18.うまれるよ
アルギンに託された自警団との交渉は、およそ一週間ほどで完全に纏まった。
『花』隊長一人の成果ではなく、彼女に何人もの協力者が働いた。
自警団の面々も、最初は協力的な訳では無かった。が、最終的には自分達に有利な条件を幾つか付ける事で妥協してくれたのだ。
最後の騎士としての仕事、と言われていた件が問題なく纏まり、いよいよアルギンは称号を返上するだけになる。
騎士として、そして隊長として、これまで働いてきたアルギンは、いざ城を離れる――裏ギルドの長の立場を持っていれば離れられる訳ないのだが――となると、言葉にし難い複雑な寂しさを感じた。
返上には儀式らしい儀式は無い。ただ、執務の引継ぎの延長線で、最後に王妃に報告して終わる。
国王は、アルギンの最後の日となっても体調不良で謁見の間には出てこなかった。
「御苦労だった」
王妃からの言葉を受けて、跪いたまま深く頭を垂れる。
終わった。
けれど、アルギンの命はこれからも続いていくのだ。胎の子と、ディルと、ずっと一緒に生きていく時間も同じくらいに。
……アルギンが騎士を辞め、完全に酒場所属になると同時、これまで隊長として気を張っていた生活から一転、途端に昼まで起きられない日々が続く。
それは妊婦として、腹の中で胎児を育くむに付随する大幅な不調が続いているせいもある。ディルは妻がいる自宅に毎日帰り、朝早くに出て行く。ディルが出発する時間に、アルギンは起きられない。
ディルはそれでいいと思い、また酒場で手伝いを続ける事を決めたオルキデやマゼンタが手が回らない所を支える。
時間が経つごとに、それを誰もが当たり前と思い、また、親になろうとするアルギンの様子を気に掛けた。
酒場で暮らす全員が、道行く妊婦を見かけた事くらいある。
けれどアルギンの腹は、今まで見かけた誰よりも膨らんでいる気がしたのだ。
アルギンの腹囲が、ソルビットの胸囲を僅差で追い越して、それから丁度一ヶ月。
誰しもが覚悟をし始めた頃に、『それ』は始まった。
「っはう」
六月初めの深夜だった。
結婚を機に奮発して買った、アルギンであれば縦にも横にも寝られそうな巨大な寝台の上で目を覚ます。
アルギンの寝言ともつかぬ奇声を聞けばディルも目を覚ます。そろそろと身を起こしてソファに移動するアルギンは中腰で、不審人物のような動きをするものだからディルも目を瞬かせた。
「如何した」
「なんか、へん。おなか、へん、なの」
「……大丈夫か」
最初はいつもの前駆陣痛――本陣通と違う微弱な痛みを齎す出産の前兆――かと思っていたディルだったが、アルギンはソファに座るでもなく、背凭れ部分を掴んで腰を捻ったり唸ったりして、いつもと明らかに様子が違う。
はふ、はふ、と苦しそうで切れ切れな吐息を聞けば、ディルだって寝台から跳ね上がるように飛び出した。
「痛いか」
「……ううん……、い、……うん……。ごめん、めっちゃいたい」
「早く言え」
「だ、って。痛いけど、これ、痛いけどっ。……あ、……あ? ……あ、あ、ああああああっ、ごめん痛い痛い痛い!! ディル、これ、アタシ無理っ!!」
それまで必死に誤魔化そうとしていた様子だったが、アルギンの声が一気に激痛を訴える。
そして、ディルが迷っている間もなく、アルギンの股下にばしゃりと音を立てて大きな水溜まりが出来た。
――破水した。
「アルギン!!」
「ぅ、あ、いっ……、た、い、これ、しぬ、うわ、あぅっ……い、たい、いたいいたいいたい!!!」
「気を確り持て――息をしろ!」
アルギンからすれば、バツンと何かが腹の中で破裂するような音が聞こえてからの激痛だ。0破裂音の直前直後を襲い来る、腹を絞られるような激痛。息すら出来ないような苦痛の中で、思わずアルギンが膝を付く。
こればかりは、経験者の話を聞いていても対応しきれない。十全な下準備があっても、アルギンのお産は違和感を感じてからが早すぎる。
物音を聞きつけて起きて来たオルキデとマゼンタは、ディルの顔色から事態を察して酒場に居を構えるアルカネットとアクエリアを叩き起こした。マゼンタとアクエリアは厨房で湯を沸かし、アルカネットは産婆を呼びに真っ暗な夜の街を駆ける。
オルキデが出産に備えて布や桶といったものを用意している最中も、ディルは黙ってアルギンの手を握っていた。
「……っぐ、あ、ま、また来た。い、痛い痛い痛いっ……!!」
「……アルギン」
「ごめん、ごめんね、でぃる、いたく、ない?」
「大丈夫だ。汝の痛みと較べれば、この程度……」
ディルの手にはアルギンの爪が強く食い込んで、血の気さえ引いている。それなのに切れ切れの息で夫を気遣うのは、まだ余裕があるからか。
やっと、自分達の子供と逢える喜び。それと同じくらいの苦痛が、アルギンの体に襲い掛かっている。
痛みの感覚が狭まってきている。人生でこれ以上の痛みなんて体験したことが無い。内臓を捻じ切るような痛みが断続的に襲ってきては、アルギンの口から苦悶の声が漏れる。
「マスター、お水持って来ました。飲めますか」
「……ん、ありがと……オルキデ……」
「我が飲まそう」
「……っん、……ん、……っく」
痛みが和らいだ頃合いを見計らって、ディルの手が水の入った器を傾ける。アルギンは口端から溢しながらも、器に入っているそのままを飲み干した。叫んでいる間に喉は乾いてしまって、この調子ではすぐにまた欲しがるだろう。
痛みに朦朧としたアルギンの灰茶色の瞳がディルを捉えて、苦しいだろうに目を細めて微笑を浮かべる。
「ディル、ありがと。……ありがとう、そんで、本当に、ごめん。……出ていて、くれない?」
「な、――」
「アタシ、このままだとディルに甘える。今回ばかりは、気持ちまで甘えてたら駄目だと思う。これはアタシの役目だから、任せて。絶対元気に産んでみせる。アタシも、この子も、大丈夫だから――部屋から、出ていて」
夫の存在は、アルギンの希望だ。でも、その希望に寄せる想いは大きすぎる。
夫に甘える事で、弱い自分を出したくなかった。これからは母として夫と並んで生きていきたい。だから今だけは、ディルの優しさを拒んだ。
ディルだって意図は分かっている。けれど、傍に居たいのは自分の意思だ。それを断られて、胸に過るのは一抹の寂しさ。
「……承知した」
それでも、妻は元気に産んでみせると言った。強い妻を持つ自分に出来るのは、信じて待つ事だ。
名残惜しく指を離して、額に口付けて部屋を出る。
……少し前まで、色のある話を全く聞かなかった男だというのに、口付けを妻に贈るその変わり様にオルキデが視線を送りながら驚いていた。
「……おる、きで」
弱々しい声が聞こえて、やっとオルキデもはっと気付く。
夫を送り出したアルギンだが、その顔色は相変わらず悪い。ソファの背凭れに後ろ側からのしかかるようにして膝立ちしている。がくがくと腰が震えるのは、痛みからだ。
「……アタシ、怖い。ちゃんと、産まれてくれるよね? アタシの、アタシ達の赤ちゃん」
こんな時くらい、強がりを言うのはよせばいいのに。
ディルはずっと、産まれるまで側に居てくれただろうに。自分が気丈でいられるうちに、ディルを外へ出したのは、弱くなりたくないという理由もあったけれど。
本当は、痛みに混濁した意識下の自分が、どんな言動を取るか分からなかった。だから、この時限りは側に居て欲しくなかったのだ。
「……大丈夫ですよ。マスターは、元気な子を産むんでしょう? ディル様は待っていますよ」
「う、んっ……。アタシ、頑張る……ぅ、ぃ、っ……い、痛いぃっ……!!」
産婆が到着するまで待たなければいけない。そもそも、どう産んでいいのかも知識が無いのだ。
女二人で狼狽えていると、マゼンタが湯桶を抱えて中に飛び込んできた。
「マスター! お湯持って来ました!!」
そしてその後ろから、今しがた到着した産婆が付いてくる。
「……間に、合ったか……」
ぜえぜえと肩で息をするのは、こんな夜中に街中の疾走を命じられたアルカネット。先程帰って来たばかりの彼は、酒場の客席に掴まって息を整えている。
「お疲れ様です。……珈琲飲みますか」
「飲む。……もう眠れそうに無いしな」
お湯は幾らあっても足りない、清潔な布も必要、男手も必要だが出産中の部屋には入れない。
酒場の男性三人組は、アルギンの絶叫を耳にしながら茶や珈琲を啜るしか出来ない。
湯を沸かすのは今の所、アクエリアだけで足りている。
「……遂に、産まれるか」
「ディルさん、表情筋が狂ってますよ」
「うわ、その顔オーナーに見せて来い」
散々な言われようのディルは黙って紅茶を傾けた。心は理由の明確な焦燥感に炙られているものの、妻に向けた信頼は揺るがないので座して待つのみ。
……しかし、聞こえるアルギンの声は拷問されているかのような苦悶の声だけ。紅茶が二杯目になっても三杯目を数えても、一向に弱まりもしないし産声も聞こえてこない。
ディルは王立孤児院の施設長を兼任しているが、産まれた子供しか殆ど相手にしてこなかった。だから、出産がこれほど過酷だとは思ってもいなかったのだ。四杯目の紅茶のカップを手にする指が震えている。
「……本当に、無事産まれるのであろうか」
「焼印付けられたくらいの叫びですよね」
「焼印もこんなに叫びは長引かんだろ。知らんが」
男同士、話す内容も淡々としている。こんな事になるなら、出産も入院していた病院に頼んだ方が良かったのではないか――そんな考えすら浮かぶ。
家に産婆を呼んで出産するのが当たり前の風潮で、自分達はそれに則っただけだ。王妃が優遇してくれるのなら、そこも要求しておけば良かったのだ。けれど今更考えても、もう遅い。
逸る気持ちを抑えて産まれる瞬間を待つだけなど、男達には出来ない。アクエリアとアルカネットは自分の子ではないからと、好き勝手なことを言っている。
「じゃあ――腕を捥がれたくらい、ですか」
この叫びで苦痛を例えるなら。
男には子宮がないのだから、他の部位で例えようとしただけの話だ。
けれどディルにはそれが堪らなく不快に感じた。冗談であっても聞きたくなくて、話を逸らさせる。
「アクエリア、アルカネット。汝等は、此処までの叫び声を上げた事はあるかえ」
「無いですよ。ある訳ないじゃないですか、こんな……喉が破れそうな……」
「俺も無い。……無理だろ、どれだけ痛いって話だよ……」
男同士では想像してもしきれない、女の体の作り。子を産む器官と、その機能を全うする時の激痛。
それまでは気分は高揚していた筈のディルだが、妻の絶叫を聞き続けていては心が重くなる。そう遠くない昔に、自分には無いと思っていた心だ。
ディルの表情が暗くなっていくのを、アクエリアもアルカネットも見ている。そして、その微笑ましさに唇が弧を描いた。
「大丈夫ですって。これだけ元気に叫んでるならお腹も空きますよね、軽食作って待っていましょうか」
「軽食なら俺も食べたい。作ってくれアクエリ――」
少し気を逸らそうとして出した話題と、立ち上がるアクエリア。
その時だった。夫婦の寝室の方から、か細い赤子の声が聞こえて来たのは。
「っあ」
「……」
「………!!」
反射的にディルが立ち上がる。そしてじっと寝室に続く廊下を見るが、誰も出てこない。
それどころか、不気味な静けささえ漂っていた。
「……何が、あったんです?」
「……」
「アルギンは――アルギンは、無事なのか……?」
嫌な予感を伴う、沈黙。
しかしその沈黙は、室内に再度訪れた慌ただしさと、廊下に出るマゼンタの怒声で掻き消えた。
「アクエリアさんっ!!」
「はいっ!?」
「お湯が足りません!! タオルも足りない!! もっと持って来て!!」
「足りない!?」
マゼンタが開いた扉の向こうから、アルギンの絶叫が再び聞こえ出す。
お湯はまだしも、布が足りないなんて――と、思った直後。ディルがマゼンタの言葉を受けて走り出した。目指すは備品置き場。
アクエリアも、何があったか分からないままに動き出す。お湯が足りないなら作ればいい。何の為に、なんて考えるのはその後だ。
上に下にと走り回るディルと、湯を桶や鍋いっぱいに作ったアクエリア。
アルカネットは手持ち無沙汰に、ただアルギンの無事を祈りながら椅子に座り続ける。
……もうひとつ、今度はしっかりとした産声が聞こえて来たのはそれから三十分後ほど後の話。




