3 「馬鹿なお姉様」
屋敷の廊下に敷かれた巨大な絨毯をたった一人で運び、必死に汚れを落とし、疲労困憊になりながらも干し終わった時には……既に、日が暮れかけていた。
(よかった、今夜は雨が降らなさそうで)
既に星が瞬き始めた夕焼け空を見上げ、ティリアはほっと一息つく。
体はしきりに空腹と疲労を訴え、今にも倒れそうなくらいだ。
(……駄目。まだ普段の雑事ができていないわ。夜じゅう働けば、なんとか――)
そんな、気が滅入りそうなことを考えた時だった。
「ティリア、ここにいたんだね」
聞き覚えのある声が耳に入り、ティリアはぱっと振り返る。
そこには、ティリアもよく知る青年が立っていた。
「アントン、来ていたのね!」
そう口にした声は弾んでいた。
彼は、ティリアの幼馴染だ。
――アントン・バッヘム。
領地が隣り合う子爵家の次男。穏やかで人好きのする好青年。
幼い頃からティリアにも良くしてくれて、ティリアが「無能」扱いされるようになってからも優しくしてくれる唯一の人間だといってもよかった。
「屋敷の皆に君の居場所を聞いても『知らない』と言われるばかりで……もう帰ろうかと思ってたところだよ」
「そう……」
途端に表情の暗くなったティリアを気遣うように、アントンは慌てて明るい声を出す。
「あっ、でもここで会えてよかったよ! ……大変だったみたいだね」
寒い屋外でたった一人絨毯を干していたティリアを見て、アントンはだいたいの事情を察したようだ。
彼は無能のティリアにも分け隔てなく優しくしてくれるが、残念ながら今のティリアの境遇を変えるほどの力は持っていなかった。
子爵家の次男でしかない彼が、より力の強い伯爵の意向に逆らうことなどできはしないのだ。
それでも、こうやってこっそりとティリアを気遣ってくれるのが彼の良いところである。
「君におみやげを持ってきたんだ、ほら」
そう言って、アントンは手に持っていた袋の中身を見せてくれる。
中に入っていたのは、美味しそうな焼き菓子だ。
朝から何も食べていないのもあいまって、途端に空腹感が押し寄せ口内に生唾が湧く。
だが、ティリアは恐ろしかった。
「でも、あなたにこんなにいい物を貰ったと知られれば、お母様とバーベナが黙っていないわ……。あなただって、お父様に叱られ――」
「ばれなければ大丈夫だよ。さ、行こう」
アントンは軽くそう言うと、ティリアの手を引いてすたすたと歩きだす。
彼のこの少し強引なおせっかいが、今のティリアには何よりも有難かった。
アントンが足を進めたのは、庭園の隅に位置するガラス張りのガゼボの中だった。
「ここなら君の家族には見えないよ。使用人なら気づいても黙っていてくれる。だから大丈夫さ」
アントンはティリアをベンチに誘うと、自身もその隣に腰掛けた。
「手づかみで悪いけど……さぁ、めしあがれ」
「いいえ、嬉しいわ。ありがとう……」
アントンの手から焼き菓子を受け取り、ティリアはそっと口に運ぶ。
じんわりと舌に染み込む甘みが、ふわっとした歯ごたえが、身も心も満たしていく。
倒れそうなほど空腹だったのも相まって、ティリアにはこの世界で一番美味しい食べ物のように感じられてならなかった。
「ティリア……」
不意に、アントンが心配そうに名を呼び、ティリアへと手を伸ばす。
彼の指先がそっと頬をなぞり、そこで初めて、ティリアは自分が泣いていることに気づいた。
「ご、ごめんなさい……」
慌てて俯き、涙を拭う。
ずっと、我慢していたのに。涙を流すのは、一人の時だけだと決めていたのに。
こんな風に、気が緩んでしまうなんて――。
「……やっぱり駄目だ。聞いてくれ、ティリア」
アントンに手を掴まれ、ティリアは反射的に顔を上げる。
こちらを見つめるアントンは、今まで見たことのないほど真剣な顔をしていた。
「ティリア。もうすぐ僕は独立して家を出るつもりだ」
「えっ。でも、子爵家は……」
「家を継ぐのは兄さんだから問題ないよ。むしろ、僕がいても邪魔になるだけだろうから。何ができるかわからないけど、手始めに王都に行こうと思ってる。いろいろと仕事もあるって聞いたことがあるしね。だから、その時は……」
ティリアの手を握るアントンの指先に力がこもる。
彼は少しの間逡巡し、やがて意を決したように口を開いた。
「その時は……ティリア、僕と一緒に来てほしい。一緒にここを出よう」
「え…………?」
思ってもみない言葉に、ティリアは大きく目を見開いた。
「アントン、それは――」
「もうこれ以上、君が奴隷みたいに扱われるのを見ていられないんだ! 王都に行っても昔みたいな生活はさせられないけど……少なくとも、今よりはずっとマシになるはずだ」
やっとアントンの言いたいことを理解したティリアは、ひゅっと息を飲んだ。
――この家を出る。
……考えたことがないといえば、嘘になる。
だが、ティリアは努めてそんな未来について考えないようにしていた。
……そんなティリアの考えを見通すかのように、アントンは重ねて告げる。
「……ティリア。厳しいことを言うようだけど、ここにいたら君の境遇は一生変わらない。伯爵は、君のことを見ていない。伯爵夫人やバーベナだって、君を便利な踏み台としか考えていないよ」
「っ……!」
見ない振りをしていた事実を突きつけられ、ティリアは息をのむ。
……そうだ。心のどこかで期待していたのだ。
どれだけひどい扱いをされても、めげずに頑張っていれば、いつか……家族の一員として認められるのではないかと。
父に、義母に、異母妹に……愛されるのではないかと。
そんな、馬鹿みたいな願望を胸の奥底に抱いてしまっていたのだ。
だが、そんな願望が叶う日は来るわけがない。
きっと一生、ティリアは惨めな奴隷のままなのだ。
そんな残酷な事実を突きつけられ、ティリアは俯いて唇を噛んだ。
(……わかっていた。お父様にとって私はいらない存在なのだと。お母様やバーベナだって、私を好きになってくれるはずがなかったのに)
だが、認めてしまえばティリアは一人になってしまう。
誰にも愛されない、必要とされない、何の役にも立たない無能。
それが、怖かったのだ。
ぽろぽろと静かに涙を流すティリアを、アントンはじっと見つめている。
そして、そっと抱きしめてくれた。
「……ごめん、ティリア。僕は君の家族を変えられなかった。でも……これからは、僕が君の家族になる」
「え……?」
「こんな時に言うのも何だけど……ずっと、君が好きだったんだ」
真っすぐにこちらを見つめるアントンの目は真剣で、とても嘘をついているようには見えなかった。
「ここを出て、王都に行って……二人で新しい人生を始めよう。大丈夫、二人ならなんとかなるはずさ」
アントンが優しく笑い、ティリアの目にはまた涙が溢れる。
……嬉しかった。
何もかも失ったと思っていた自分に、まだこんな風に言ってくれる人がいるなんて。
彼と共に歩み出す、明るい未来を夢見ずにはいられなかった。
「……嬉しい。ありがとう、アントン」
そっと頷くと、アントンはしっかりとティリアを抱きしめてくれた。
その温かさに、疲れ切っていた身も心も満たされていく。
ティリアはそっと、彼の背に腕を回した。
「……伯爵は認めてくれないかもしれない。いざとなったら夜逃げのようになるかもしれないけど、構わないかい?」
「えぇ、大丈夫よ。ここに置いていって惜しい物なんて、もう何もないもの」
すっかり日の落ちた庭園を、二人で歩く。
あっという間に屋敷の門まで着いてしまい、ティリアは名残惜しさを感じながらアントンに手を振った。
「またすぐに来るよ。体調に気を付けてね、ティリア」
何度も何度も手を振って去っていくアントンの背中を、ティリアは見えなくなるまで見送った。
ティリアの心を厚く覆っていた絶望が、少しずつ晴れていくような心地だった。
こんなに晴れやかな気分になるのは、きっと……母が生きていた時以来だろう。
「楽しみだわ……」
彼と二人で始める王都での生活――まったく想像がつかないが、だからこそ心が躍る。
私物なんてほとんどないに等しいが、それでも必要最低限の日用品くらいはまとめておいた方がいいだろう。
朝からの疲れも忘れ、ティリアは軽い足取りで歩き出す。
……その姿を、異母妹のバーベナに見られていたとも知らずに。
「へぇ、そういうことなの。……馬鹿なお姉様」
にやりと意地悪く笑い、バーベナは鼻歌を歌いながら歩き出す。
大事な相談をするために、父の執務室へと。