迷う
テレビでか、ラジオでか。
なんのテーマだったかすでに忘れたトークの途中で、話し手が語っていた言葉が鉤括弧で括られたように僕の心に引っ掛かっている。
「坂であることはわかる。わかっている。それがいつしかダラダラと歩いているうちに登っているのか下っているのかわからないような心地になってくるんですよ」と。
坂の上がり下がりがわからなくなるわけなどあるまい、と、笑ったからだろうか。
それが今になって、自分の身に降りかかってくる。
坂の話ではない。
坂ではなくて、道の話。
道がどうした、という話しだが、なんだか、ダラダラと歩いているうちに、これが行きの道なのか帰り道なのかわからなくなっている。
いつかのトークで誰かが、坂の登り下りがわからなくなると言っていたように。
最終電車も行ってしまったような時間に、最近首無し女の幽霊が出ると噂されるようになった人通りのない裏道を好き好んで歩くのも、行きのためか、帰りのためなのか。
折からの雨。
道を歩くことに夢中で、顔を結構濡らされてから、降り出した雨に気付く。
雨の季節になっていた。傘の用意もしていない。無意識に右手で前髪をかきあげて、形ばかり雨の雫を飛ばす。
左手に下げた小振りのボストンバッグをなるべく濡らしたくない思いで抱え込むように背中を丸めると、一瞬止めた足をまた進める。行きの道なのか、帰り道なのか。辛気臭い深夜の湿った道を僕は歩く。
初めてその娘に会った時は確かに帰り道だった。
会社の帰り。勤めも4年目になって。そろそろ案件も任せられるようになって、の、しくじり。
前例を型通りにやるところがあって、それは必ずしも悪くないのだが、よく確認せずに訂正すべき数字を訂正することを忘れた。上司に報告し、苦い言葉と対応を支持され、クライアントに訂正と謝りの電話。数字の修正を期日そのままで可能か、委託した業者に相談、謝罪、相談、謝罪、相談、謝罪、謝罪、謝罪。
訂正と相談と謝罪に忙殺されてすっかり遅い時間になってしまった。自分ミスさえなければやらなくていい仕事、かけなくていい時間だったと思うと、ただただ虚しいため息が出る。
せめて前回の数字の部分がブランクになっていたら、と、責任転嫁とも言える、熾火のような怒りが、その資料をまるパクりで利用したにも関わらず、資料を作成した前任者に向かう。
身も心も疲れ果てて、アルコールの出る店にでも寄って行かなきゃ、むしゃくしゃした気持ちが収まらない、と、いつもなはアパートのある駅で降りるのを途中下車した。
駅から程なく、同じように混み合ってはいるが、駅周辺の仕事と生活の匂いとは異なる華やぎ。少し鼻にかかった甘ったるい作り声の語尾。2.3人のふわふわした固まりから、通りゆく主に男子に籠から出した紙がで渡されてゆく。人の流れが川だとすると、彼女たちは可愛い岩、かな。岩は失礼か。じゃあ、川のイメージをもっと広げて、彼女たちは小島。河の所々で、かわいい花を咲かせたり、愛らしい小鳥が休んでいる小島。
たまに小鳥ちゃんだけじゃなくて、狼や虎が牙を隠して立ち寄ってたりするけどね。ほら、あそこにも。向こうでも。
花な小鳥ちゃんたちはホワイトブリムやヘッドドレス、猫耳やツインテールで、メイドになったり、子猫になったり、ナースやドクター、CA、アニメキャラと化して、流れて行く俺たちを楽しませてくれる。
いいよいいよ。子猫ちゃんを甘やかしてみるのもいいし、女教師に叱咤激励してもらうのもいい。なんなら、シスターに慰めてもらっちゃおっかな。
コンカフェ嬢は、フツメンの下くらいで、見るからに吊るしの上下セットで1万円のスーツ姿の年収が知れそうなペーペーなサラリーマンにも笑顔を見せてビラを渡してくれるし、一緒にどうですか?なんて、何を?って思わず聞き返したくなるような声かけまでしてくれる。
もちろん、同伴して金使えって言われてることは分かってるけど、僕もそこそこ若いけど、いかにもキャピってます、って感じの女の子たちにそう言ってもらうのはテンション上がる。
やあ、歩くだけで来てよかった。
そんなきゃわいさ満載の夢の小道で、なんだか流れが避けていく土塊が。いや、泥団子?
向かう先にあったので、少し足を緩めて、よくよく見れば、泥団子ではなく、茶系のぽっちゃりコンカフェ嬢だ。ぽちゃ、だが、いわゆるぽっちゃり系デブ専でいくには重量不足、でも、並み居るきゃしゃでスレンダーなコンカフェ嬢と比べると、よく面接が通ったな、と思わせるくらいの肉の多さ。
明るめの茶色い髪は頭の両側でお団子。膝が出る丈の短め茶色いワンピはフリフリでボリュームあるが、体もボリュームあるので、なんだかでかい、横に、というか、円柱としてでかい。周りのコンカフェ嬢がファイブミニならこの娘はドデカミン、あるいはデカビタC。そして、茶色寄りのベージュのタイツに濃い茶色の靴。顔の化粧は、似合わなくはないが、ゴスロリを狙ってか、デイビフォアクリスマスのオマージュなのか、目の周りがやたら黒い。そして真っ白な短めのメイドエプロン。極め付けは二つのお団子の間に乗せられた緑のヘッドドレス。
タヌキ、
だよね、どう見ても。頭に葉っぱ乗せたタヌキ。
僕がしげしげと見つめてしまったせいだろう。
もともと不機嫌に、突き出すように通行人にビラを押し付けていた娘が僕をキッと睨んだ。
なるほど、ずっとこんな感じだから、流れがここを避けるように動いていたのか、と、つい納得していると、
「見世物じゃないんだけど。」と、タヌキがドスの効いた声で言った。
これもまたびっくり。
この通りで耳にするコンカフェ嬢のやたらに甘いアニメ声とは天と地の差。
普段ならこんなダミ声のタヌキ女、鼻も引っ掛けなかったと思うが、この日の僕はかなり荒んでいた。まるで荒んだ僕の心が具現化してコンカフェ嬢に化けてしまったようなこのタヌキ娘に僕は興味を持ってしまった。頭に葉っぱ乗せてるし、案外本物の化け狸かも知れない。
「すっごくご機嫌斜めだね、タヌキちゃん。」
これが僕が娘にかけた最初の一言だったと思う。
タヌキ娘は、そう言われて、イヤな匂いでも嗅がされたように顔を顰めた。
「やっぱ、タヌキよね。」
娘はアニメ声を作らないまま言った。
「まんま、タヌキっしょ。」
僕は面白がって答えた。相手が可愛いコンカフェ嬢より、タヌキに近いからだろうか。女と話すときは、手に汗かくくらい緊張するタイプなのに、このタヌキ娘とは、肩に力を入れることなく話ができた。
はい、と、娘はズイっと僕に近寄り、籠のビラを押し付ける。
「読んで。」
と、ぶっきらぼうに言われるので、手にしたビラに目をやる。
「夢のモリ森カフェ&バー」と、ビラに大きく書かれている。どうやら、森の動物がテーマのコンセブトカフェらしい。
フェミニンな森のイラストの間から、リス、シカ、アライグマ、オオカミ、クマ、ウサギ、小鳥、なかなか可愛いお姿のコンカフェ嬢が顔を覗かせている。
そして、と、僕はビラから顔を上げてタヌキを見る。
「ひどくない?」と、目の周りを黒くしたタヌキ娘が情けない顔をした。
なかなか面白い。
「じゃあ、なんでアンタがタヌキなのか、お店で聞かせてよ。オレ、アンタの売上に貢献するからさ。」と、僕はこの日の気分に反して陽気に言った。
「うそ。」
タヌキ女は大きなタヌキ目をさらに大きくして言った。
「あたしと同伴、てこと?あたしのお客ってこと?」
そうそう、と言いながら、僕は僕は人差し指で指差しながら、で、どっちに行けばいいの?と、行く気満々だ。
「やったー。あたしの初めてのお客さんよ。」と、タヌキはそれまでのどんよりを吹き飛ばすような満面の笑みで、僕の腕を取る。あれ、コンカフェ嬢って、接触できないんじゃなかったっけ?と思いつつ、初めて、と言われるのも、腕を組んで歩くのもなかなかいいものだ。それに、見ようによっては、タヌキとしてはなかなか可愛いタヌキである。
テーブルに着くと、僕はハイボール、タヌキには適当に好きな飲み物と食べ物を注文させた。
タヌキは高校卒業後、コンカフェ嬢になりたい一心で地元からやってきた。仕事をするなら可愛い衣装を着たい。可愛い髪型をしたい。可愛いワタシを見て欲しい。
地元では、結構おしゃれ番長だったし、アイプチをしたりつけまつ毛もクラスの中では率先してやった口だ。それに、結構モテた。
だから、面接ですが採用されると思っていた。
絶対の自信が会った一店目からは、待てど暮らせど採用の連絡が来ず、痺れを切らして自分から連絡をしたところ、うちは、その場で採用を告げられなければ、不採用なんですよ、と、電話の向こうのスタッフには、なにをわかりきったことを、という口調で言われた。
二店目もタヌキの言うところでは、鼻で笑われ、3店目では、あと10キロ痩せて、鼻を整形してくれたら、もう一度面接に来てもらっていいですよ、とまで言われた。しかも、不採用ストレス食いの前だったから、今より5キロ痩せてた時の話だという。
ほとんど貯金なしで来たし、そうそう実家にお金の無心もできない。タヌキはコンカフェ面接を受け続けるためにもバイトを探す必要に駆られた。
ここでも、最初に希望した有名チェーンのお高めコーヒー屋では、現在求人してないと言われ、仕方なくコンビニでバイトと思ったけど、近くのコンビニバイト枠は外国人がガッツリ占めていた。最終的にどんな方でもウェルカムと大きく手を広げてくれてる庶民的なスーパーの品出しに収まった。でも、それは、なんとなくおばちゃん感が強くて、一応仕事には通っていたけれど、全然やる気が起きなかった。
もっと商品を丁寧に扱ってね、っていわれても、あたしは今頃コンカフェでチヤホヤされてるはずだったのに、って思うと、並べなきゃいけない品物さえ憎く思えるなよねえ、と、僕に同意を求める。
タヌキ娘は、お店では、喉をグッと締めたような、アニメ声で話をした。
「だから、ここのお店で採用れた時は、すっごく嬉しかったんだなも。」
そして、タヌキ娘には時折り語尾にダナモ、を付けた。彼女の口癖、と言うわけではない。採用時の契約によって、話終わりにダナモをつけなければならないのだ。
「〈ダナモ〉って.何よ?なんでそんな変なこと言わなきゃいけないの?だなも!」と、タヌキは憤慨する。バカだな、タヌキは。そんなことも知らないんだ。〈ダナモ〉っていったら、超有名なアレのアレだ。全くのタヌキ化を前提にタヌキ枠で彼女は採用されたと言うわけだ。
それにしてもタヌキの癖にアレのアレすら知らないなんて。これは、いよいよ、躾なしのソフィストケートされていない野生のタヌキだな、と、僕は思う。
「でも、とにかくコンカフェ嬢になれるなら、贅沢言ってられないわ。ようやくよ、ようやく。〈採用〉の言葉までもって来れたの。だから、本当に、なんでもやります、って頭を下げただなも。
それで、晴れて、スーパーのなんか労働者の血の色みたいなエプロンを脱ぎ捨てて、憧れのコンカフェ嬢に大変身だなも。
スーパーに辞めます、って言う時は、引き止められても絶対辞める、辞めてやるって思った。誰も引き止めてくれなかったけどね。残念がる人もいなかっただなも。でも、それが何?あの人達には、スーパーがお似合い。血の色の労働エプロンがお似合い。あたしはコンカフェがお似合いってことでしょ?だなも。」と、鼻息荒く言うと、残った飲み物を一気にストローで飲み干して、僕に断りなしにお代わりを注文した。
そして溜め息をつくと次に置かれた新しい飲み物を一気に半分に減らしてから「誰もなり手がいなかったんですって。タヌキ。」と、しょぼくれて言った。
「森の仲間のお笑い担当。可愛いみんなの引き立て役。
タヌキといえばキツネじゃない?」
急に言われても、そうなんだろうか、と、すぐに返事ができなかった。なんか、それって、カップ麺の組み合わせとかじゃない?
カップ麺の話が出たせいか、彼女は焼きそばをオーダーする。ちなみに焼きそばパンが大好物だというなるほどそうでしょうね情報もここで開示される。
「あたしも、タヌキよか狐が良かったー。だなもー。」と、フンガフンガ言って、スタッフの目を気にするように「だなも。」と、付け足した。
めちゃくちゃ面白い。
「でも、キツネは夢の海でも人気だし、北の球場でも大流行りだから、ダメなんだって。
だから、あたしの採用条件は一択。森のタヌキ以外なしなんだなもー。」と、ぷんとほっぺを膨らませて、丸い顔をもっと丸くした。
会計前に、ねえ、また来るよね、とタヌキが言う。
可愛く媚を売ろうとして、〈ダナモ〉忘れてるぞ、って思いながら、この時点で、僕は結構タヌキが気に入ってた。だから、いいよ、また、来るよ、と気楽に答えた。
約束だよ。だから、絶対次来るって約束のためにボトル入れておかない?と、タヌキらしいズル賢い顔で言う。悪いタヌキだ。
でも、なんか、それもいいかな、と思って、僕はウィスキーのボトルを入れる。
支払った料金はかなり高額になった。
なぜだろう。
僕は悪いタヌキにどっぷりハマった。話して楽しいし、ちょっとは可愛い。何より気楽だ。
恋、って言うのではないと思う。だって、相手はタヌキなんだから。物語では、主人公はカエルとか、意外なものに恋をしたりしてるように見えるけど、実は本当に恋をするのは元の王子の姿に戻ってからで、それまではきっと物珍しさで付き合ってるんだと思う。
じゃなきゃ、ただの罰ゲームだ。
ペットみたいなものかな、タヌキは。
ペットだって、飼えば喜ばせたい。甘やかしたい。
だから、僕も甘やかすことにした。最初は店で飲み食いさせただけだったが、もっと喜ばせたくて、プレゼントというものをしてみよう、と思った。
だから僕はタヌキに、さりげなく好きなアクセサリーとか、バッグのブランドを聞きた。
そしたら、タヌキは目を輝かせて、「アクセサリーならハリーウィンストン!!」と即答した。そして上目高いに「ギリ妥協して、ティファニーでもいいけど、だなも。」と、つけまつ毛に縁取られたタヌキ目をぱちぱちした。
「バッグはエルメスのバーキンよね、だ、な、も。」
ふーん、と、僕は言った。どれもどこかで、超高級、超高額で名の知れたブランドではなかったか?
僕の給料なんてたかが知れてる。
その上森の野良タヌキに無闇に餌を与えてるんだから、家賃や光熱費の支払いまで不安な有様になってきた。
ましてや、タヌキが涎を垂らす高級ブランド品なんてどうやったって買うことなんてできない。
だから、買えないなら、持ってる人から貰ってもいいかな、と、僕は考えた。
指輪は、難しい。
なんと言っても指につけてるから。
ネックレスとかイヤリングはどうだろう。
まだ暑い時期だから、女性は結構首周りの空いた服を着ている。ハリーなんとかは、わからないが、ティファニーは割と特徴的なデザインだ。もしかしたは、あれは、ティファニーかな、と思われるペンダントもいくつか見かけだ。だが、世の中には、似たデザインも、偽物もあふれている。そして、漠然とした僕の計画は人目のないところで、後ろからネックレスに手をかけて、ブチって千切って逃げる、というものだった。そんな危なっかしいことをして、結局偽物だったりしたら、貰い損だ。しかも、よく考えたら、ネックレスだって無事ではいられない。
と、いうことは、貰いやすいのは、バッグかな。
そんな高級バッグ、自家用様になってる人以外持ってないかと思ったら、結構電車の中でも見かける。
フランス人からみたら、そんなバッグを持って、なぜ公共交通機関を使うの、って、不思議だろうね。四畳半に住んでても、切り詰めて切り詰めて高級ブランドを身につける日本人の不思議。
お陰で、僕はタヌキを喜ばせることができそうだ。
下調べな念を入れて。もらう予定のバッグの行き先を確認して、監視カメラもチェックして。
あとは適当に人目につかない監視カメラの死角になる場所で思いっきり金槌を振り回した。
倒れてきた女は横の塀にもたせかけてる。僕はバッグをもらいたいだけだからね。女性には優しい。紳士なんだ。
こんなこと初めてなので力加減がよくわからない。打ちどころが良ければ、ちょっとした怪我ですんでるかもしれない。そうだったことにしておこう。
僕はすぐにではなく、強盗事件がホットなニュースじゃなくなった頃に、タヌキに、バッグを渡す。
正直に、新品じゃなくて、人から譲り受けたものであることを白状した。
タヌキは、キラッキラな目で結構使い込まれたバーキンに涎を垂らさんばかりに見入っていた。でも、僕には、ありがとうすら言わず、女王様みたいに、「そうよね、フツーのサラリーマンには新品なんて無理よね。あたし、我慢したあげるね。大丈夫だなも。」と、上から僕に許しをくれた。
我儘タヌキは仕方ないなあ。僕は、タヌキの常識外れの対応にいささか驚いたが、まあ、まだ躾のなっていない野生動物だもの。僕の計画では、そろそろ野生からペット化の頃合いだ。
だからもちろん、素敵なバーキンの中に、ボタン型の小さな盗聴器を仕込むことも忘れない。
「いいなあ。アイツからもらったんでしょ?ソレ。いいなあ。」
言っているのはコンカフェの同僚。リスもウサギもクマも取れなかったけど、小鳥Aなるタヌキの友達。タヌキも腹黒いヤツだが、小鳥Aもおこぼれを預かるのがお上手だ。
心の奥ではどう思ってるのか読めないが、タヌキの仲良しという触れ込みで、よく僕とタヌキのテーブルに来ては僕の金で飲んだり食ったりしている。
ピカピカのナンバー上位のリスやクマのお客様に我儘は言えないが、タヌキの客なら適当に使ってやれ、って、そんな感じ。きっと僕はみくびられているんだろう。
「中古だってさ。」自慢が溢れてるのに、タヌキはわざとどうでもいいように言った。
「中古がいやなら、あたし、もらったげるよ。」すかさず小鳥が言うので、タヌキが慌てて、「ダメだよ。アイツだって、アタシが持ってなきゃヘソ曲げちゃうよ。」と、言っている。きっと巻き上げられることが心配で、バーキンを抱きしめてでもいるのだろう。
「アイツ、バーキンくれたメガネね、きっと本気だよ。」
と、小鳥がタヌキにいきなり注意喚起だ。
「えー、やだー、アイツ、ふと客で金蔓だけどさあ、同じメガネなら、あたし、もっとハンサムなインテリメガネが好みだから。」
いいぞ、タヌキ。悪ダヌキらしいぞ。と、僕はタヌキの言葉にワクワクした。
「じゃあ、これから、どうすんの?絶対アイツ、アンタに付き合ってって、告白すると思う。」と、小鳥が囀る。
ないないない、と、僕は思う。
「それなー。まじそう思う。アタシも悩んでるのよ。
お金は欲しいんだけど、アイツなんかキショいじゃん。引っ張れるだけ引っ張って上手くお払い箱にできないかなあって。なんか、いい方法ない?
いっそあたしを受け取り人にして保険かけて死んでくれたらいいのに。アタシ保険屋掛け持ちしようかな。」
「うっわ、まじ、この女こわーい。」と、小鳥は怯えた口調を作って言うが、結局タヌキと一緒に大笑いしている。
やっぱり野生のままじゃいけないんだな、と、僕は二人の会話を盗聴器越しに聞いて改めてそう思った。
自由にさせすぎたな。誰が飼主であるかを、バカタヌキにも教え込む時期がいよいよ来たってことだね。
僕はあらかじめ用意していた合鍵で、タヌキの部屋で彼女を待った。
タヌキが仕事から帰ってドアを開けて僕を見つけたらどんなに喜ぶことか、と僕は楽しみにしていた。楽しみにして、1日タヌキの部屋ですごしていたのに。
だが、意に反して、部屋に入ったその正面に笑顔で待つ僕を見つけて、タヌキは目を見開いて大きく口を開けようとした。
僕は慌てて、彼女が大声を出さないように、自分の腕の肘の関節で彼女の首を締め上げる。
だって、こんな時間に大声をあげるなんて近所迷惑じゃないか。
冷静に今後のことを話し合うためにも、まず静かになることが大切だ。だから、十分に十分に力を入れて締めていると、不意に、グッと腕にかかるタヌキの重さが尋常じゃなくなる。
おや、と思って腕を解くと、タヌキはグシャリとそのまま床に崩れ落ちた。
なんだよ。
驚いて、ちょっとつま先で蹴ってみる。グラグラするものの動かない。もう少し強く蹴る。もう少し。流石にこれくらいでよければ、眠ってても目が覚めるはずじゃないか?
だが、タヌキは狸寝入りというわけでもなく転がっている。
なんだよ。
これからじゃないか。
タヌキはこれから主人に恩を返すんだろ?
そのために、僕は会社を辞めたし、アパートも解約した。これからはタヌキに面倒をみてもらいながら、タヌキのアパートで暮らす予定だったのに。
周りを気にしすぎて、慎重を期す度が過ぎてしまったか。
全く、深夜は静かに、って言う常識も身についていないなんて。こんなことになったのも、タヌキの自業自得だな。
さて、僕の計画は、といえば、タヌキが勝手に死んでしまって元も子もなくなった。これぞまさに、取らぬ狸の皮算用。
なんだか、気が抜けて、僕はどさりとタヌキのベッドに横になった。
いつのまにか眠っていたらしい。
昨日のことは嫌な夢で、ペットとしての立場を理解したタヌキが、トトトン、と、朝の目覚めのシーンお約束、味噌汁に入れるためのネギを切ったり、コーヒーを淹れる香りがしたら、どんなに嬉しいかと思った。けれど、目を閉じていても、鼻先にまとわり付く不快極まりない汚物の臭。
不愉快さに仕方なく目を開けて、床を見下ろす。
今日になってもタヌキは昨日の記憶にある形で転がったまま。
昨日からタヌキの尻の辺りが濡れているのには気付いていた。嫌な匂いがするのはそこからだ。
万が一の希望を込めて、念のため、ちょっと触ってみたけど、冷たくて気持ち悪い。
死んでまで飼主を困らせるとは、これだから野生動物は始末におえない。もっと早くペット化すべきだった。そうしたらこんなことにならなかったし、タヌキだって行儀のいいお利口タヌキに生まれ変わっていたことだろう。
昨夜は思いがけないことだらけで、実際に目が覚めたのは昼も結構過ぎている時間だった。
これからどうしようと思ったり、タヌキのキッチンにあったカップ麺を作って食べているうちに、あっという間に夕方になる。
タヌキのスマホから通話の呼び出し音が鳴っている。
とりあえずバッグから取り出して、呼び出し音が止まるのを待つ。タヌキのスマホはラッキーなことに顔認証が使えた。それで、スマホのLINEアプリを、を開くと小鳥から結構な数のメッセージがきている。
早番だよ?忘れてる?
遅刻の連絡入ってないよ。
なんで電話に出ないの?
無断欠勤とか、店長怒ってるよ。
寝坊でもなんでもいいから、とりあえず言い訳の電話店に入れなよ。
さっきの電話も小鳥からだった。
まずいな。
このままタヌキが出勤しないと、自称仲良しの小鳥が恩着せがましく心配して尋ねできそうだ。
そうなる前に、タヌキを持っていかなければ。ペットは飼主のものなんだから。
でも、汚物はやだな。
風呂場に連れて行けるか?と、なんとか風呂場まで引っ張り始めたが、そんなに暑い季節でもないのにすぐに汗が滲む。汗だくになると着替えがない。それは困る。と、男は全裸になってタヌキを風呂場に運び込む。重労働だ。想像以上に時間もかかった。この感じでは、タヌキの服を脱がせ、汚物のついた体を洗い、また、服を着せてるうちに朝だ。
しかも、タヌキの体をこの距離を動かすだけでこのザマだ。どうやって全身を運ぶと言うのだ。
小鳥が二、三日先に来てくれるといいのに。でも、もし、小鳥が神経質な鳥だったら?そうしたら小鳥は仕事が終わったらすぐにやってくるかもしれない。とりあえず今は最悪を考えて、持っていけるものだけを持っていこう。
料理をすることもあるらしく、幸いにもタヌキのキッチンには包丁もあった。よくタヌキを風呂場に運び込んだ。作業に丁度よく、シャワーで水も流せる。
僕は自分自身の汚れもシャワーで流し、タヌキの私物で溢れたクローゼットから使えそうなトートバッグを2枚と、大きめのビニール袋を引っ張り出す。
今持って行ける最小で最良のものをとりあえず持って行こう。残りは、小鳥が騒がなければ、明日の深夜取りに来ればいい。
名残惜しいが、仕方ない。
さあ、今日から僕が一緒だよ。
今度こそ、野生にも野良にしないからね、と、僕はタヌキの部屋を出た。
その日の日中、スマホのニュースで見覚えのある住所で若い女の子の首無し死体が見つかったことが報道された。
やはり、小鳥は騒いだらしい。残りを回収できなかったのは、極めて残念だ。タヌキだって、丸ごと飼い主に持っていてもらいたかっただろうに。
こうして僕はペットと共に、正確には、ペットの頭と共に移ろい暮らした。亡くなったペットを剥製にする人だっているんだ。似たようなものだ。
滞在したのは主に水辺が多かった。だから、ペットが嫌な匂いをさせると、水に漬けたり、日に干したりした。そうしているうちに、ペットはぷくぷくした見た目を失って、顔の表面に少しの干し肉をくっつけたみたいなカサカサの骸骨になっていた。
ペットと一緒だから、一人でいるより寂しくないが、もっとちゃんとタヌキの見た目をしていた時のほうが、楽しかったな。
タヌキは本当にありえないくらいバカみたいなことを言って笑わせてくれたものだった。
やっぱり、なんとか、全部を持ってきたらよかった。そうできてたら、優しい主人を喜ばせようと芸の一つもしてくれたのではないか。そう思うと少しイラついて、付いてきてくれてはいるが、何も楽しいことをしてくれないペットの頭の上をポカリと叩く。口はついてるんだから、歌ぐらい歌ってみせろよ。そしたら、少しは無聊が慰むってヤツなんじゃない?全く、可愛がり甲斐のないペットだ。
そう僕が寂しく思って過ごしているところに、あの、モリ森コンカフェの裏路地に首無し女の幽霊が出るという噂が聞こえてきた。
タヌキの頭部が身体と分かれたのは、住所も駅も違うタヌキの棲家のあのアパートだった。だから、残された身体が迷うとするとそのアパートの辺りような気がするが。
だが、頭部を失って亡くなっていたのがコンカフェ嬢だったからだろうか、勤めていた店付近の通りが新たな心霊スポットとして名乗りをあげた。
素直に納得できないような噂話だが、あれほどコンカフェ嬢でいることに執着していたタヌキだ。寝るためだけに帰っていたアパートよりもコンカフェ近くを彷徨う、というのも考えてみれば、わからない話ではない。
それが実体を伴わないものでもタヌキの全ては僕のものだ。だから僕は飼い主としてタヌキの残りを回収すべく、深い夜のどん底であのコンカフェに近い路地を歩いている。
別れた頭部は僕が持っている。
だから、もし残りが頭部を求めて迷っているのなら、真っ先に僕の前に現れてもいいはずなのに。
何度来ても、ペット(の頭部)を入れたボストンバッグを下げて歩く僕の前には、何も現れる気配がない。
「タヌキ、僕はここだよ、タヌキ。」
たまに小声で呼びかけてみる。
でも、闇と湿った空気と微かな生ごみの匂いで出来上がった夜に穴が開くことはない。
夜が身を隠してくれる間、僕はタヌキの残りを求めてトボトボと行き帰りを繰り返す。
定住という意味では、タヌキのお陰で、すでに帰る場所も帰る当てもない僕だけど。
いつか、オマエの残りを連れていこう。その時が僕らの帰り道だね。
僕は雨から守るために抱えたペットに話しかけながら、夜の中を歩く。
(終)