(15)森の大精霊
≪初めまして、セナ≫
通常の肉声でなく、精霊力そのものなのか。大きくもないのに耳と心に響いてくる。恐らく耳を完全に塞いでも遮る事は不可能だろう。
なのに、心地良い。そんな声だった。
その幹はセナが数人手を繋いでも届かない太さ。木肌は不思議としっとりした見た目で、声で女性と分かるから、それが関係しているかもしれない。
無限に思える葉の数々は「翠葉」と呼ぶに相応しい美しさだ。ぼんやりと光って見えるのが不思議なところか。
一歩ずつ一歩ずつ柔らかな腐葉土を踏み締め、ゆっくりと進む。そして、森の主にして大精霊である威容の前にセナは立った。
「……初めまして。すでにご存知だったみたいですが、私はセナ。セナ=エンデヴァルと言います」
≪いやね。畏まらないでくれる? 私、そういう固いの苦手なのよ≫
「え? あ、えっと、はい」
持っていたイメージと随分違うため、セナは思い切り戸惑い吃った。勝手に思い込んでいたのが悪いが、尊大な喋り方をするお爺さんみたいな精霊と考えていたからだろう。
≪親愛の証に"セナちゃん"て呼んでいい? いいわよね?≫
「セナちゃん……? あー、ご自由に?」
≪ありがと。じゃあ私のことは"ミスズ"と呼んでちょうだい。難しいなら"お姉ちゃん"でも"お母さん"でもいいけど≫
「じゃあ、ミスズさんで」
やたら馴れ馴れしい上に、距離感が全く掴めない。セナの精神は男のままなので、女性としては普通なのかと勘違いしていたりする。
≪あら、それも良いわね。慣れた感じも気に入ったわ≫
「私の故郷で聞いたことのある名前に響きが似てるので……それが理由かもしれません」
美鈴とか深鈴とか、女性らしい懐かしさを覚える名前だとセナは思う。
≪黒エルフの? でもセナちゃんは直ぐに村を追い出されたでしょ?≫
「まあそうなんですが」
そんな事まで把握しているのかと、セナの警戒心はどうしても強くなってしまう。森の上位精霊らしいと分かっていても、自分の半生を全くの他人に知られているのは気持ち悪いものだ。
≪もう一つの方だよね。ずっと昔のことだけど、やっぱり懐かしく感じるのかな≫
鼓動が止まったと錯覚する。この世界に堕ちてきて、誰一人明かした事のない秘密を簡単に言い当てられたのだ。思わず後退りしたが、今はクラウディアの事が最も重要だと、グッと耐えて震える唇を動かした。
「……もう一つ、とは?」
≪お味噌汁、懐かしいわね。あっちに比べたらこの世界って大変だったでしょう?≫
鳥肌が立ち、同時に小さな安堵も感じる。
「……その言い方、まさかミスズさん」
≪そうよ? 私もセナちゃんと同じだもの≫
やっぱり。
漸く納得感が生まれ、力が抜けた。同郷の者と知れば自然と安心感まで加わる。ヘナヘナと腰から力が抜けて、その場に座り込んだ。
「初めて会いました。あっちの世界の人に」
≪私はもう木だけどね≫
長老のザカリアが言っていた。オーラヴのエントは変わり者で、意味不明な言葉を使うときがあると。そもそも別世界の生まれなのだから当然だろう。もう感性からして違う。
色々と興味が湧くし、たくさん情報交換だってしたい。元の世界の話が出来たなら、懐かしくて話題も尽きないだろう。だが今は、そんな事をしてる余裕など存在しない。
「ミスズさん。私の目的を知ってますよね? お願いです、クラウを救う方法を教えてください。もし対価が必要なら何でもしますから」
≪セナちゃんみたいな綺麗な女性が"何でもします"なんて、絶対に言っちゃだめよ。私がもしエロエロ変態爺いだったら大変なことになるんだから≫
「……今は冗談に付き合ってられません。クラウが、あの娘が死んでしまうかもしれない、真面目な話なんです」
≪あらあら怖い話ね。死ぬなんて≫
「悲哀の上位精霊に取り憑かれて……! ミスズさんなら分かるでしょう!」
≪悲哀の上位精霊ちゃんは、この世界でも一二を争う優しい精霊よ。意味もなく傷付けるなんて絶対にしない≫
「え……?」
意味が分からない。アレが優しい? 思い出すのは如何にもどんよりした灰色の長い髪。無理矢理眠らせたであろうクラウディアを、逃がさないと両手で抱き締めるようにしていた。数ある伝承の中で、かの精霊は有名な部類に入るのだ。
セナの頭に疑問符が飛び回り、思わず呆然とした。
≪泣くと少しだけ辛い事を忘れるでしょう? 悲哀の上位精霊ちゃんはそうして癒してあげてるのよ≫
「で、でも、無理矢理眠らされて……」
≪たくさん泣いたら誰でも疲れてしまうもの。まあ確かに、今回はちょっとだけ過保護かしら? 悲しくて、見てられなくて、だから強引に休ませたのね≫
「つまり、クラウは死なない……? 心が死んだりも?」
≪しないわ≫
さっきとは違う意味で力が抜けた。セナは両手で顔を覆い、思わず泣きそうになるのを我慢する。何だかよく分からないことも多いが、一番重要だったクラウディアの命が守られるならそれで良い。
「良かった……クラウは死んだりしない、しないんだ」
≪心が痛みを忘れた頃、目を覚ますでしょう≫
何か引っ掛かる物言い。思わず顔を上げ、目の前に鎮座する大木を見た。
「どういう意味ですか? まるで」
目覚める時期が読めないような、そんな不安が襲ったのだ。
≪悲哀の上位精霊ちゃん次第だもの。でも、エルフだから時間なんて大して気にもしないし、幸いセナちゃんも黒エルフ。ヒト種じゃなくて良かったと思いなさいな≫
背中に氷水を浴びた様な、そんな感覚。宿る精神は確かに元日本人の女性なのだろう。でも何か、何かが狂っている気がした。そう、彼女はヒトでなく、エルフでもない。精霊なのだ。精霊には善悪の区別がなく、その在りようも、生命の意味さえも違う。
「ミ、ミスズさん、聞いてください。あの娘はまだ若くて、これから沢山の経験をしていく、凄く大切な時期なんです。そんなときに眠ったままなんて、可哀想だと思いませんか?」
≪ふうん?≫
「ですから、何か目を覚させる方法を」
結局最初の質問に戻ってしまったが、そんな違和感も今は捨て置くしかない。
≪セナちゃんが言うほど子供とは思えないけど。私が見る限り、ずっとずっと成熟してる。まさか、クラウディアの心の内側を、欲望を知らないのかしら≫
「……? ミスズさん?」
≪まあ良いわ。質問は目を覚ます手段ね。悲哀の上位精霊ちゃんが眠らせるほどの悲しい想いだもの。確かに長い間消えないと考えていい。つまり、その悲しい想いってやつを取り除く事が最良の方法となる≫
あっさり教えてくれたが、具体的にどうすれば良いのか。取り除こうにもクラウディアは眠ったままで意思疎通が出来ないし、そもそもの原因だって不明なのだ。更に質問をぶつけようとした時、ミスズはセナに言葉を重ねてきた。
≪私に聞くまでもないことよ。セナちゃんなら出来るでしょ。本当に分からないのなら、何度でも自分の心に語り掛けなさい≫
噂に聞く謎かけだろうか? 森の上位精霊は何故か遠回しな言い方や謎かけを使い、煙に巻くような答えを返すと言われる。
≪さてと。そちらの用事はお終いね≫
これ以上の質問には答えないと言う、明らかな意思と精霊力が乗った声。ザカリアから託された機会は失われたのかもしれない。セナは恐怖に駆られ、身体が震えた。ついさっきまで感じていた同郷の者という気安さも、今は遠くに感じられる。
≪本題に入りましょう。長い間待ってたのよ、セナ=エンデヴァル≫
いつの間にかザワザワと蠢く樹々がセナを囲い、緑の牢獄と化している。退路を絶ち、逃す気がないのは明らかだった。再び強い精霊力が収束して、空間さえも埋め尽くされていく。
森の上位精霊のミスズ。そう、彼女の目的はクラウディアでなく、最初からセナ=エンデヴァルそのものだ。
「あ……」
≪ザカリアちゃんに託した言葉の通り、セナちゃんが来てくれて凄く嬉しいの。アナタがこの世界に堕ちてからずっと、ずっと見ていた。さあ、早く。近くに来て≫
ここから離れないと……!
幾本もの蔦が走り出したセナの手足を縛り、そんな望みも許されない。幾ら暴れても自由は効かず、アダルベララさえも背中から奪われた。魔法を行使しようにも、精霊達の存在を感じられない。いや、森の上位精霊の精霊力が余りに強すぎるのだ。
腐葉土を踏み締めていた両足も宙に浮いた。踠いても踠いても、ゆっくりと身体が彼女の元へと運ばれていく。
思わずミスズの方を睨むと、ギシギシと幹の真ん中辺りが軋み、次の瞬間にはバキバキと左右に開いた。それはまるで獲物を喰わんとする獣のように。
「ヒッ……!」
もう森の上位精霊が何をしたいのか聞くまでもない。間違いなく、ミスズはセナを取り込もうとしている。
「くっ……ミスズさん! やめてください! 何でこんなことを!」
≪痛くないから怖がらないで。そうね、私は話をしたいだけよ。だから大丈夫≫
「や、やめて……早く、クラウのところに……!」
そんな悲鳴ごと、セナは再び閉じていく幹の中へ。真っ暗な空間へと消えていった。
キャラ紹介13-①
オーラヴのエント。
その他の上位精霊と同じく、非常に強力な精霊。
伝わる声は女性のもので、ミスズと名乗った。
どうやらセナと同じく元は日本に生きていたらしい。
樹齢万年を数える樹木が複数存在する森の主であることから、彼女自身も同等かそれ以上の年齢と考えられる。
ザカリアに言葉を託し、セナをこの場所に誘い込んだ張本人。目的は"お話"をすること、らしい。
悲哀の上位精霊に"ちゃん"を付けて呼ぶなど、お茶目な一面も持つ。




