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2 傷だらけのティリア

 朝は、寒さで自然と目が覚める。

 薄い毛布は氷のように冷たくなっており、とてもティリアの体を温めてはくれなさそうだった。


 ……こんな日は、無理に眠ろうとするより動いて体を暖めた方がいい。


 今までの経験からそう判断したティリアは、むくりと起き上がった。

 ティリアの体がやっと収まるほどのベッドが、二つも入らないであろう狭い空間。

 それが、今のティリアに与えられた部屋だった。元は物置部屋の一つだったそうだ。

 壁にかけられていたお仕着せを手に取り、寒さに凍えながら素早く着替える。

 ひび割れた姿見に映る冴えない姿は、とても伯爵令嬢には見えなかった。


 ――「なんでもします、なんでもするから捨てないで!」


 十年前そう懇願したおかげか、ティリアは未だに伯爵家にいることを許されている。

 ……使用人にも劣る、奴隷のような扱いを受けながら。



「おはようございます」


 すれ違う使用人に頭を下げても、誰も返事を返してくれることはない。

 ティリアに好意的に接していると知られれば、義母や異母妹にひどい仕打ちを受けるとわかっているからだ。

 それでも、ティリアとすれ違う瞬間――彼らの背がわずかに角度を下げるのをティリアは知っている。

 義母や異母妹に見とがめられない程度の、彼らなりの挨拶。

 落ちぶれた「お嬢様」への、せめてもの敬意。

 それでも、ティリアは嬉しかった。


 家族が起き出す前に、なんとか一通りの掃除を終えることができた。

 最後の仕上げに廊下の窓を磨いていると、義母がゆったりした足取りでこちらへやって来るのがガラスに映りこんだ。

 ティリアは慌てて義母の方へと向き直る。


「おはよう、ティリア。朝早くから精が出るのね」

「……おはようございます、お義母さま」


 せめて彼女の機嫌を刺激しないように、深く、深く頭を下げる。

 だが、その努力も無駄に終わった。


「あら、手が滑ったわ」


 義母はわざとらしい手つきで窓際の花瓶をはたき落とし、陶器が砕け散る大きな音が響き渡る。

 突然の蛮行に、ティリアは呆然とすることしかできなかった。

 破片の飛び散った床を見て、義母は困ったように眉を寄せる。


「あらあら、これは大変ね。もうすぐバーベナが起きてくるでしょう? うっかりあの子の綺麗な肌に傷がついてしまっては大変だわ。ティリア、悪いけど片付けておいてくれる?」

「…………承知いたしました」


 ――ティリアの傷だらけの肌など、元よりどうなっても構わない。


 義母はそうやって、折に触れては自らの娘であるバーベナとティリアの待遇に差をつけるのが好きだった。


「それじゃあよろしくね」


 義母が優雅に去っていくのを、ティリアは頭を下げたまま見送った。

 視界に映るのは、飛び散ってしまった花瓶の破片。

 これは、ティリアの母が大切にしていた花瓶だ。


(……また一つ、お母様がこの屋敷にいた痕跡が消えてしまった)


 そう考えると無性に悲しくなってきて、涙がこぼれ落ちそうになってしまう。

 だが、弱い部分を見せればみせるほど義母や妹は喜ぶ。

 だから、何も感じていない振りをしなければ。

 ティリアは小さく息を吐くと、意を決して花瓶の片づけへと入った。



「ちょっと、お姉様! さっきのやかましい音はお姉様がやったのね!? 気持ちよく寝てたのに台無しじゃない!」


 何とかすべての破片を集め終わったころ、ぷりぷりと怒りながら妹のバーベナがやって来た。

 一瞬、「花瓶を割ったのはあなたのお母様よ」と言おうかどうか迷った。

 だが、あの義母のことだ。

「自分の過ちを人のせいにするなんて! なんて卑しいのかしら!」と水を得た魚のように生き生きとティリアを責め立て、ひどい仕打ちをするのは目に見えている。

 だったら、ここせ静かに罪をかぶっておいた方がマシだろう。


「ごめんなさいバーベナ、起こしてしまったのね」

「そうよ! 無能の分際で私の邪魔をするなんて! 本当にお姉様って使えないのね!!」


 ――「無能」

 今から十年前、ティリアに押された消えない烙印。

 どの属性にも才がなかった、落ちこぼれの称号。

 この十年間、何度も何度も義母や妹、それに父にも「無能」と罵られた。

 ティリアは自分の才に期待を寄せていたからこそ、落胆や絶望も大きかった。

 どれだけ時間が経っても慣れることはない。その言葉をぶつけられるたびに、どんどんと傷は深くなっていく。


「…………ごめんなさい」


 反射的に、ティリアはそう口にして頭を下げる。

 謝っているのは目の前の妹にか、それとも期待を裏切ってしまった父へか、亡くなった母へなのか。

 自分でも、もうわからなかった。


「…………ふん」


 バーベナは必死に頭を下げるティリアの態度に納得したのか、そのまますたすたと去っていく。

 これだけで済むだなんて、今日は機嫌がいい日なのかもしれない。

 ティリアはそう考えほっとしたが――。


「あら、手が滑ったわ」


 くるりと振り返り、バーベナがこちらへ手のひらを向ける。

 その手のひらから小さな火球がこちらへ飛んでくるのが見えて、ティリアは思わず悲鳴を上げてしまった。


「……っぅ!」


 とっさに顔を守ろうと交差させた腕に、火球が直撃した。

 水仕事の途中で袖をまくっていたのが災いして、肌に直接だ。

 ティリアは肌が焼ける痛みに悲鳴を上げ、とっさに近くに置いてあったバケツへ腕を浸した。

 そんなティリアの様子を見て、バーベナは腹を抱えて笑っている。


「あはは! お姉様ったらおかしいわ! それって汚い水じゃない! あはははは!!」


 妹の悪意に満ちた笑い声に、ティリアはぐっと唇を噛む。


「……バーベナ。他人に向けて攻撃魔法を打ってはいけないわ。これが私じゃなかったら、傷害罪に問われてもおかしくはないのよ」

「……なによ、口答えなんて。『無能』のお姉様にはわからないだろうけど、魔力を扱うのってとっても大変なのよ? 私は火魔法の天才だってお父様も言ってくださったんだもの! 今のは手が滑っただけ。お姉様が私の邪魔をしたって、お母様に言いつけてやるんだから!!」


 腹いせにか、バーベナはティリアの傍らのバケツを力いっぱい蹴飛ばした。

 けたたましい音を立ててバケツが飛んでいき、あたりに汚水がぶちまけられる。


「まぁ、なんの騒ぎなの?」


 その音を聞きつけやって来た義母に、バーベナは甘えた声を出してすり寄った。


「聞いて、お母様! お姉様が私の邪魔をした挙句に、意地悪で汚い水を廊下にまいたのよ! ひどいわ!」

「なんてこと……。ティリア、いくら自分が無能だからってバーベナに嫉妬で当たるのはやめてちょうだい。せっかく穀潰しでしかないあなたを置いてあげているのに……。このことは旦那様にも報告いたしますからね」

「……申し訳ございません」


 無力感に打ちひしがれ、ティリアはただひたすらに頭を下げた。

 顔を上げたくなかった。こんなに惨めな顔を、義母や妹に見られたくはなかった。


「綺麗に片付けるまで食事は抜きよ。しっかり反省なさい」

「ほんと、嫌になっちゃうわ! 足を引っ張るのもいい加減にしてよね!」


 くすくすと笑いながら、義母と妹が去っていく。

 彼女たちの声が完全に聞こえなくなり、ティリアはたっぷりと時間を置いて顔を上げる。

 バーベナが思いっきりバケツを蹴っ飛ばしたせいで、美しい絨毯にも汚れが移ってしまった。

 これを綺麗にするとなると、今日一日は食事にありつけないと思った方がいいだろう。

 ティリアはため息をついて、赤く腫れた腕の火傷の痕を見つめた。


 ……体の痛みはたいしたことはない。

 だだ、心を蝕む惨めさが押し寄せて、ぽろりと一滴の涙がこぼれ落ちた。


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