42 共鳴
「大丈夫、大丈夫だからね……!」
暴れるクルルを腕の中に閉じ込め、必死にそう語りかける。
痛みなんてたいしたことはない。今はそれよりも、この優しい神獣がアンデルス侯爵令嬢を傷つけてしまうのが怖かった。
そんなティリアを見下ろしながら、アンデルス侯爵令嬢はわけがわからないとでもいうように叫ぶ。
「わ、私のせいじゃないわ! あなたが……あなたがきちんと躾けてないのが悪いんじゃない! 使用人の癖に出過ぎた真似を――」
「アンデルス侯爵令嬢」
アルヴィスがいきりたつアンデルス侯爵令嬢の肩を掴む。
縋るように視線を向けた彼女に、アルヴィスは冷たく告げた。
「今すぐここから出ていってくれ」
「ぇ……?」
いつもの穏やかな貴公子ではない。
今のアルヴィスは、明らかに怒りを宿した瞳でアンデルス侯爵令嬢を睨みつけていた。
「わっ、わたしは何も……!」
「聞こえなかったのか? 今すぐ、ここから消えろ」
凄むようなアルヴィスの声に、アンデルス侯爵令嬢は「ひっ」と短い悲鳴を上げる。
そのまま一歩、二歩と後ずさり……怯えたように背を向け、温室から逃げ出していく。
(どうしよう、私のせいで……)
ティリアは焦ったが、アルヴィスが傍らに膝をついた気配がしてはっと顔を上げる。
アルヴィスはティリアと、ティリアの腕の中のクルルへ視線を走らせ、いつもより低い声で告げた。
「クルル、落ち着け。今はティリアの治療が先だ」
「クルゥ……」
クルルはやっと正気に戻ったのか、ぺしょりと耳を垂れさせ慌てたようにティリアの腕に噛みつくのをやめる。
「見せて」
「あっ……」
ティリアを抱き起すように自らの体にもたれさせると、アルヴィスは素早くティリアの腕の傷を確かめようと袖をまくる。
また火傷の痕を見られてしまったら……とティリアは焦ったが、それどころではなかった。
ティリアの細く白い腕は、思わず目をそむけたくなるほど真っ赤に染まっていたのだ。
「まずい、出血が多いな……」
この場を何とかしなくては……という意識が強くあまり痛みを感じてはいなかったが、どこか深い血管を傷つけてしまったのかもしれない。
いつもは穏やかなアルヴィスの表情や声にも焦燥が滲んでいる。
どうやら、怪我の程度は思ったよりも悪いようだ。
(もし私に何かあっても、クルルが気に病まないといいのだけれど……)
アルヴィスは首元のクラバットをほどくと、包帯のようにティリアの腕に巻いていく。
「いけません、血がついて……」
「君の方が大事だ」
さらりとそう言われ、泣きそうになってしまう。
そんなことを考えていると、アルヴィスの腕が背中と膝裏に回される。
そのまま抱き上げられ、ティリアは驚いてしまった。
アルヴィスは急ぎ足でティリアを連れて行こうとしたが、その時背後から切なげな鳴き声が追いかけてきた。
「きゅい! きゅいん!」
ティリアがそちらへ視線を向けると、温室の奥にいたブラックサンダーが猛然とこちらへ駆けてくるところだった。
「ブラックサンダー……! 悪いが今お前の相手をしている時間は――」
「きゅい!」
「こら、聞け!」
ブラックサンダーはアルヴィスの制止など意に介さず、大きく跳躍してティリアの胸元へとやって来る。
「っ……! ティリアは今大きな怪我をしていて――」
「ま、待ってください……」
苛ついたようにブラックサンダーを追い払おうとするアルヴィスを、ティリアは慌てて止める。
「きゅいぃ……」
こちらを見つめる切なげな瞳には、ティリアへの心配がありありと見て取れた。
その優しさを、邪険にはしたくなかったのだ。
「ありがとう、心配してくれたのね……」
「きゅい……」
ブラックサンダーは心配そうにティリアの腕を見つめている。
せっかくアルヴィスが巻いてくれたクラバットも、今は赤い血で染まっている。
ブラックサンダーは何を思ったのか、ティリアの傷口のあたりにそっと自らの角をかざした。
その途端、ティリアの中で変化が起こった。
(なに、これ……)
今までに感じたことのない、なにか大きくて温かな力が自分の中に渦巻いている。
とめどなく湧き出る泉のように、何かが自分の中に生まれたのがわかった。
「ティリア……?」
アルヴィスも異変を感じ取ったのだろう。
もうブラックサンダーを追い払おうとはせず、息を飲みこの状況を見守っている。
「きゅい」
ブラックサンダーはティリアを見つめ、何かを訴えかけるように鳴いた。
それはいつもの「ごはんちょうだい」でも「なでなでして」でもない。
不思議と、ティリアには小さなユニコーンが何を言いたいのかがわかった。
(「一緒に……」)
一緒に、何かをしようと訴えかけているのだ。
ティリアが頷くと、ブラックサンダーは再びティリアの傷口に金色の角をかざす。
小さなユニコーンから、温かな力が流れ込んでくる。
その力と、ティリアの中に眠る「何か」が共鳴する。
その途端――。
「っ……!」
腕の傷口を中心に、柔らかな光に包まれた。
「これは……!?」
アルヴィスも驚いたように目を見開いている。
柔らかな光が、温かな力が、傷ついた体を癒していく。
今までにない充足感に満たされ、ティリアは大きく息を吐いた。
やがて光は小さくなり、ティリアの中に吸い込まれるようにして消えた。
「きゅい!」
ブラックサンダーは「お仕事完了!」とでも言いたげに、明るい声を上げる。
ティリアも、自分の変化に気づいていた。
「痛、くない……?」
先ほどまで感じていた痛みが、綺麗さっぱり消えている。
「まさか……」
何かに気づいたアルヴィスがそっと屈みこみ、片手でティリアを支えたままもう片方の手で器用に包帯代わりのクラバットを解いていく。
次の瞬間、アルヴィスもティリアも驚きに息を飲んだ。
「っ……!」
先ほどまで血で真っ赤に染まっていたティリアの腕は、傷一つない白くなめらかな状態に変わっていたのだ。
「ブラックサンダーが傷を癒したのか……? とにかく、一度医務室で診てもらおう」
呆然としたティリアを再び抱えあげ、アルヴィスは急ぎ足で医務室へと向かう。
彼の腕の中で、ティリアは呆然と自らの腕を見つめていた。
……きっと、アルヴィスは気づいていない……あるいは、知らないだろう。
先ほどクルルに噛まれた傷だけでなく、もう何年もティリアを蝕んでいた、伯爵家でつけられた消えるはずのない痕まで消えていたことに。




