32 暗雲
その後も、アルヴィスは様々な場所へティリアを連れて行ってくれた。
行きつけにしているという工房では、ティリアが拾ったイリデセント‐カラドリウスの美しい羽をペンに加工するように注文してくれた。
初めて足を踏み入れた王立美術館では、多くの絵画や彫刻に息を飲んだ。
王城にもほど近い中央広場のシンボルとなっている、古代の趣を残す都市の城門は圧巻だった。
王都の中をゆったりと流れる運河を進む遊覧船に乗った時、彼は
「今ここで水の中から海竜が出てきたおもしろいだろうね」と冗談なのか本気なのかわからなことを言っていた。
……何もかもが初めてで、キラキラと輝く砂糖菓子のような体験だった。
「はぁ……」
その夜、ティリアは中々寝付くことができなかった。
そっと目を開け、ちらりと室内のクローゼットへ視線をやる。
その中には、アルヴィスが贈ってくれた衣装が大切にしまわれている。
外出用の衣装はともかく、舞踏会で着るようなドレスなどティリアにはもったいないと何度も固辞したのだが、アルヴィスは譲らなかった。
――「リースベルク公爵家では一年に一度、使用人のための舞踏会を開くんだ」
――「持っていて損はないはずだよ」
――「それに……ラウラも言っていたじゃないか。このくらいの年頃の女の子なら、新しいドレスを欲しがるものだって」
――「ティリアも、そうなのかと思って……」
その言葉を聞いて、ティリアは驚いた。
確かにここで働き始めて間もない頃に、ラウラも交えてそんなことを話した記憶がある。
ティリアはラウラの勢いに飲まれて相槌を打っていたくらいだったが、アルヴィスはしっかりと覚えていてくれたのだ。
(嬉しい……)
他意はないと、単に破損してしまった衣服の補填だとはわかっている。
だが、それでも嬉しかった。
彼が、少しでもティリアのためを思ってこうして衣装を贈ってくれたのが。
(本当に、夢みたい……)
目を閉じるのが、眠ってしまうのが恐ろしい。
すべて、ティリアの夢や妄想なのではないかと疑ってしまう。
次に目が覚めた時は、あの狭くて固い伯爵家のベッドで目覚めるのではないかとすら思ってしまうのだ。
そんな時、暗闇から小さな声がした。
「クルゥ」
「……クルル?」
そっと声をかけると、何かがティリアの寝ているベッドに飛び乗って来た。
おそるおそる手を伸ばすと、ふわふわの毛並みに指先が触れる。
「来てくれたのね……」
まるでティリアの不安を感じ取ったかのように、クルルは来てくれたのだ。
そっと胸元へ抱き寄せると、柔らかな感触とミルクのような匂いに多幸感に包まれる。
……大丈夫、これは夢じゃない。
そう信じて、ティリアはそっと目を閉じた。
◇◇◇
「ちょっと、ふざけてるの!? この私に、こんなだっさい髪型で外に出ろっていうの!?」
「も、申し訳ございません……!」
屋敷中にバーベナの怒声が響き渡る。
彼女の婚約者であるアントンは、聞かなかったことにしたい気持ちをなんとか抑え……声の下へと急いだ。
バーベナの私室の扉は開いていた。
おそるおそる中を覗くと、顔を真っ赤にして怒りをあらわにするバーベナが、平伏する使用人に怒鳴り散らしている。
「よくもこの私のヘアセットをめちゃめちゃにしてくたわね。私の心を傷つけたのだから、その分の報いを受ける覚悟はあるんでしょうね?」
「ひっ……!」
手の平に魔法で作り出した火球を揺らめかせ、意地の悪い笑みを浮かべるバーベナに、年若い少女である使用人はすっかり怯え切っている。
その姿に、もう消えてから幾分か経つ想い人の姿が重なり……アントンは部屋の中へと踏み込んでいた。
「やめるんだ、バーベナ」
アントンが使用人を守るように割って入ると、バーベナはあからさまに不快そうに顔をしかめた。
「なによ、あなたには関係ないじゃない。邪魔しないでくれる?」
「こんなことをしたって何にもならないのは君もよくわかっているだろう!? ますます使用人が減っていくだけだ!」
彼女が――ティリアが消えてから、リッツェン伯爵家は変わった。
もちろん……悪い方向に。
アントンとバーベナが婚約を発表した翌日、ティリアは忽然と姿を消してしまった。
アントンは手を尽くして探したが……終ぞ彼女を見つけることはできなかったのである。
「ふん、あの一文無しのお姉様だもの。どこかで野垂れ死んでるに決まってるわ!」
バーベナも、彼女の両親も、そう言って早々にティリアの捜索を打ち切ってしまった。
アントンだけは納得できずに今もティリアを探し続けているが……手掛かり一つ得られていないのが現状だ。
だが、そんな冷淡な伯爵家の対応は、少しずつ使用人たちの離反を招いている。
特にティリアが生まれる前から仕えているような古参の使用人は、散々ティリアを虐げた挙句に見殺しにした伯爵家に見切りをつけたのだろう。
次々に使用人が辞めていき、様々な部分で綻びが出ているのが今の伯爵家の現状だ。
伯爵夫人は新しく使用人を雇っているが当然教育には時間がかかる。
その結果、自分の意に沿わないことが増えすぐにバーベナが爆発するようになってしまった。
今まではティリア一人に向けられていた暴力を、周りにも向けるようになってしまったのだ。
「ほら、ここは僕が何とかするから君は行ってくれ」
「も、申し訳ございません……!」
アントンが促すと、バーベナに怒鳴られていた少女は涙ながらに走り去っていった。
あの様子だと……きっと彼女もすぐに屋敷を去ってしまうだろう。
「……バーベナ、そうやってすぐに使用人にあたるのをやめるんだ」
「はぁ? あいつが無能なのが悪いのよ! こんな変な髪形で私に外を歩かせようだなんて……」
バーベナはぶつぶつと文句を言いながら鏡を睨んでいる。
アントンからすればいつもとどこか違うのかわからなかったが、何かがバーベナの気に障ったのかもしれない。
いや……「髪型が気に入らない」というのはただの方便で、実際はただイライラをぶつける先が欲しかっただけなのだろう。
「君がそうやって当たり散らすから、使用人が怖がって長続きしないんだ。優秀な使用人を育てたいのなら、少し我慢を――」
「なに勘違いしてるの?」
バーベナが怒りの形相でこちらを振り返る。
彼女の手のひらには、先ほどと同じく燃え盛る火球が揺らめていていた。
「あなた、私の婚約者だからって調子に乗ってない? ただの子爵家の次男風情が、伯爵家の跡取りである私になに偉そうに意見してるのよ」
こちらを睨むバーベナの苛烈な視線に、アントンは言葉に詰まってしまった。
そんなアントンを嘲るように、バーベナは火球を弄びながら続ける。
「あんたなんて、お姉様のお気に入りだから見せしめに奪ってやっただけ。私に選ばれたなんて調子に乗らないでもらえるかしら。あんたくらい、いつだって捨てることはできるのよ……!」
「っ……!」
バーベナが火球をこちらへと飛ばす。
寸でのところで避けたが、その直後に軽い爆発音と何かが焦げる嫌なにおいが充満した。
「まぁ、何事なの!?」
その音と匂いを感じ取ったのか、すぐにバーベナの母親である伯爵夫人がやって来た。
その途端、バーベナは打って変わって甘えたような声を上げる。
「ひどいの、お母様! 礼儀知らずの使用人が私の髪をぐちゃぐちゃにして、アントンまで使用人の肩を持つのよ!?」
「まぁ、それはひどいわね……可哀そうなバーベナ……」
必死にバーベナを宥める伯爵夫人の姿に、アントンは頭が痛くなりそうだった。
……こんなはずではなかった。
形だけはバーベナと婚約し、伯爵家を継ぎ、内縁の妻となったティリアと幸せに暮らしていくはずだったのに。
それなのに、どうしてこうなってしまったのだろう。
「不出来な使用人のせいでつらい思いをしたのね……そうだわ! 気晴らしに王都へ行って来たらどうかしら?」
「え、王都!?」
「バーベナの大好きなドレスも宝石もたくさんあるわ。バーベナが向こうへ行っている間に、悪い使用人はきちんと躾けておくから安心してちょうだい」
「ありがとうお母様!」
少しでもバーベナの怒りが収まればいいと考えたのだろうか。
どうやら伯爵夫人は、またしてもバーベナに散財させるようだ。
「アントン、あなたもバーベナに同行しなさい。大した才のないあなたでも、荷物持ちくらいはできるでしょう?」
そう言ってこちらを見る伯爵夫人の視線も、あからさまにアントンを見下していた。
彼女もバーベナと同じく、アントンのことをバーベナのアクセサリーくらいにしか思っていないのだろう。
王都――かつては、ティリアと共に旅立つことを思い描いていた場所。
もしもあの時、伯爵の位に目がくらまずにティリアと共に王都へ行くことを選んでいたら……。
そんなあり得ない未来を頭から振り払い、アントンは恭しく礼をした。
「……承知いたしました、伯爵夫人」
かつて王都へ行こうと考えていた時はあんなにも希望に満ち溢れていたのに。
まるでバーベナの召使のような今は……少しも心が浮き立たなかった。




