33 ありえない幻想
ある夜、屋敷内の施錠確認を終えティリアが談話室へ戻ってくると、ソファに腰を下ろしたアルヴィスが難しそうな顔をして手帳を眺めていた。
「なるほど……」
何か不測の事態でも起こったのだろうか。
はらはらと見守るティリアに気づくと、アルヴィスは優しく自分の隣へ座るように促してくれる。
ティリアがおそるおそる腰を下ろすと、あたりをうろうろしていたブラックサンダーが嬉しそうに飛び乗って来た。
「ティリア、申し訳ないけど君に頼みたいことがあるんだ」
「私に、ですか……?」
アルヴィスの言葉に、ティリアは少し驚いた。
だが、迷うことはなかった。
ティリアができることで、アルヴィスの役に立てるなら断るなどと言う選択肢は存在しないのだ。
「……はい、私にできることならなんでもお申し付けください」
そう言うと、アルヴィスは嬉しそうに笑った。
「ありがとう、ティリア。実は、そろそろブラックサンダーの定期健診の時期でね」
「定期健診?」
「あぁ、王宮に凄腕の獣医がいてね。ブラックサンダーは初めてこの屋敷で――人の管理下で生まれた神獣だから、異常がないかどうか定期的に診てもらっているんだ」
そう言って、アルヴィスは何もわかっていなさそうにきょとんとしているブラックサンダーの頭を撫でた。
「君も知っている通り、ブラックサンダーはとんでもなくおてんばなお姫様でね。前回はシデリスをお目付け役として連れて行ったんだが……とんでもないことになった」
どこか遠い目をするアルヴィスに、ティリアは何となく事情を察した。
きっとブラックサンダーが暴れ、脱走を企てたりしたのだろう。
「それは大変ですね……」
「あぁ、そこで……今回は、君に同行を頼みたいんだ。信頼する君が傍にいれば、慣れない環境でもブラックサンダーも落ち着くだろう」
「きゅい?」
宥めるようにブラックサンダーの頭を撫でながら、アルヴィスはそう口にする。
ブラックサンダーの検診は、王宮の獣医によって行われるとアルヴィスは言っていた。
ということは――。
(私が、王宮に……?)
そう考えた途端、ティリアは緊張してしまう。
(まさか、こんな形で王宮に足を踏み入れることになるなんて……)
一度は伯爵家の跡取りとして育てられていたのだ。
当然、王家や王宮に関しての基礎知識は頭に入っているが……伯爵令嬢としてではなく、公爵家の使用人として王宮に行くことになるとは。
……まったく、躊躇がなかったと言えば嘘になる。
だが、アルヴィスは実際に困っており、ティリアの助けを必要としているのだ。
だったら、断ることなど出来るはずがない。
「わかりました。事前の準備などは必要でしょうか?」
「あぁ、詳しいことはシデリスがまとめていたから、あいつに聞くといい。……ありがとう、ティリア」
アルヴィスの言葉に、ティリアは小さく頷いた。
「あぁ、王宮での定期健診に……あれは大変ですよ。できれば二度とやりたくはないですね」
アルヴィスに言われた通り、ティリアは定期健診のために必要な準備を行うために、シデリスの下を訪れていた。
「見えます? この傷。あの小さいユニコーンの角で何度もぷすぷす刺されたんです」
「そ、それは大変でしたね……」
シデリスが手袋を脱ぎ、手のひらの傷を見せてくれる。
ぽつぽつと見える小さな赤い点は、確かにブラックサンダーの角で刺された時の傷のようだった。
「やはり検診ともなるとあのユニコーンも緊張するようで……何度も何度も脱走してそのたびに王宮内を駆けずり回る羽目になりました。まぁ、話を聞く限りあなたはあのユニコーンに信頼されているようなので、とにかくあれが落ち着けるような環境を整えることが第一かと」
「なるほど……」
ブラックサンダーがお気に入りのおもちゃや、毛布なども持って行った方がいいだろう。
他にもいくつか必要な物や、現地での流れを聞きだし、ティリアはシデリスに礼を言った。
「ありがとうございます、シデリスさん。助かりました」
「いえ、お力になれたようならなによりです。それより――」
シデリスは少しだけ逡巡したように視線を彷徨わせ、やがて決意したように口を開く。
「最近、若様はそちらで寝泊まりすることが多いようですが……何か困ったことなどはありませんか?」
「……? いえ、大丈夫です」
ティリアがそう返すと、シデリスは探るように目を細めた。
「ティリア、ここでは正直に言っていただいて大丈夫です。たとえば、若様からセクハラを受けたりなどは――」
「!? あ、ありません! ありません全く!!」
シデリスがとんでもないことを言いだしたので、ティリアは慌てて否定した。
「本当に……そのようなことはないんです……」
ティリアがもごもごとそう口にすると、シデリスは少しだけ安堵したように息を吐く。
「そうですか……それは安心しました。いえ、別に若様を疑っているわけではないのですが、あなたも未婚の女性です。あなたのためにも、リースベルク公爵家のためにも、醜聞は避けなくてはならないので」
「はい……」
――「醜聞」
その言葉が、胸に重くのしかかる。
シデリスがそう言うのも当然だ。
今のティリアはただのいち使用人、たいしてアルヴィスは名門侯爵家の跡取り。
二人の間に何かが起こっても、それはただの「醜聞」でしかないのだ。
(そんなの、当然だったのに……)
アルヴィスに優しくしてもらえたから、少し、ほんの少しだけ……夢を見過ぎていたのかもしれない。
きっとティリアがのぼせ上っていただけで、アルヴィスの方には一切そんな気はなかったのだろう。
当然だ。名門貴族の令息が、使用人など相手にするはずがないのだから。
(もしも私が、伯爵家の娘としてアルヴィス様と出会っていたら……)
「無能」の烙印を押されることもなく、リッツェン伯爵令嬢として社交界デビューし、彼の前に立てていたら……。
そんな、ありえない幻想に縋りそうになってしまう。
「……ティリア?」
不意にシデリスの心配そうな声が聞こえ、ティリアははっと我に返る。
「は、はい!」
「やはり何か悩み事でも……? 困ったことがあったら何でも言ってください。使用人の問題解決も私の仕事ですから」
「いえ、本当に大丈夫です……」
ティリアはお辞儀をして、足早にその場を後にした。
(駄目だ、しっかりしなきゃ……)
くだらない感傷などに振り回されている場合ではない。
ティリアに居場所をくれたアルヴィスのためにも、神獣たちのためにも。
しっかりと自分の仕事をまっとうしなければ。
大きく息を吸い、ティリアは再び前を向いた。




