60 思わぬ使い道
バーベナとアントンに前後を挟まれるようにして、ティリアは震える足を進める。
少し古ぼけた廊下は、見覚えのない場所だった。
ここはティリアが長い時間を過ごした伯爵家ではない。
(だとしたらどこなのかしら。王都のどこか? それとも……もう別の場所に……)
アルヴィスや神獣たちと遠く離れてしまったのかと思うと、不安でたまらない。
だが、ここがどこなのかもわからないのに脱走を図ったって、成功するとは思えなかった。
(落ち着かなきゃ……。まずは状況を把握して……)
そう自分に言い聞かせないと、どうにかなってしまいそうだった。
やがてバーベナは大きな扉の前で足を止めると、軽くノックをして扉を開ける。
「ほら、早く入りなさい!」
「ぁ……」
入るのを躊躇していると、バーベナが突き飛ばすように背中を押した。
二、三歩たたらを踏んだ後、ティリアはおそるおそる顔を上げる。
そして、そこにいた顔ぶれを目にして「ひっ」と息をのんだ。
険しい顔でこちらを見つめる父と、忌々しそうに睨む義母。
久方ぶりに二人の姿を目の当たりにして、心の奥底に押し込めていた恐怖心が蘇っている。
「何をグズグズしているの。さっさと来なさい」
入り口で立ち止まって震えるティリアに、義母が苛立たし気に叱責を飛ばす。
……たったそれだけで、ティリアは昔の惨めな自分に戻ってしまったのだと理解した。
アルヴィスや神獣たちと過ごした優しい日々は全部夢で、こちらが現実なのだ。
そんなはずないと自分に言い聞かせても、心に、体に染みついた服従の精神があっという間に思考を塗り替えていく。
ぎこちない足取りで歩を進めるティリアに、義母とバーベナの鋭い視線が突き刺さる。
奥の古めかしいに腰を下ろした父の前に立つと、彼は仰々しく口を開く。
「久しぶりだな、ティリア」
「お父様……」
ティリアは、それ以上何も言うことはできなかった。
父が望んでいるのは、勝手に伯爵家を逃げ出したことに対する謝罪の言葉なのかもしれない。
だが、ティリアはどうしてもそれを口に出すことができなかった。
謝ってしまったら、伯爵家から逃げ出したことが悪いことだと口にしてしまったら。
……アルヴィスや神獣たちの出会いが、あの幸せな日々が、すべて否定されてしまうような気がして。
だが父は黙り込んだティリアのことなど意に介さずに、淡々と話を進めようとした。
「お前には、光属性の使い手としての素質があるそうだな」
「っ……! どうしてそれを……」
思わぬ言葉に、ティリアは驚愕した。
だってその情報は、リースベルク公爵家の中でも限られた者しか知らされていないはずだ。
なのに、今まで接触のなかった父が、どうして……。
「何の役にも立たない無能だと思っていたが、思わぬ使い道ができたな」
父の鋭い目が、真っすぐにこちらを見つめている。
だがその視線には、娘を思いやる父親としての愛情はまったく見て取れない。
ただ無機質に、商品を値踏みするようだった。
「使い、道……?」
おそるおそるそう問いかけると、父は当然だとでもいうように頷いた。
「あぁ、光属性の使い手は誰もが喉から手が出るほど欲しがっている逸材だ。今、お前の嫁ぎ先を選定している。どこも高値で買い取ると飛びついてきた」
「っ……!」
とても実の娘に向けられているとは思えないおぞましい言葉に、ティリアは身震いをした。
……伯爵家から逃げ出した判断は、間違ってなどいなかった。
たとえティリアがどんなに素晴らしい力を持っていようとも、彼らにとってティリアの存在は「いかに有力者に高値で売り渡すか」という点にしか価値のない商品でしかないのだ。
それを、まざまざと目の前に突きつけられてしまった。
「勝手に逃げ出したことは不問にしてやる。嫁ぎ先が決まるまでは大人しくしていろ」
それだけ言うと、父は話は終わったとばかりにティリアを追い払おうとした。
だが、ここで大人しく従うわけにはいかない。
「お、お父様……!」
震える声を絞り出すと、父は億劫そうな目をこちらへ向けた。
その冷たい視線に尻込みしそうになったが、ティリアは意を決して告げる。
「私……お父様のお決めになった方との結婚はできません。もう、婚約しているんです」
父は何も言わない。泣きそうになりながらも、ティリアは続ける。
「お相手は、リースベルク公爵家の次期当主です。本当です……! だから――」
「知らん」
必死の言葉を一蹴され、ティリアはびくりと体を震わせた。
父はまるで死にかけた虫を見るような、冷たい視線でティリアを見据えている。




