55 今日から婚約者
「……生きてる」
もちろん恋が叶ったからといって死ぬはずもなく、ティリアは翌朝も朝日と共に目を覚ます。
(夢……?)
昨夜アルヴィスが話してくれたことは、しっかりと覚えている。
だがあまりに都合がよいことばかりで、とても現実だとは思えなかった。
(そう、よね……。きっと全部夢に違いないわ)
だとしたら、目覚めてしまったのが少し残念に思えてしまう。
だがいつまでも甘い夢に浸ってはいられない。
ティリアにはアルヴィスが任せてくれた仕事があるのだから。
彼に失望されないように、しっかりと自らに与えられた職務をこなさなくては。
(でも、どこからどこまでが夢……?)
そんなことを考えながら、朝のルーティンワークをこなしていく。
黙々と朝食の準備を進めていると、人の気配が近づいてきた。
「おはよう、ティリア」
「……おはようございます、アルヴィス様」
寝起きのアルヴィスに声をかけられ、ティリアは少し緊張気味に挨拶を返す。
……あれは全部都合の良い夢だ。
だから、ティリアは変に動揺せずにいつも通りに――。
なんて考えている間に、アルヴィスはティリアの目の前までやって来た。
……いつもより、距離が近い気がする。
アルヴィスの手がティリアの頬に添えられる。
そして――。
「!?」
小鳥が木の実をついばむように、軽く唇に口づけられた。
ちゅ、ちゅ、と何度も繰り返される口づけに、ティリアは混乱して固まってしまった。
目を白黒させるティリアを見て、アルヴィスは少し困ったように眉根を寄せた。
「……嫌だった?」
「い、いえ……そんなわけありません!」
慌ててそう口にするティリアに、アルヴィスは嬉しそうに微笑む。
「よかった。今日から婚約者なんだと思うと、嬉しくて」
「婚、約者……?」
その響きに、ティリアは思わずその場に崩れ落ちそうになってしまった。
「ティリア!」
慌てたアルヴィスに抱きかかえられ、ティリアは恥ずかしさとみっともなさで泣きそうになってしまった。
「も、申し訳ございませんアルヴィス様……! 私、昨日のことが嬉しすぎて、こんなに幸せな出来事が実際に怒るわけがないと思って、夢に決まってるって自分に言い聞かせて――っ!」
言葉の途中で、強く腕を引かれ彼の胸に抱き留められる。
「まったく、君は……」
呆れたようなため息とともにそんな声が聞こえ、ティリアはびくりと身を固くする。
(失望、された……?)
だが震えるティリアの耳に届いたのは、ひどく優しい声だった。
「だったら、何回でも言うよ。ティリア、君は僕の愛する婚約者だ」
その言葉が、ゆっくりと心に染み込んでいく。
(夢じゃ、ないんだ……)
そう思うとほっとして、昨夜の幸せが蘇ってきて……ティリアはそっと微笑んだ。
「君が疑うなら、何回でも教えてあげるよ。僕がどれだけ、君のことを特別に思っているか……」
再びアルヴィスの顔が近づいて来て、ティリアは慌ててぎゅっと目を閉じた。
彼の気配を、すぐ傍に感じる。
そして、再び唇が触れあう寸前に――。
「ティリアおはよー! 返事がないから勝手に入ってきちゃったけ、ど……」
勢いよくキッチンのドアが開く音と共に、いきなり第三者の声が割って入ってきて、ティリアは慌てて目を開いた。
見れば、ラウラがドアを開けた姿勢のまま固まっているではないか。
いつの間にか、ラウラが食材を届けてくれる時間になっていたらしい。
そう考えた時、ティリアは今の状況にはっと気がついた。
壁を背にして、アルヴィスに支えられるようにして何とか立っているティリアと……ティリアを閉じ込めるようにして迫るアルヴィス。
数秒の間、誰も、何も言えずにぴしりと空気が固まっていた。
最初にそれを破ったのは、ラウラだった。
「このっ……ケダモノが!! 覚悟しろオラァ!!」
ラウラは近くに置いてあった高そうな壺を掴むと、ものすごい勢いでアルヴィスに向かって投げつけたのだ。
「うわっ!」
アルヴィスは大きく後ろに下がり、間一髪飛んできた壺を回避した。
勢いよく壁に叩きつけられ、高価な壺が世にも無惨な音を立ててバラバラに砕け散る。
「ティリア大丈夫!? 若様が無理やり迫るような真似をするなんて……よしよし、怖かったね」
こちらへ駆けてきたラウラにぎゅっと抱きしめられ、よしよしと頭を撫でられ……ティリアはやっと彼女が大きな誤解をしていることに気がついた。
「あの、ラウラさん違うんです……」
「神獣にしか欲情しない特殊なタイプの人かと思ってたのに……とんだ食わせ者だわ!」
「いえ、その……」
「まさか、立場を盾に無理やりティリアを手籠めにしようだなんて――」
「ひどい言い草だね、ラウラ」
どこか呆れたようにそう口にするアルヴィスを、ラウラは怒りをあらわに睨みつけている。
「いーえ! どんだけでも言ってやりますよ! 若様の幼馴染として、駄目なことは駄目と言ってやらなければ!」
「はぁ……でも、君がそこまでティリアのことを大切にしてくれて有難いよ」
「当たり前じゃないですか! 私は若様とは違うんです!! 若様だって権力を笠に着たセクハラジジイは最低だって言ってたくせに!!」
「ラウラさん、違うんです……!」
このままでは、アルヴィスとラウラの関係に亀裂が入ってしまうかもしれない……!
こちらを振り向いたラウラに、ティリアは必死に言葉を絞り出した。
「あの、実は私、昨日……」




