72 傍にいてほしい
ずっと、暗い闇の中に沈んでいるようだった。
それでも、誰かの呼ぶ声が聞こえたような気がして……ティリアの意識はゆっくりと覚醒する。
「ん…………」
思い瞼を開け、視界に飛び込んできたのは――。
「ティリア、よかった!」
「きゅい!!」
一瞬、泣き出しそうなラウラの顔が見えたかともうと、すぐに何かもふもふしたものが視界どころか顔面を覆いつくす。
「うぐっ……」
「こら、ブラックサンダー! ティリアが苦しんでるじゃない!!」
「きゅいん……」
慌ててラウラがべりっとブラックサンダーを引き剥がし、叱られた小さなユニコーンはしゅん、と落ち込んでいる。
その微笑ましい光景に、胸に灯がともったような気がした。
(戻って、来られたんだ……)
伯爵家へ連れ戻され、バーベナにいたぶられていた悪夢のような日々。
何度も何度も、アルヴィスに……公爵家の皆に会いたいと、戻りたいと願っていた。
今ティリアが寝かされているのは、懐かしいリースベルク公爵邸の別館のティリアに与えられた私室だ。
――「帰ろう、僕たちの家へ」
アルヴィスが迎えに来てくれたのは、夢じゃなかった。
そう意識すると、途端に目の奥が熱くなる。
涙ぐんだティリアに、ラウラはわたわたと慌てだした。
「わわっ、どこか痛い!? 大丈夫!?」
「いえ、安心してしまって……」
ティリアがそう答えた時だった。
性急なノックの音が聞こえたかと思うと、何か言う間もなく扉が開かれる。
「ラウラ、何を騒いでいる。ティリアは安静にしている必要があるのだから静かに――」
「ちょっとー! レディの部屋に入るのはちゃんと許可を得てからにしてほしいんですけどー」
扉の向こうに姿を見せたのは、アルヴィスに仕える執事のシデリスだった。
いきなり扉を開けたことに対し、ラウラが非難の声を上げた。
おそらくはティリアがまだ目覚めていないと思っていたのだろう。
彼は身を起こしているティリアの姿を目にすると、驚いたように目を丸くした。
だが、彼が何か言う前に――。
「ティリア!」
シデリスの後ろから飛び出してきたアルヴィスが、慌てたようにティリアが寝ているベッドへ駆け寄ってきた。
「ちょっと、若様まで!!」
文句を言うラウラなどどこ吹く風で、アルヴィスは強くティリアを抱きしめる。
「目が覚めたんだね、よかった……」
「アルヴィス様……」
抱き合う二人を見て、シデリスが意味ありげに咳払いをした。
「ほら、ここは二人にするべきだろう」
「むー、まったくデリカシーが欠けてるんだから……」
ぶつぶつ言いながらも、ラウラはシデリスに続くように部屋を出ていく。
その場に残されたのは、アルヴィスとティリアの二人……と、小さなユニコーンだけだった。
「きゅい! きゅいきゅい!」
「いてっ! こら、ブラックサンダー! 痛いじゃないか!!」
アルヴィスがティリアに襲い掛かっているように見えたのか、ブラックサンダーは小さな角でぷすぷすとアルヴィスの足のあたりを刺している。
「まったく……お前はもう少しおしとやかさを身に着けるべきだな」
「きゅい!」
「いてっ! こら、暴れるんじゃない!」
アルヴィスに抱き上げられてもなお暴れるブラックサンダーに、ティリアはくすりと笑ってしまった。
「なんだか、懐かしい気がします……」
こんなに、平和で優しい場所にいられるなんて。
今も目をつぶると、両親やバーベナに受けた仕打ちが脳裏によみがえり、体が震えそうになってしまう。
でも、ティリアは戻って来たのだ。
あたたかな、この場所に。
ティリアの呟きに、アルヴィスは少しだけ辛そうに眉根を寄せた。
「……済まなかった、ティリア。君をあんな目に遭わせるなんて――」
「そんな、アルヴィス様のせいじゃ――」
「いや、公爵家によからぬ者が……君に悪意を持つような者が紛れ込んでいたことに気づかなかった僕の落ち度だ」
その言葉に、ティリアはごくりと唾をのむ。
そもそもティリアが元の家族に捕まったのは、同じ公爵家で働く使用人に用事を頼まれ、怪しげな場所へ誘導されたことが原因だった。
「……使用人の一人が、君の秘密を知ったうえでリッツェン伯爵家に売り渡そうとしていたんだ」
「っ……!」
途端に怯えたように表情を引きつらせるティリアを、アルヴィスは優しく抱きしめる。
「大丈夫。既にしかるべき処断を下し、ここにはいない。……ここには君を傷つけるような者は誰もいない。だから……もう大丈夫だ」
そう、もう二度とティリアをあんな目には遭わさない。
アルヴィスは固く心に誓った。
「だから、これからもここに……僕の傍にいてほしい」
そう囁くと、ティリアは涙ぐみながら何度も頷いた。




