(11)私だけのものに
空を見上げれば、薄闇が樹々の合間に訪れようとしていた。セナの瞳の色と同じ空は、もうすぐ深い群青と黒に染められるだろう。オーラヴ村は深い森の中にあるが、丁寧な管理と伐採により、空を見渡せないほどじゃない。
白の姫クラウディア=オベ=オーラヴは、そんな小径をテクテクと歩きながら手元に視線を落とした。つい先程、現在の教導者であるセナ=エンデヴァルから渡された物だ。「オベントウ」と言うらしいが、聞いたことのない単語で、きっと黒エルフ独特な何かだと思っている。良い匂いもするし、帰って食べてと言われたので、中身の判別は簡単だ。
今日は特に印象的な教導だった。
今もフワフワした暖かさを覚えていて、最近忘れていた満足感もある。予想を超える強さはもちろん、何よりも心地良い。セナのそばにいる時、水浴びをした後のような開放感さえ感じるのだ。
あの剣技は昔馴染みに教わった技術らしいが、それだからと納得など出来ない。習ったら誰でも強くなるならば、世界は強者で溢れているだろう。当然にあの黒エルフの持つ才能と、教えたエルジュビエータと言う名のエルフが特別と分かる。
明日からの教導に期待が膨らむ一方だ。
いつか本気のセナ先生と戦いたい。あんなに強いのに、シャティヨンや長老とも違う。アダルベララの一撃はどれほどなのだろうか。精霊魔法を織り交ぜた戦闘なんてどんなに美しいのか。
成長なんてしたくないと考えた日もあるが、あんな大人になれるなら頑張っても良いと思える。
そう、大人だ。
自分の我儘に溜息一つだけで済ませ、自慢の刺突や戦いさえも受け流す。料理も美味しいし。
そんな沢山のことをツラツラと考えながら歩くことも楽しい。クラウディアは今、自分より大きくて強い存在に、そのままで良いと包まれているのだ。
「あ、明日の予定」
日が昇ったらで良いのか、お昼に合わせたら良いのか聞いていない。セナは確かに教導者だが、ザカリアと話したり、シャティヨンとの時間もあるのだ。ただ座って待つなんて苦手なクラウディアは、立ち止まったあとすぐに向きを変えた。
先生に予定を聞きに行くだけ。
そう、それだけだ。
クラウ、どうしたの? そんな風に笑顔を浮かべ、優しく迎え入れてくれる。
少し早足になった気がした。
◯
◯
◯
セナが住う仮の家はお風呂がなく、脱衣所や体を清める専用と言える場所さえも用意されていない。
仮住まいな上に、入浴する文化のないエルフだから仕方ないが、セナが唯一満足出来ていない点だろう。ちなみにだが、エルフは綺麗好きで、毎日身体は拭くし、お掃除もばっちりだ。洗剤に該当する多種多様な植物を利用して、香料や染色に役立つ木の実などもあったりする。
だが、やっぱりお湯に肩まで浸かりたいのがセナだ。残念ながら叶わぬ願いだが。
そんなセナは体を清める準備をしているところだった。もちろん清潔な布を用意。更には何度かお湯を入れ替えるつもりなので、ちょっと多めに沸かしている。
クラウディアにお弁当を渡し、部屋の簡単な片付けも終えた。あとは体を拭いて眠るだけだ。
だが、何となく、動きが鈍い。
その理由をよく分かっているセナは、出来るだけ考えないようにしていた。その想いに捕まってしまったら、感情や身体が言う事を聞かなくなると知っている。
でも、それも難しい。
つい話してしまったから。あの娘のことを。無理矢理でも考えないようにしていたのに。
「エル……」
私が助けに行くまで死なないでよ? 寝覚めが悪くなるの嫌だもの。
アンタ、身体ばっかり大人のくせに、ホント弱々ね。仕方ない。嫌だけど私が守ってあげる。そうね、その代わり、今日から私をお姉ちゃんて呼ぶのはどうかしら?
ほら、あっち向いて。背中を拭くから。だいたい洗い方が乱暴なのよセナは。ちょっと、何を恥ずかしがってるの? そんな立派な胸とお尻なのに、心は男の子みたいね。その反応なんて、うちの村にいた悪ガキ達にそっくり。
さすが黒エルフ。身体だけは頑丈ね、か弱い私と違って。ね、泣いたりしないでよ。私なら大丈夫だから。もう痛みだって感じないもの。
何度でも何度でも木霊する。エルジュビエータの声が、セナの胸に。
下着まで外した背中は露わなのに、誰も拭いたりしてくれない。当たり前だ、今は自分一人なのだから。恥ずかしがることも、擽ったく思うことさえも。
「考えないようにしないと、疲れる」
そんな強がりを呟きながら、チャポンと白い布を木桶に落とした。ユラユラと立ち上る湯気に、波紋広がる水面に、それでもあの娘の笑顔が浮かんで来る。そしてそれは真っ赤に染まっていった。
あの時、偶然に知った未来を、馬鹿みたいに弄んでさえいなければ。
くだらない英雄願望を満たすため、自分だけの秘密にしなければ。
"揺り戻し"をもっと警戒していたら。
凄い凄いと褒められて、舞い上がった餓鬼みたいに、自慢を垂れ流したりしなかったなら。
未来なんて、運命なんて。
「エル……エル……会いたいよ……謝りたい、あの日に帰れるなら、何度でも……」
涙が流れ落ち、ポタポタと床を濡らす。
グイと素肌を晒した腕で拭っても、次々と溢れて来て意味がない。立派な胸部と言われた双丘の谷間に涙の雫が流れて行った。それを隠すためか膝を抱え、セナは赤ん坊のように丸くなる。顔も両膝の間に埋めて、それでも両肩が揺れ続けるのが悲しい。
エルジュビエータの影を追っていたからか、セナには珍しく油断があったのだろう。玄関側に作られた窓あたり、そこから人の気配を感じた。普段なら直ぐに気付いたはずの距離だ。
「……誰だ!」
放り投げていた上着を羽織り、素肌を隠す。そのまま駆け寄って不審者の姿を探した。樹々の向こうに走り去る背中が見えたが、追い掛ける気力は失われる。よく知った小さな後ろ姿だった。
「クラウ……?」
◯
◯
◯
「ハァ、ハア……」
凡ゆる精霊により強化されたクラウディアは、殆ど一瞬と言っていい時間で川のほとりまで来ていた。さすがのセナも追い付くなど不可能だし、そもそも姿だって見られてないかもしれない。
両手を膝にあて、暫くは呼吸を整えた。長い髪が地面に触れそうだが、それも無視する。
涙を。
あのセナが、殺戮の魔弓アダルベララの使い手が。
クラウディアから見て果てのない強者が、超常の戦士が子供のように泣いていた。
悪戯心から気配を殺し、そっと窓から中を伺った。丁度胸の下着を外すところで、褐色の肌と背骨の這う背中が見えたのだ。身体を拭くところと分かったが、何故かクラウディアは動けなくなり、大きな胸と細い腰に視線が吸い寄せられる。
綺麗……
それが素直な感想で、肌に触れてみたいと思ったりした。だがそんな気持ちも直ぐに遠くへ去って行く。セナが「エル」「会いたい」と呟いたあと、たくさんの、本当にたくさんの涙が流れたからだ。
ここまで来ればクラウディアも理解出来る。恐らく、嘗ての仲間エルジュビエータは死んでしまったのだ。きっとセナの目の前で、今でも後悔を消せないほどの悲劇があったのだろう。謝りたいと辛そうに呟くセナを見たとき、クラウディアはその悲哀の強さを感じ取った。悲哀の上位精霊に愛される"白の姫"だから、感情の共振が起きたのだが……本人は気付いていない。
クラウディアはいま、暴れる多くの感情と戦っている。
それぞれの精霊達が、それぞれの力によって白の姫に手を伸ばす。自らが司る存在の全てを、愛する白の姫へと。
初めての経験だった。これほどの激情を覚えるのは。
頑張って心の波を落ち着かせ、呼吸も合わせて整っていく。そうしているうちに、この幾つかの感情が何なのか、クラウディアは理解した。
不謹慎と常識が訴えてくるが、それでも否定など出来ない。あの泣き顔を、濡れる夕焼け色した瞳を"美しい"と思う気持ちを。この細くて弱々しい指で雫を拭い、そのまま抱き締めて、自分の胸で思い切り泣いて欲しい。気の済むまで、好きなだけ。きっとエルジュビエータも同じ気持ちを持ったのだ。
そしてそんなエルジュビエータが羨ましい。あれほどにセナから想われるのなら、きっと素晴らしいエルフだったのだろう。子供のような、まだ子供そのものな自分など及ばない存在だったはず。
そして次に訪れたのは"怒り"だ。
セナをあんな風に泣かせる原因を作った誰か、その場にいなかった自分、まだ弱いままの白の姫に。手の届かない過去さえも、そんな全てを斬り捨ててやる、と。
感じる。
怒りを、悲しみを。
怒りの上位精霊も悲哀の上位精霊も、こんなに近くに居たなんて。セナ先生は言っていた。感じないの?って。
「きっと、大人って、そんな色々を抱えてる。それなら私だって、負けない」
稀代の負けず嫌い。この時、白の姫クラウディア=オベ=オーラヴは一つ上の段階へと駆け上がった。"精霊の愛し子"として完成へと近づいたのだ。
それは酷く駆け足だったが、それすらもクラウディアは受け止める。でも、まだまだ足りない。全てを斬り伏せる力があるならば、必ず手に入れるのだ。
上半身を起こし、小川の流れを意識した。
すると直ぐに水精霊が応え、丸い水球が幾つも水面から浮かんで来る。それぞれがフニャリと形を崩し、子供の姿へ変わった。クラウディアの周りをぐるぐると周り、踊り続ける。楽しそうに、声なんて聞こえなくても笑っていると感じた。
全部が勝手に動き回る。ただクラウディアと遊ぶのが幸せなのだろう。意思などないはずの小精霊なのに、自由だ。そう、使役などしていない。
だから気に入らない。
力で捩じ伏せ、精霊魔法も操ってやるのだ。
「消えて」
バシャリと水精霊達は弾け、周囲は静寂に包まる。
そして、そんな我儘なお姫様に……大きな試練が訪れようとしていた。
キャラ紹介12-②
エルジュビエータ。愛称はエル。
セナがアダルベララに手に入れ、それにより傑出した実力を示したことで、一時的にパーティが固まらない時期があった。皆が遠巻きに眺めていた頃、我関せずとセナをナンパ(勧誘)したのが彼女。
短い間ではあったが、二人だけで活動していた。その後、次々と実力者が加わり、当時のパーティは名声を一手に集めることとなる。
故人(故エルフ)。その過去からセナは今も逃げられない。セナが"揺り戻し"を疑う契機となった、大切な仲間の一人。
間接的にだが、セナとクラウディア二人の関係に影響を与えていく。




