43 私って、本当に醜い
「いえ……やはり、怪我を負っているようには見えません。アルヴィス様のお話しした状況を聞く限り、ユニコーンの治癒力が働いたのでは――」
「そう、ですか……ありがとうございます、安心しました」
別館の一室――駆け付けた医師の言葉に、アルヴィスはどこか納得がいっていないような顔をしながらも礼を言っていた。
ティリアも信じられない思いで、傷一つない自身の腕を見つめる。
クルルに噛まれた傷だけではない。伯爵家で繰り返されていた暴力によって体に刻まれていたはずの痕も、まるで初めからなかったかのように消えている。
(これも、神獣――ユニコーンの力なの……?)
ユニコーンの角や血には凄まじい癒しと浄化の作用があるとされている。
だが、こんな風に……少し近付いただけで古い傷跡まで綺麗に消してしまうなんて、聞いたことがなかった。
「ただし、出血が多かった場合は日常生活に支障がでることが考えられます。数日は体に負担がかかる作業などは避けた方がよろしいかと」
「はい、気を付けます」
しっかりと頷いたアルヴィスに、医師は「所用があるので少し席を外す」と立ち上がった。
ばたんと音を立て扉が閉まり、二人きりになると……アルヴィスはずるずるとその場に座り込んだ。
「よかった……君が無事で……」
「アルヴィス様……」
安堵の息を吐くアルヴィスに、ティリアの胸は痛んだ。
ティリアの怪我はたいしたことはなかった。だが、ティリアの不手際のせいでアンデルス侯爵令嬢の機嫌を損ねてしまったのは事実だ。
そう考えると、申し訳なさでいっぱいになってしまう。
「……本当に、申し訳ございません。私のせいで、アルヴィス様にもアンデルス侯爵令嬢にもご迷惑を――」
「君のせいじゃない」
アルヴィスは珍しく、ティリアの言葉を力強く否定した。
「遅かれ早かれああなっていたんだ。むしろ、彼女の本性を見抜けずに神獣に近づけてしまった僕の落ち度だ」
「あの、縁談は――」
「断る。誰が何と言っても、だ。ティリア、念のため言っておくけど……今回の件について、君が気に病む必要はない」
「ですが……」
「ティリア」
アルヴィスはベッドの上で上半身を起こしたティリアの傍に屈みこみ、しっかりと視線を合わせる。
「僕にとって何よりも大事なのはあそこで暮らす神獣たちなんだ。アンデルス侯爵令嬢が神獣を傷つける可能性がある以上、彼女を受け入れる可能性は万に一つもない。むしろ、君のおかげで誤った判断をせずに済んだくらいだ」
「アルヴィス様……」
アルヴィスはそっとティリアの手を取った。
クルルに噛みつかれ、今は綺麗さっぱり傷跡が消えた方の手だ。
「……痛かっただろう」
彼があまりに悲し気な顔でそう言うので、ティリアの方が慌ててしまう。
「い、いえ……あの時は必死で、ほとんど痛みを感じる暇もないくらいで……」
ティリアはそう取り繕ったが、アルヴィスの表情は晴れない。
彼は物憂げな表情でティリアの腕を見つめている。
そのまま、手首の辺りに顔を近づけたかと思うと――。
「!?」
手首に、口づけられた。
まったく予想外の行動に、ティリアの心臓が大きく音をたてる。
「あ、アルヴィス様……!?」
動揺のあまり、絞り出した声がひっくり返ってしまう。
ティリアの呼びかけに顔を上げたアルヴィスは、真っ赤になったティリアと、たった今唇を落としばかりの手首に交互に視線をやり……やっと自分が何をしたのかに気づいたようだ。
「い、いや……これはその……そうだ! あの時のブラックサンダーと同じことをすれば何が起こったのかわかるかと思って……」
ブラックサンダーは別にティリアの傷跡に口づけたわけではないのだが……その辺りを指摘するのはやめておいた方がいいだろう。
その場に漂う気まずい空気を払拭するように、アルヴィスが軽く咳払いをする。
「確かにユニコーンは解毒や浄化、沈静など様々な癒しの力を持っていると言われている。だが大きく効果を発揮するのは、角や血などを薬剤として口にした時だ。近づくだけで怪我が治るなんて、今までの症例にはなかった」
アルヴィスは真面目な顔で考え込んでいる。
神獣の生態に詳しい博識な彼にとっても、あの時起こったことは不可思議だったのだろうか。
アルヴィスが顔を上げ、まっすぐにこちらを見つめる。
思わずどきりとしたティリアに、彼は真摯な声で問いかけた。
「……ティリア、君の方で何か心当たりは?」
「いえ……私も、何が起こったのかさっぱりで……」
あの時、あの小さなユニコーンがティリアに「一緒に」と訴えかけ、ティリアの中に未知の何かが生まれたのを感じた。
だが、ティリアにはそれが何なのかがわからない。
神獣であるユニコーンの特殊な力だと思っていたが、違うのだろうか……?
アルヴィスは何かを探るように、じっとティリアを見つめている。
それに気づいたティリアが戸惑うように視線を揺らすと、彼は取り繕うように視線を外した。
「ブラックサンダーが、こうやって人の手で観測されるのも珍しいユニコーンの幼体だから起こった奇跡なのか、気に入っている君のことを助けたいと願った結果なのか、あるいは……」
再びこちらを向いたアルヴィスが、意味深な視線を投げかけてくる。
彼が何を言いたいのかわからず、ティリアは思わず息を飲む。
「いや……何でもない」
結局アルヴィスは、そこで話を打ち切った。
「今日一日は、何もせずにゆっくりと休んでくれ。神獣たちのことも、アンデルス侯爵令嬢のことも何も気にしなくていい。絶対に、無理をしてはいけないよ」
「はい……」
ここで反抗しても、アルヴィスに心配をかけるだけだ。
そうわかっていたからこそ、ティリアは素直に頷く。
そんなティリアの反応にほっとしたように、アルヴィスは表情を緩めた。
「おやすみ、ティリア」
そう言って微笑みかけ、アルヴィスは部屋を出ていく。
室内に静寂が落ち、ティリアはそっと息を吐いた。
「はぁ……」
怒涛の一日だった。
もしあの時、もっと神獣たちを制止することができたなら……アンデルス侯爵令嬢とアルヴィスが婚約するようなこともあったのだろうか。
――「アンデルス侯爵令嬢が神獣を傷つける可能性がある以上、彼女を受け入れる可能性は万に一つもない」
アルヴィスはそう言ってくれたが、どうしても心に厚い雲がかかったような気分になってしまう。
だが、それと同時に――。
(……最低だ、私。こうなったのを喜んでいるなんて)
アルヴィスの婚約が決まらなかったことにより、心の奥底から「歓喜」が沸き上がって来るのに気付かない振りはできなかった。
(私って、本当に醜い……)
アルヴィスのためを思うのなら、喜ぶべきではないのに。
たかが使用人ごときが、こんな想いを抱くことすら不相応なのに。
じわじわと自己嫌悪に苛まれ、ティリアは両手で顔を覆った。




