15.入院生活は長引いて
アルギンの妊娠の報は、暫くの間伏せられた。
けれど検査入院だと言われた筈のアルギンはそれと同じ期間、城には戻れなかった。
紫廉――マゼンタが与えた一撃は、確かにアルギンの体調を一気に変えるきっかけになったのかも知れない。
あの時を境に、アルギンが張っていた気が緩んでしまった。それから襲い来る、重度の悪阻。
立っていられない程の吐き気で、水もまともに飲めない状態。胃に何かを入れれば入れたと同じほぼ同量が出て来るのではないかと思うような毎日に、体力が見る間に削られる。
毎日王城から病室へ甲斐甲斐しく通うディルも、妻の悪阻までを想定していた訳では無い。そこまで酷い症状になるなんて思った事もない。
桶が手放せない生活は、病院で管理されてやっと正気を繋げる状態になってしまった。
「アルギン、気分はどうかえ」
「……」
アルギンが入院して、丁度一ヶ月。
最近はやっと急ぎの仕事も落ち着いてきて、ディルも夜になれば早めに病院に来れる毎日。今日はディルの拳よりも大きな柑橘を幾つか土産に貰って来たのだが、桶を手に振り返るアルギンの顔色は土気色に近い。
寝台の上で座り込み、髪の手入れさえ出来ていない様子は山に住む厭世家の老婆のようだった。
「……さいあく、だけど、……それ、いいにおい」
「キタラが持たせたものだ。食堂が静かで調子が狂うと言っていたぞ」
「……きたら……ああ……、ありがとう……」
キタラ、というのは王城で宮廷料理人の地位を戴いている城仕えだ。城仕えの者達が利用する食堂の管理人という事もあり、食べるものが士気に直結する騎士団で彼の機嫌を損ねるのは、騎士団長に嫌われるのと同程度に恐ろしい事態になる。
ごろごろ、と応接用のテーブルの上にある籠に柑橘を並べる。皮から漂う甘酸っぱい香気だけでも、アルギンの気が少し落ち着いた。
「今度三兄弟で見舞いに来たいと言われたが、どうする?」
「あの三兄弟なら、別に来てくれてもいいけど……こんな状態のアタシ、見られてディルは恥ずかしくない……? あんまり格好悪すぎると思うんだぁ」
「何を恥じる? 悪阻は大なり小なりあると聞く。悪阻が酷いだけで、我が子を宿している汝に恥ずべき所など欠片すらもあろうかえ」
「そういうとこ、ディル、すき。っう、……うえっ……!!」
再び桶と懇意にするアルギンを見ながら、ディルは妻の不調も気にしない様子で長椅子に座る。
気にしたって仕方ない――というより、気遣われるのをアルギンは嫌った。ここは病院で、アルギンは妊婦。ディルに出来る事と言えば妻が快適に過ごせるよう周囲を整えるだけ。
王妃はマゼンタの償いとばかりに、身の回りの世話をさせるよう手を回しているから、実際ディルのやる事は少ない。
「然し、其の様な酷い悪阻を我は見た事も聞いたことも無い。王妃殿下も、汝程酷く無かったと聞く。軽減させる術は無いのだろうか?」
「ぅ……、うーん……。わっかんないなぁー……。本当に、これ、いつか終わるの? こんなにアタシ、何回も吐いて、赤ちゃん大丈夫なの……? 赤ちゃんに何かあったら、アタシ、どうしよう……」
「心配するな」
アルギンは、ディルの前でこれまでも何度と知れず泣いた。初めての妊娠で不安なのは分かるのだが、それだけでなく精神自体が不安定になっているようだった。
機嫌がころころと賽の目のように変わるアルギンが、ここ最近は一と二の目しか出していない。底抜けに明るい笑顔が、今は全く見えないのだ。
「……アルギン。我は独りの時間を過ごす事は得意だが、そう気分を沈ませる汝を笑顔にさせる事は不得手だ。笑顔の汝としたい話があったのだが」
「……話? はなし、って、なに?」
「子の名前はどうする? 未だ、何と呼んで良いか惑っているのでな。胎の中では聞こえぬやも知れぬが、若し聞こえるなら名を呼びたい」
「なま、え……? ……ふふっ、……気が、早すぎるよ」
まだ安定期と呼ばれる時期にも入っていない胎児に、名前を付ける。
二人の間に産まれる赤子は愛らしいと信じて止まないディルと、やや精神が不安定になりながらも既に母親としての義務を果たし続けているアルギン。
ディルは寝台に腰掛け、アルギンの隣に位置付く。荒れた髪を手で梳くと、気持ちよさそうにアルギンが目を細めた。
「でも、そうだねぇ……。アタシね、付けたい名前、ずっと前から考えてたんだ」
「付けたい名前?」
「……男の子でも、女の子でも。性別問わず、付けられる名前。マゼンタとかさ、オルキデとか、色の名前がいいなって……前から思ってて。それで、……空の、色……。ディル、覚えてる? 前、ディルとも一緒に行った……シェーンメイクの、あいつの、名前」
「……シェーンメイク、というと……若しや」
「別れ際にね、言ったんだ。お前さんの名前、いいな、って……。もしアタシに子供が産まれたら……」
遠い、遠い、昔馴染みを思い出す。
王室の政務に随行した遠征先で、出逢った他国の男。
恋愛感情なんてこれっぽっちも無かったけど、妙な所で気が合った。
もう何年も会ってないし、これからも会う事も無いかもしれない。会った所で関係が進展しようがないし、彼もアルギンがディルに抱いていた想いを知っている。
「お前さんの『そっちの名前』、付けてもいいか? って……」
それでも彼の名前を貰いたいと思ったのは、彼と関わった時間が楽しかったから。
誰の子を産むかなんてその時は分からなかったけれど、彼の名前が自分の子にも欲しいと思えた。
他の男の名前だからディルは一瞬眉を顰めたけれど、響きは確かに綺麗だった。その色をした空を、二人は知っている。
他にも名前の候補はあった。二人で捻り出した。最終的には、産まれた時に顔を見て決めようと候補を二つに絞り、日や気分によって呼び分けた。
特にディルは、時折腹を見つめて瞬きを多めに繰り返しては、前日と違う名前を呼ぶ。それは何故か、本人にも分からなかったらしい。……産まれるまでは。
アルギンの心配を他所に、安定期に入る頃には悪阻も軽くなる。完全に無くなった訳では無いが、少なくとも桶を肌身離さず持っていなくとも良くなった。
腹が出てくる頃になって、やっと退院出来た。悪阻が酷かったので、身の回りの世話を任せた気ままな入院生活でなかったのが悔やまれる、と呟いた所、病室まで荷造りを手伝いに来たアクエリアが白い目をした。
「……全く、貴女は呑気で良いですねぇ。貴女が居ない間、酒場を回していた俺の気持ちにもなってくださいよ」
「えへ」
「えへ、じゃない」
アクエリアは既に、アルギンの子飼いの精鋭としてその手腕を振るっていた。主な仕事は酒場の酒関係担当ではあるが。
ディルも、アルギンが倒れた後に必要な物を取りに帰宅した時に顔を合わせている。妻の話に少し出ただけで顔も知らない男が酒場に一人増えた事に、ディルは戸惑いもしたが案外早く受け入れた。今は亡きエイスの弟となれば受け入れない訳にも行かなかった。
退院の日はディルがどうしても抜けられない仕事があるからと、アクエリアが来たのだった。
「荷物はこれで全部ですか。三か月も長居するとなると、物が増えますね」
「そりゃな。アタシだってこんな長居するなんて思わなかったもんさ」
「それだけ皆、貴女の事が心配だったんでしょうね」
妊娠を知っても口が堅いであろうと思われた者は、これまで遠慮なく見舞いに来て貰った。
彼等が見舞いの度に持って来る果物を切る為に使う小刀、入院すると暇だろうからと本を持って来てくれた者もいるし、毛糸や編み棒を持って来た者もいる。困ったのが食品類で、ただの疲労から入院が長引いたと思っていたカリオンは流行りの店で焼き菓子を買って来てくれたものの、その香ばしい香りでアルギンが暫く起き上がれない程体調を崩した。その時ほぼ同時に見舞いに来ていたマゼンタから指を差して笑われたので、カリオンの心がやや深めに傷ついている。
服も汗拭きも見舞いの品も全て纏め終わったアクエリアが、その全てを寝台の上に置く。
「これで全部でしょうかね」
「うん、ありがと。悪いね全部準備して貰って」
「……別に、俺は良いんですけれど」
ソファに座っているアルギンは、既に妊婦だと分かる見た目になっていた。上下で色も形も白と黒に分かれた衣服を着ていて、その狭間の腹部分だけぽっこりと出ている。
元々筋肉で引き締まった痩せ型寄りの体型だったが、悪阻の影響で更に頬が削れていた。それなのに腹だけは出ているという、奇妙にちぐはぐな姿だ。
そのせいで少し動くだけでも息切れするのに、荷物纏めなんてさせていられない。これはアクエリアが心配性だからという理由もあるのだが。
「本当に『あの話』しに行くんですか?」
「ああ。ここからだと城まで近いし、いい加減戻らないといけないしな。このままじゃ次はソルビットが入院しちまうし、ついでに仕事してくる」
「あの人は入院なんてしませんよ。ここ最近頻繁にうち来ては飲んでますよ」
「っはは、マジか。安心したよ。あいつ、アタシに黙って来てたのか」
三か月ぶりに、城に戻る。
これまで隊長の不在により不便をかけた『花』隊。そのうち何人かは見舞いにも来てくれたが、やはり皆顔色は良くなかった。
やっと戻れる体調になったのだ。隊長職に居続けるのは無理かも知れないけれど、仕事を途中で放棄する母親にはなりたくなかった。
外気は室内より寒いと分かっているから、事前に持って来て貰っていた外套を着込む。首から足元まで完全に覆う、薄茶色の温かい防寒具。
「じゃ、荷物よろしく」
「はいはい」
荷物を担いだアクエリアより先に病室を出る。
これまで世話になった病院の職員とも別れの言葉や事務手続きは済ませているから、あとは受付に軽く挨拶して外へ行くだけだ。
散歩もまともに出来なかったから、病院の敷地外に出るのは本当に久し振りになる。
「……行こうか。城行くのは久し振りになるけど、覚えてる?」
アルギンの言葉は、誰かに話しかけているような独り言だ。声を届けたい相手には、届いているかも分からない。
ただ、聞こえていたらいいな、という思いで話しながら腹を撫でる。
「皆、びっくりするかもねぇ。でも大丈夫だよ、ママがいるからね」
腹の中の子は、返事の代わりのように僅かな動きを返す。
ぽこ、と、腹の中の空気が動くような感覚。それは胎動なのか判断がつかないほどに小さな動き。
「ふふっ、行こうか。……ウィスタリア? コバルト? 今日は、どっちで呼ばれたい?」
名前を決められなかった胎児の名前は、今はふたつある。どちらの夫婦で相談してつけた名前だ。
近い将来に産まれてくる我が子を想って、城までの道を歩いた。以前のように早歩きすら出来ない体になってしまったが、それでも、アルギンは幸せだった。




