46 やめて、言わないで
(だめ、逃げられない……!)
ぎゅっとブラックサンダーを抱きしめたまま、ティリアは迫りくる火の玉を見つめることしかできなかった。
ほんの一瞬の時間が、ひどく長く感じられる。
あれはバーベナの怒りの炎だ。
直撃すれば、今までのように単なる火傷では済まないだろう。
(アルヴィス様……!)
その瞬間、ティリアの脳裏に浮かんだのは敬愛する主人の姿だった。
その途端、目の前の空間を一陣の風が切り裂いた。
「え……」
空間を凪ぐように放たれた風の刃に、バーベナの放った火球は真っ二つに割れる。
勢いで軌道が逸れ、二つに分かたれた火球はティリアの背後の壁に激突した。
(いったい何が……っ!)
次の瞬間、視界に入ったその姿に、ティリアの胸は熱くなる。
ティリアを守るように、前に立つ背中を見間違えるはずがないのだから。
「アルヴィス様……」
……来てくれた。
それだけで、涙が出そうなほどの歓喜が胸に押し寄せる。
「……何のつもりだ」
アルヴィスが静かにバーベナにそう問いかける。
あからさまな苛立ちを含んだ低い声に、直接彼の怒りを向けられているわけではないティリアまでびくりとしてしまった。
「な、なによ……」
さすがのバーベナも、怯えたように声を震わせている。
「い、いきなり何なの……? あなたには関係な――」
「ティリアはリースベルク公爵家の使用人。彼女を傷つけるということは、リースベルク家に刃を向けるのと同等の行為だ。主人として、見過ごせるわけがないだろう」
「……は? 公爵家……?」
バーベナの視線が、静かな怒りをあらわにするアルヴィスと、その背後で震えるティリアの間を彷徨う。
(ぁ……)
ティリアの胸に嫌な予感がよぎる。
もしもここで、バーベナがティリアの素性を暴露してしまったら。
……アルヴィスに知られてしまう。
経歴に嘘をついていたことも、ティリアがどうしようもない「無能」だということも。
そうなれば、もう今までのように彼の傍にいることは許されないだろう。
ティリアはバーベナを止めようと口を開こうとした。
だが、遅かった。
「なにそれ。あなたは公爵家の人間で、お姉様はそこで働いているってこと?」
「公爵家の人間なのはそうだが、お姉様とは……?」
バーベナの言葉に、アルヴィスが怪訝そうにそう口にする。
彼を見つめるバーベナの瞳が、徐々に輝きを増していくのがわかった。
「うそ、こんなところで公爵家の方に会えるなんて……!」
先ほどまでの態度が嘘のように、バーベナはにっこりと愛らしい笑みを浮かべてアルヴィスへとにじり寄る。
その光景を見た途端、心臓が鷲掴みにされるような絶望が押し寄せた。
「初めまして、素敵な御方。リッツェン伯爵家のバーベナと申します。こんなところで会えるなんて、運命みたい!」
「リッツェン伯爵家……? そもそも、なぜ君はティリアを――」
「あら、ご存じないのですか? そこにいるティリアはリッツェン伯爵家の娘で、私の姉なのよ」
「っ――!」
知られて、しまった。
まるで足元が崩れていくような絶望に、呼吸の仕方まで忘れてしまったかのように胸が苦しくなる。
(嫌、やめて……)
「まぁ、同じ家の人間だと思いたくないような『無能』なんだけど。なんて言って取り入ったかは知らないけど、公爵家の人間が気にかけるような存在じゃないわ」
(やめて、言わないで……)
「ティリアが、伯爵家の人間……?」
「お姉様のことはもういいじゃない。あんな出来損ないに比べて、私はものすごく優秀で……ってちょっと!」
バーベナの言葉の途中で、アルヴィスはティリアの方を振り返る。
「ティリア、彼女の言うことは……ティリア!?」
振り返ったアルヴィスが驚愕に目を見開く。
その姿も、どこかぼやけて見える。
胸が、息が苦しい。手足が震え、ブラックサンダーを取り落とさないようにするのが精いっぱいだ。
周囲の音が遠くなり、ガンガンと耳鳴りがこだまする。
早く、弁解しなくては。
そうわかっているのに、言葉が出てこない。
それどころか、呼吸すらままならない。
(ごめんなさい、アルヴィス様……)
「ティリア!」
がくりと体が傾いた瞬間、アルヴィスに抱き留められたのがわかった。
バーベナが声を張り上げ何かを叫んでいる。アントンの声も聞こえるような気がする。
だがアルヴィスはそのいっさいに耳を貸すことなく、ティリアを抱き上げると二人に背を向け歩き出した。
「待ってよ! なんで私じゃなくそんな『無能』を気にかけるのよ!」
「ティリアを返せ!!」
乗り込んだ馬車の外からバーベナとアントンが叫んでいるのが聞こえるが、アルヴィスは動じることなく御者に命じた。
「すぐに出せ」
「はっ」
追いかけてくる声を振り払うように、馬車は動き出す。