14.初めて見る夫の顔
「に」
アルギンの報告を聞くと同時、ディルはそれだけ言って固まってしまった。これ以上無いというほど見開かれた目の灰色の瞳孔すら開いている。
アルギンが見た事のある表情の中で、一番崩れた顔と言ってもいい。いつも表情を変えない鉄面皮は、妻の妊娠報告に理解が追い付いていない。
「……あの、ディル?」
「………」
「……反応、してよ。何か、言ってよ」
二人の合意の下での行為の果てに宿った、愛の結晶。
それに何も反応が返らないのは、流石に困る。拒否はもっと困るが、言葉が欲しい。
「本当はね、少しそんな予感はしてたんだ。ここの所ずっと気分悪いし熱っぽいし、……月のものは来てなかったし。でもここ最近の激務と疲れで、そんな事もあるさって誤魔化してた。キツいのも今だけだって思って、アタシだけ休ませて貰う訳にも行かなくて……それで」
「……」
「ディル?」
独白を聞いていたディルは、その場に片膝を付いた。まるで騎士が王族にするような姿勢で頭を垂れる。
上半身だけ起き上がったアルギンは、正面から見るディルの姿に驚いた。
「……」
「ディル、……どうしたの? 顔、あげてよ」
「………ふ」
「……ディル?」
何も言わない夫に不安は募るばかり。まさか、本当に妊娠を不快に思ったのかと思わずにいられない。
けれど、本当はそうではなく。
「………っ、ふふっ……。ふっ、……はははっ……!」
「え、……ディル」
「ふふ……、ああ、そうか……。そうだったのか、アルギン……!」
「……笑っ……てる、の……?」
それは、初めて聞く夫の笑い声。上がる顔には笑みと一緒に、瞳に涙が溜まっていた。
「我と、汝の子かアルギン」
「……うん」
「そうか……、そうか……! いつかは、と漠然と考えてはいたが……まさか、今聞くことになろうとはな……!」
夫の声なのに、今まで一度として聞いたことがないほどに喜色で染まり切った音。疑いようもないほどに、嬉しさが全面に出ていた。
戸惑ったのはアルギンの方だ。まさかこんな風に喜んでもらえるなんて思っても無かった。いつもの冷静な表情がここまで崩れるなんて。
恭しく、ディルがアルギンの手を掬う。指先に落とした唇は少し乾いていたが、ちゃんと温かい。
「……産んでくれるか、アルギン。我が血を繋ぐ子を、産んでくれるか? 我と共に、親となってくれるかえ?」
「……うん。勿論だよ」
「ああ……、アルギン」
アルギンの指先に、温かい雫が落ちる。
「ありがとう。……愛している。我等、共に生きて帰れたことに、最大限の感謝を捧げよう。我を選び愛してくれた汝に、永遠の愛を誓い直そう。何度だって言える。愛している、アルギン」
「――……でぃ、る」
「愛している。……何が起きようと、汝への想いは変わらない。……我の子を、宿してくれて、ありがとう。産んでくれると言ってくれて、ありがとう。汝との子であるならば、此の世の何よりも愛らしい子供であろうな」
「……ぅ、……ディルっ……、ディル……!!」
僅かな雫を落としたのはディルもだが、アルギンはディルが顔を上げた先で大泣きし始めた。少量しか飲んでいない水が目から全て落ちるが如くの勢いに、ディルが思わず立ち上がって背を撫でる。
「こわ、かったの。アタシ、こんな時期に妊娠して……ディルも赤ちゃん欲しいか分からないし、体調は悪くなって動きたくないけど仕事いっぱいあって、でも誰にも相談出来る時期じゃないから不安しか無くて、今日まで、今まで、ずっとずっと怖くて……!!」
「……すまなかった」
「ディルのせいじゃ、ないの。嬉しい事なのに、今の状況を思うと喜んでばかりもいられなくて、でも嬉しくて、リエラに相談したら、気分が不安定になるのも妊娠の兆候だって言われて、でもけっきょくそれでかいけつするはなしなんてなにもなくてうわああああ」
「落ち着け。水を飲め」
眠って話したら少し元気が出てきたようなアルギン。水差しを再び持ったディルが、押し付けるように吸い口を咥えさせる。傾けると大人しく飲んでいるので、少しは気分は良くなったのだろう。
今度は水差しが空になるまで飲んでいる。綺麗に飲み干した後は、ほう、と溜息を吐いた後再び横になる。
「……すぐにでも、仕事戻らないといけないのになぁ。ソルビットに全部任せられないのに、アタシまで抜けたら次はソルビットが倒れるよ。フュンフにも馬鹿にされちゃう」
「フュンフが? 我の子を宿した汝を馬鹿になどする訳がないであろ」
「……それもそっか」
なんとか水を飲めても、またいつ吐き気が襲ってくるか分からないから体勢を横向きに変える。妊娠中の悪阻とはそういうものだ。
夫が全肯定してくれた事もあり、アルギンの心は少し軽くなった。他の者にどう思われても、ディルが居てくれる限り大丈夫だと思える。
アルギンの瞳は、ディルを見ていた。
「アタシ、ディルを好きになって良かった。愛して良かった。結婚して良かった。後悔した事なんて今まで一度も無いけど、本当に、心からそう思う。……アタシの方こそ、アタシをお嫁さんにしてくれてありがとう。愛してるって言って貰えて、とっても嬉しい」
妻として、母としての、満面の笑みを浮かべて。
「あなたの赤ちゃんのお母さんにさせてくれて、ありがとう。アタシは世界で一番幸せです」
「……我が幸せなのだ。汝も幸せでないと、困る」
「えへへ」
子が宿った幸せにくすぐったくなり、ディルは寝台に腰掛けた。
アルギンが心地よさそうに目を細めるから、頭を何度だって撫でてやる。今の所、悪阻に苦しむ妻にディルが出来るのはそれしかない。
ひとしきり撫でた後に、アルギンは手を繋ぎたいと要求した。指を絡めるように握ると、幸せそうに微笑を浮かべる。
「……ディル、明日には仕事、戻るから……今日だけは一緒に居て欲しいな……」
「明日には? 何を言っている。妊婦は自分の体を労われ。我等の子が腹にいるのだぞ、此れまでと同じ負荷のかかる場所に置いておけるものか」
「ええぇ。だって、アタシ隊長だし」
「明日の復帰は許さぬ。検査も未だであろ。悪阻の問題も有る、隊長とはいえ自分を削ってまでせねばならぬ仕事かえ」
「……責任はあるよ。アタシは『花』の皆に対する責任を全うできてない。身を粉にして働かないと」
「其れで粉に……否、灰になるのは我等が子ではないのかえ」
夫婦の仕事に対する話し合いは堂々巡りの様相を呈した。ディルは妻ほど仕事人間では無いし、アルギンは男社会でも通用するように仕事に対しての誠意を見せていた。それでなくとも今アルギンが抜けると、『花』隊の仕事が回らなくなるのが目に見えている。
無言で見つめ合う二人の視線には、先程の甘ったるい空気は無かった。ここから先は、部下を従える隊長同士の意見交換――に、なると思われた。
「お邪魔しますよ馬鹿夫婦共!」
扉を蹴破る勢いで入って来たのはソルビット。その後ろには紫廉と緑蘭、それから長い濃紺に似た黒髪を携えた身綺麗な女性がもう一人。
反射的に、ディルがアルギンを守るように背中に位置付いた。ソルビットはまだしも紫廉と緑蘭にはあまり良い印象を抱いていないし、知らない顔がひとつ増えただけでディルの懸念材料は増えるばかりだ。
「何の用だ、ソルビット」
「たいちょーに謝りたいって人が来たから通すんですよ。あとあたしからもたいちょーに説教しないとね」
「せ、説教?」
「説教っす」
連れて来た客の紹介をする前に、ソルビットが大きく息を吸った。
「馬鹿たいちょー!! そんな具合で何が仕事っすか!! さっきまで立てない程だったくせに! 皆に心配かけた癖に!! 貴女が育てた部下はそんな頼りないっすか、あたしらは貴女の指示が無いと動けない木偶人形っすか!!」
「ひあ」
怒声は鼓膜に大きく響いた。
ひとしきり怒鳴ったソルビットは一度咳払いをして、後ろの三人に振り返る。
「……さっき、リエラ様と入れ替わりにお客様が来てくださったんですよ。リエラ様はまた夜に様子を見に来てくれるそうっす。そして、あたしはリエラ様から『聞いた』けど、こちらの御三方はまだなので御自分からお話しくださいね」
「御三方って……もしかして」
緑蘭と紫廉は分かる。でもあと一人、白と濃紺の衣服を纏った女性は分からない。二人と同じように、市井に紛れても違和感の無いような、小綺麗な上衣と下衣、薄手の長い羽織物を身に着けた淑女。
そんなまさか、でも、とアルギンの脳裏に問答が繰り返される。この二人と並んで行動する女性といえば一人しかいないのに、その人がこんな場所にまで来るとは思えなかったから。
「紫廉が、粗相をした事について謝罪しに来た。いつもの格好では問題があるのでな、私人として謝罪させてもらいたい」
「………おうっ……ひ、でんかぁ……!?」
王妃が顔を晒して、一般人のような姿をしているのを初めて見た。
城に仕え、尚且つ騎士隊長などという不相応な位に就いているのだ。王妃の声を聞き違えるなどあってはならない。
その姿でも充分人目を引きつけそうな異国の美人然とした王妃は、私人と前置きした上でディルとアルギンに向かって頭を下げた。同時に、紫廉と緑蘭も同じように謝罪の体を取る。
「すまなかった」
「……」
「身内同士で解決すべき話に、其方を巻き込んだ。王やその伴侶たるもの、仕える者に気を配らねばならなかったのに、其方が倒れるまで放置してしまった。戦後の激務は分かっていた筈だった。本来、王に繋がる者は頭を下げてはならないが、今だけは。……今だけは、この場限りの事として、葵生として謝罪させてほしい」
「アオイ……って」
「私がプロフェス・ヒュムネとして持っている名前だ。私の本当の名前は、朱酒 葵生。普段名乗っているミリアルテアは、この二人の『オルキデ』や『マゼンタ』と同じく、通名になる」
そこまで自分の素性を詳らかにした王妃には、これまでのように他者との間に一線を引こうとする様子が見られない。
アルギンが、王妃の謝罪に何も言えないうちに、今度は王妃の手が紫廉を招く。おずおずと近付いて来た紫廉は、名前と同じ色の瞳周囲を赤く腫らしていた。
「ごめんなさい、マスター」
「……その謝罪は、何の為のもの?」
「私、同胞の故郷を用意する事がずっと自分の使命だと思ってた。実際、次期女王としてそうであるべきだと今でも思ってる。でも貴女がこうして病院に運ばれて、体に異常があるかもって言われて、それが私のせいかもってなった時、私は、最初に後悔した。私の憤りは知って欲しかった。でも、貴女にどうにかなって欲しかった訳じゃない。……まだ、私の中の整理はつかないけど……貴女に酷い事をしたのは事実。許してなんて言えないけれど、私は……貴女にこうなって欲しかったんじゃないの」
「白々しい」
「ディル!」
本人なりの精一杯の謝罪をディルから切り捨てられ、紫廉の喉奥で飲み込むような音が鳴った。
けれど、紫廉として振舞う気位の高い彼女が謝罪をしたのは大きな一歩のような気がしている。その一歩を邪魔するディルを窘めるように声を荒げた。
「こうなって欲しくなかった? じゃあ、どうなれば良かったんだ」
「それは……分からない……」
「分からないなら今は聞かないよ。……だから、取り留めのない事を言うのもやめてほしい」
「……」
その言葉は、紫廉にとって拒絶に聞こえたが。
「ちゃんと謝罪の意味を言語化できて、それでも謝りたいって時はもう一度聞かせて。……アタシも言いすぎたよ。臣民の命を背負ってるって意味じゃ、アタシが口出し出来る所を越えてるんだ。お前さんはお前さんの考えてる事があったんだよな、その気持ちを馬鹿にするつもりはなかったんだ。すまない」
「……!!」
「なんだかんだでアタシ、お前さんもオルキデも王妃殿下も好きだからさ。嫌われたくも無いし気まずくなりたくも無いし敵対したくも無いんだよねぇ。あはは」
ソルビットとディルは、笑顔でそう口にするアルギンと、何やら心打たれた様子の三姉妹を交互に見ていた。
アルギンの人誑しは見慣れたものだが気が気ではない。痛めつけられても笑顔を向けてそんな事を言えるのは美徳でもあるが、いつか寝首を掻かれるのではないかと不安を覚える。
「……アルギンよ、体調は大丈夫か? リエラからは大事ないと聞いているが、医者から見た状態と患者当人の状態では話が違おう。何ぞ、必要な物があれば言うと良い。多少は不便する入院も、何とか取り計らおう」
「必要な物……あ、はい。必要ってか、……経験者である殿下に聞きたい事が、いくつか」
「経験者? ……聞かれれば大抵のことは答えるが、王妃の姿をしていない私の事は名前で呼んでいいぞ。して、何だ?」
「あの……、その、殿下は、悪阻っていつ頃終わりました? どうもアタシ始まったばっかりみたいで、どう対処していいか分かんないんですよね」
「つわ」
三姉妹の表情が再び変わる。紫廉だって、もう悪阻の意味が分からない子供ではない。
アルギンの子が、腹に居る。そしてその父親はディルである。その図式に気付いた三姉妹は、三様の表情を浮かべていた。
紫廉はこれまで心を苦しめていた、アルギンの体調不良が悪阻だと知り重荷から解放されたように再び涙目になり。
緑蘭は知らぬ仲ではないアルギンが妊娠した事に心から喜び。
王妃は――自分の姿を重ね、瞬きもしない瞳から涙を溢した。
「で、殿下!?」
「妊娠、したのか。アルギン。父親はディルか」
「……はい」
「ディル。其方は、知っていたのか」
「……先程、聞いたばかり故に。実感としてはまだ薄いが……喜び以外が、此の胸に無い」
「……そうか。そうか……、汝等は、夫婦として……受け入れたのだな。アルギンの腹に宿る子の存在を。そして、ディル。其方は、それを『喜び』と言った」
王妃の涙の意味は、アルギンには分からない。王妃の産んだ子の、末姫の本当の出自を知らないからだ。
王妃はその場に蹲り、声を上げて泣いた。
幸せな夫婦の、喜びと言ったその姿に、過去の自分を重ねてしまったから。
自分が何度も戻りたいと泣いた、愛しい時間に。
「っ……私はっ! ……其方が子を宿して、ディルにも喜ばれて、どうしてこんなに、嬉しいのだ。自分の事で無しに、ただ配下に子が産まれるだけというに、何故アルギンの時はこんなに喜ばしいと思えるのだ……」
「殿下……、どうして。どうして、そんなに泣いていらっしゃるのです」
「分からぬ。分からぬよ、私にも。けれど、私が、同胞と組んでいた計画を、全て凍結させるに値する事だと思える。そうだ、妊娠は、親二人の意思があってこそではないのか。そこに喜びがあるのなら、私が立ち入って良い領域では無いのだ。……そしてそれは、思ってくれる相手が居る限り、必ず伝えなければならない話だったのに……」
王妃の言葉は既に独白になっている。けれど、その涙を理解したいと思うアルギンが困惑しているだけだ。
ソルビットは、黙ったままのディルに肘で小突く。
「あのですねぇ、ディル様」
「……何だ」
「あたし、戦争中から今までずっと、ずーっと、たいちょーと一緒に行動してたんすよねぇ。あたしがここ最近離れたのって、あたしが団長達と一緒に平野に布陣して、たいちょーがファルミアに行った一日しか無いような気がするんすけど」
「…………。……何の話だ」
「戦時中に何ヤってるんすか」
アルギンについて色々な事を把握しているソルビットの逆算は、ディルに反論の余地を無くさせる。
視線を逸らした後も、ソルビットはしつこく小突いて来た。そして顔を覗き込んでくる。
「………っ!?」
そして覗き込んで来たのは自分の癖に、何か悪いものを見たような表情で固まる。
「何だ」
「……あ、い、いや……え? ……貴方、ディル様っすよね……?」
「それが何だ」
「……いや」
ディルには自覚が無い。
「……そんな笑顔、初めて見たっすから……」
閉じたまま弧を描く唇、優し気に細められた目元、緩んだ頬に、下がった眉。
自分が今、どんな顔をしているのか。
ディルにはそれすら分からなかった。




