65 これだけは、絶対に譲れない
「いつも僕の思い通りにならないっ……!」
「アント――かはっ!」
強く両肩を掴まれ、叩きつけるような勢いで壁に押し付けられる。
強い痛みに、小さな悲鳴が零れ落ちる。
「アントン、やめっ……!」
「どうせ思い通りにならないのなら、このまま――」
血走った目でアントンはこちらを睨みつけていた。
肩を掴んでいた手が首元へ伸び、本能的な恐怖にティリアは身を強張らせる。
だが、アントンの指先がティリアの喉元に触れる直前――。
「あら、お取込み中だったかしら」
室内に響いたひやりとした声に、アントンは弾かれたようにティリアから距離を取る。
彼の背後――鍵をかけたはずの扉が開いている。
その向こうに立っているのは、つまらなそうにこちらを見つめるバーベナだ。
「バーベナ、これはっ……」
「うるさいわね」
駆け寄り弁解しようとするアントンを、バーベナはそっけなく突き飛ばす。
そのまま彼女は、固まるティリアの前まで近づいてきた。
「あれだけお父様の前で婚約者がいるって大口叩いたくせに、人の婚約者を誘惑するなんて……どれだけはしたないのかしら!」
「違っ……!」
「うるさい!」
ティリアは慌てて反論しようとしたが、バーベナが手に平に作り出した火球を近づけられ、恐怖に口をつぐんでしまう。
目の前で揺らめく炎が、ティリアの記憶に残る熱と痛み、そして恐怖を鮮烈に呼び覚ましていた。
「アントンを誘惑するなんて……結局は誰でもいいんでしょ。だったら、取引しましょ」
バーベナが意地悪く口角を上げる。
彼女の言う取引がまともなものではないと頭ではわかっていたが、藁にもすがる思いでティリアは聞き返してしまった。
「取引……?」
「えぇ、アントンが欲しいならお姉さまにあげるわ。お父様に内緒で一緒にここから出してあげる。だから……代わりに、リースベルク公爵家の貴公子を私にちょうだい」
告げられた言葉に、一瞬思考が停止する。
リースベルク家の貴公子……間違いなく、アルヴィスのことだろう。
「手紙でも口添えでも何でもいいわ。その婚約とやらを破棄して、代わりは妹が努めますと彼に伝えなさい。そうすれば丸く収まるわ」
こちらを見下すような目で、バーベナはとんでもないことを口にする。
「光属性だか何だか知らないけど、お姉さまみたいな人に公爵夫人が務まるわけがないわ。私が代わってあげるからありがたく思いなさい」
その高圧的な態度に、ティリアは悟らずにはいられなかった。
バーベナは、当然のことだと思っているのだ。
ティリアやアルヴィスの気持ちなど考えもせず、自分が次期公爵夫人という座に就くのがふさわしいと。
「無能」の異母姉などに、そんな立場が与えられていいはずがないと……。
きっと昔のティリアだったら、バーベナに逆らうことなどしなかっただろう。
だが――。
(これだけは、絶対に譲れない)
今のティリアにとって、何よりも大事なものだから。
たとえどんな目に遭ったとしても、バーベナの言葉を受け入れるわけにはいかなかった。
「……それは、できないわ」
はっきりとそう口にするティリアに、バーベナは心底不服そうに表情をゆがめる。
「はぁ? 自分がどんな立場なのかわかってるの?」
「何を言われても、譲れないものは譲れないわ。私は、絶対にアルヴィス様をあきらめない」
そう口にした途端、バーベナが強く唇を噛み、こちらを睨みつける。
その瞳の奥には、怒りの炎が渦巻いていた。
「この……『無能』の分際で!」
「っ……あああぁぁ!」
手に平に生み出した火球を、強く押し付けられる。
とっさに顔を庇った腕に強烈な熱と痛みが走った。
「バーベナ! やめるんだ!」
「うるさい! あんたも焼かれたいの!?」
我に返ったアントンが止めようとしたが、バーベナに火球を向けられ彼も怯んでしまう。
(痛い、熱いっ……!)
ティリアは涙でぼやけた視界で、自身の腕に視線を落とす。
バーベナに火球を押し付けられた部分が、真っ赤に焼けただれている。
だが――。
「ぇ…………?」
火傷の部分が柔らかい光に包まれたかと思うと、みるみるうちに痛みが消え、元の肌へと戻っていくではないか。
ティリアは呆然としたが、バーベナのショックはそれ以上だった。
「なによ、なんなのよそれは……。無能の癖に!」
「いやああぁぁぁぁ!!」
再びバーベナに火球を押し付けられ、ティリアは絶叫した。
炎で焼かれている間は、床をのたうち回りそうになるほどの熱さと痛みに襲われる。
だがバーベナの炎が弱まると、再び溢れ出る光が傷と痛みを癒してくれる。
(これはあの時と同じ……光属性の魔法?)
光属性の魔法には、癒しや浄化の力があるとされている。
どれだけ練習してもうまくいかなかったが、ティリアが傷つくことによって本能的に秘められた素質が開花しようとしているのだろうか。
「あは、あははは……おかしいわ、こんなの……」
目の前の信じられない光景に、バーベナは乾いた笑いを浮かべている。
今までバーベナが培ってきた自信が、「姉はできそこないで自分こそが優秀」だという認識が、彼女の中で粉々に砕かれようとしているのだ。
「なによ、なんのつもりなのよ……! まさか、それが『光属性』だとでも言うつもり!? ならいいわ。何度でも傷が治るのなら、こっちだって何度でも傷つけてやるんだから……!」
「嘘……バーベナ、やめて……」
いくら傷が治るといっても、焼かれた際の熱さや痛みは本物なのだ。
ティリアは恐怖に後ずさったが、すぐに壁際に追い詰められてしまう。
(助けて、アルヴィス様……)
てのひらの炎を揺らめかせながら、残虐な笑みを浮かべて一歩一歩近づいてくる義妹を前に……ティリアは愛する人に助けを求めずにはいられなかった。




