをしてるのに慣れた感じがしないのも、それをバッチリ証明している。
やっぱり巣篭もりが原因かも。もしそうなら全力で謝らなければいけない。イヤだけど、百歳まで我慢しよう。
そんな風に色々と考えを巡らせていれば、時間などすぐに経過するものだ。目の前には扉があり、いつもと違い優しくノックする。
返事はない。ただ鍵は開いている。
今更遠慮などしないから、あっさり部屋に入って姿を探した。
もし寝坊してるなら起こさないと。いや、そっとベッドに侵入して抱き締めよう。最近セナとの距離が出来てしまい、あまり触れていないのだ。
問題の全てを斬り捨てるつもりのクラウディアは気持ちを明るくしていた。
「あれ?」
テーブルの上に一人分の朝食が用意してある。その横には置き手紙も見つかった。
「……先に食べておいて。すぐに戻るので待っていてください、か」
セナの手料理は堪らなく美味しい。それは冷めていても変わらない。やはり遠慮なく座り、クラウディアは朝食を摂り始めた。




