34 定期健診の日
迎えた定期健診の日、ティリアはいつも以上に気を払いながらブラックサンダーと共にリースベルク家の馬車へと乗り込む。
「よし……荷物はこれで全部かな」
「はい、先ほど確認しましたが必要な物は全て準備してあります」
ティリアの腕から鞄を受け取り、アルヴィスは御者へと手渡す。
その姿を見つめ、ティリアは思わず感嘆の息を漏らしてしまった。
今日のアルヴィスは、王宮へ登城するからか、騎士としてのいでたちをしていた。
その姿がまた一段と凛々しく見えてしまい……ティリアの胸はざわめいてしまう。
「きゅい!」
ブラックサンダーは単なるお出掛けだと思っているのか、「きゅいきゅい」と鳴きながらはしゃいでいる。
「王宮が見えたら驚いて逃げ出そうとするかもしれない。念のため気を付けておいてくれ」
「はい」
アルヴィスにそう囁かれ、ティリアはしっかりと頷いた。
現在、ブラックサンダーはいつものようにティリアの腕の中にいる。
念のため特注のケージも馬車につんであるのだが、できれば出番が来ないことを願いたいものだ。
アルヴィスとティリアは、ブラックサンダーが不安にならないように、とりとめのない話を続ける。
だが王宮が近づくにつれ、ティリアも心穏やかではいられなかった。
(王宮……どんなところなのかしら。失礼のないようにしないと……)
もしもティリアが何かしでかせば、それは雇い主であるリースベルク公爵家の評判に響いてしまう。
そんな緊張が伝わったのか、ブラックサンダーは不思議そうにティリアを見上げている。
だが、ティリアの動揺を感じ取ったのはブラックサンダーだけではなかった。
「大丈夫だよ、ティリア」
不意に声をかけられ、ティリアははっと顔を上げる。
見れば、正面に座るアルヴィスが、優しい目でこちらを見つめている。
「君が臆する必要はない。いつも通り、ブラックサンダーの傍についていてくれれば大丈夫だ」
「……はい」
ティリアは小さく頷く。
……本当に、不思議だ。
アルヴィスがそう声をかけてくれただけで、不安がすっと消えていく。
「あ……」
やがて馬車の窓越しに、黒と金で彩られた宮殿の門扉が見えてくる。
初めての光景に目を奪われるティリアは、アルヴィスがじっとこちらを見つめていることに気が付かなかった。
「ほら、おいで。ブラックサンダーを離さないようにね」
「はい……」
まだ検診まで時間があるということで、アルヴィスはティリアに宮殿を案内すると申し出てくれた。
「今までは真っ先に獣医の所へ向かっていたんだが……それが良くなかったのかもしれない。少しずつ、この場に慣らした方が、ブラックサンダーも安定するかもしれないな」
「なるほど」
ティリアの腕の中のブラックサンダーは、今のところ逃げ出そうとする様子もなく、きょろきょろと物珍しそうにあたりを見回している。
二人(と一匹)が降り立ったのは、宮殿を正面に望む庭園の前だ。
「わぁ……」
初めて間近で見る宮殿の姿に、ティリアは視線を奪われずにはいられなかった。
まるで空へと突き抜けるような、高くそびえる尖塔が美しい白亜の宮殿。
遠くからでも城壁や屋根に細やかな装飾が施されているのが見て取れ、巨大な芸術品のようだった。
その壮大な光景に、ティリアは畏怖の念を抱かずにはいられなかった。
建物だけでなく、目の前に広がる庭園もまたけた外れの美しさを誇っていた。
完璧に手入れされた芝生が見渡す限り広がり、美しく咲き誇る花々や青々とした木々が点在している。
空気は甘い花の香りに包まれ、遠くからは優しい噴水の音が聞こえてくる。
視覚だけでなく、嗅覚や聴覚にも訴えるように計算されつくした、まさしく職人芸のなせる業だろう。
ティリアはしばらくの間、その美しい空間に魅入られたように立ち止まってしまった。
「気に入った?」
「は、はい……こんなに綺麗な光景を見るのは、初めてかもしれません……!」
少し興奮気味にそう告げると、アルヴィスは嬉しそうに口角を上げる。
「よかった。ティリアなら喜んでくれると思ったんだ」
その笑顔を直視できずに、ティリアは眼下の花に気を取られた振りをして俯いた。
……そんな風に、優しく微笑まれたら。
抑えられなくなってしまう。溢れ出しそうになってしまう。
ティリアの中に眠っている、身勝手な想いが。
「きゅい!」
「あっ、駄目よ!」
あたりをひらひらと舞う蝶に興味を惹かれたのか、ブラックサンダーがティリアの腕の中から抜け出そうとする。
アルヴィスと二人で四苦八苦しながらブラックサンダーを宥めているうちに……なんとかティリアは落ち着きを取り戻すことができた。
(だめ……注意をおろそかにしている場合ではないわ)
そう気を引き締め、ティリアはしっかりとブラックサンダーを抱えなおした。




