13.ねぇ、聞いて
アルギンの様子を見たリエラが下した判断は、他の者が思っていたよりも重かった。
最初にリエラが慎重に見たのは、頭の傷だ。それでなくとも少し前の戦場で全身に傷を負っていたのだ、それが今になって内臓や脳に異常を来している可能性もある、と考えた。
試しにとリエラが水を飲ませた所、胃が受け付けずにただの水をその場で全部吐いた。
外傷の簡単な治療と暫くの休息で大丈夫だろう、と思っていた王妃の表情がみるみる青くなる。嘔吐の原因が体の内部に問題を持つとなれば、王妃では何も打つ手がない。
自分の足で歩くことを許されないアルギンは担架で運ばれていく。見送るしか出来ないのは王妃とソルビット。呆然と、今日の朝まではまだ元気に自分で歩けていた姿を重ねてしまった。
国の誉れ、騎士団四隊長の一人。彼女に何かあれば、やっと落ち着き始めた国に陰りが差す。そして王妃は、その陰りが二度と晴れないのではないかという予感さえしていた。
「……わ、私のせい、じゃ、ないもの」
『花』隊執務室で、尚も往生際悪く口走っているのは紫廉だった。
この部屋で彼女がした暴虐をソルビットが見ているのに、これで彼女のせいでないなんて言って誰が信じるか。
「……『私のせいじゃない』? この期に及んでまだそんな事言うっての?」
ソルビットの声には怒りが滲んでいる。ひ、と紫廉が息を呑んだ。それは、言葉とは裏腹な罪の意識があるから。
他人の命を何とも思わない、傲慢な紫廉でも、自分のせいでアルギンが――となれば話は違う。紫廉の心の中でも、アルギンはいつの間にか別格の存在になっていたのだ。
頭を抱えたのは王妃。紫廉のしたことは八つ当たりに過ぎない。矛先がアルギンに向かったのは、王妃を変えた存在であることと、紫廉が無意識に甘えの感情を出してしまった事に他ならないのだ。
甘えて、鬱憤を発散していい存在と認識してしまった。紫廉にとってアルギンは、他人ではなくなってしまったから。
「……無事で在ることを祈ろう。過ぎてしまった時間は戻せぬのだ。あの女が簡単にくたばる筈が無い、そうだろう」
「……王妃殿下、失礼を承知で申し上げます。希望的観測は結構ですが、あのひとだって生きてるんです。脳に何かあれば、生き物は生きていけないんです。死ぬんです」
死ぬ、の言葉に紫廉が再び肩を震わせた。紫廉だって、死んでほしくて投げつけたんじゃない。ただ、怒りの矛先を向けるべき相手が明確だったから、苛立ちを発散させるために茶器を投げつけただけだ。あんな薄い陶器を投げただけで、簡単に死ぬなんて普通思わない。
あんなに元気で喧しい、あのアルギンが。
「――隊長に何かあったら。あたしは処刑されても構わない。王妃殿下、貴女様の妹を殺します」
国一番の美貌が歪む。
ソルビットの宣言を受けた紫廉が、更に怯えた。この時ばかりは傲慢さは成りを潜めている。
「その点は案ずるな。恐らく其方よりも早く、ディルが紫廉の首を刈り取るであろう」
まるで、収穫を待ち侘びた果実のように。
白銀の死神が振るう剣が首に食い込むさまを想像して、紫廉がその場にへたり込んだ。腰が抜けたように座り、全身の震えが止まらない。
――自分は、同胞達に何も出来ないまま、慕う女を死なせた罪で、彼女の夫の手に掛かって死ぬ。
ディルならば確かに、十名のプロフェス・ヒュムネを殺せたあの男ならば、紫廉を殺めるのももしかしたら容易かも知れない。
そしてそれを、王妃は止めない。
「……あたし、オルキデさん探して来ます。ディル様にも、たいちょーが病院行ったって伝えなきゃ」
紫廉の瞳から、ぼろぼろと涙が幾つも零れ始めたのを見て、少しは気が済んだかのようにソルビットは出て行った。
騎士として動いているソルビットの方が、ディルを見つけるのに有利だ。結局途中でディルを探して彷徨う緑蘭と合流し、ディルを見つけたのはそれから十分後となった。
――その時のディルの表情は、絵画にして残しておきたいと思ったほどに、いつもの冷静な顔とは程遠かった、と後にソルビットが証言した。
緑蘭は、紫廉が心配だからと一緒に病院に来ることを拒んだ。ソルビットとディルだけで、城から病院までひた走る。
王立病院は十番街にあるから、そこまで時間は掛からない。ちゃんとした入院設備が揃っているのもこの場所だった。
二人が病院に駆け込んだ時には、既にアルギンは個室に移動されていた。詳しい検査はまだだが、側にリエラがついているので何が起きてもすぐに対処できる、との事で。
個室までの、短いようで遠い道のりを、ディルとソルビットが並んで歩く。重い沈黙を掻き消すのはソルビットだ。
「……すみません、ディル様」
「……何の話だ」
「あたしがついてながら、たいちょーがこんな事になってしまって。あの小娘を執務室に入れるべきじゃなかった。あたしの不手際です」
「………其の話ならば、聞く気は無い」
謝罪を聞く気もないとばかりに、ディルの歩幅が広くなる。
「アルギンは子供ではない。あれでいて隊長の一人であり、我等よりも年上で、我が妻だ。あれは馬鹿だが、あれなりの矜持を持っている。汝が気を揉まねば歩き出さぬ赤子ではない。あれの決定は全て尊重されるべきだ」
「……赤子?」
「――どうした」
ソルビットは耳に入った単語を繰り返して目を瞬かせている。ディルも一瞬反応するが、ソルビットの思考までは読めずに足を止めない。
「……いや。そんなねぇ。まさか」
「どうした、と聞いている」
「いやいや、あたしの勘違いでしょ。何でもないです。……でも、本当にたいちょーに何かあったら……」
「其の心配も、無用だ」
「無用、って」
二人の足は、先に聞いていた部屋番号の部屋の前まで来た。
扉に手を掛けるディルは、まだ続ける。
「――我は、アルギンの居ない此の世に未練など無いからな」
「……え」
まるで、アルギンが死ぬ時は自分も死ぬ、みたいな。そんな事で、心配いらないなんて言われても。
そんな不穏な言葉を聞いてしまったソルビットは、扉が開いた後も足が動かなかった。
アルギンに用意された個室は、壁全面が汚れの無い白だった。四、五人入っても問題なく時間を過ごせ、中には接客用の椅子や机、大人が寝られる布張りの長椅子もある。床は木目調で絨毯やそれらしきものが無く、窓は広く窓幕は薄い緑色。
とても穏やかに時間が過ごせそうな場所だった。後について入るソルビットが扉を閉める頃には、リエラが椅子から立ち上がって二人を出迎える。
「……リエラ」
「ディル、さま」
「アルギンの加減はどうだ」
「……今は、お眠りになられてます。だいぶお疲れだったようで……暫くは起こさないで差し上げてください」
「起きるのか」
「それは確実に。大丈夫です、少しだけですがお水もお召しになりましたので、命に別条がある訳でもありません。起きてからの検査にはなりますが、今の所脳の異常も無いと思われます」
「そうか」
「……良かった」
寝台の上のアルギンは、頭に包帯を巻かれて病院着に着替えて眠りについていた。白い寝具に包まれて、顔色は悪くとも寝息は安定している。胸が上下に動いているのを見て、ソルビットが安堵の溜息を漏らす。
近くに用意されているのは、水差しと桶。吐き気自体はまだ収まっていないのか、ご丁寧にも準備を欠かされていない。
「今日明日は入院になる……と思います。これまでの心身の負担を考えれば、そちらの方が安心いただけるかと。アルギン様は病院を出れば、きっと仕事に戻ると仰いますので」
「従おう」
「この個室でしたら、ディル様も一晩お泊まりいただけるそうですが……どうされます?」
「一晩くらいであれば、我もフュンフからの咎めは受けぬだろう。……助かる、リエラ」
ディルが寝台に近寄って、アルギンの寝顔を見た時、その灰色が細められたのをリエラは確かに見た。
二人の恋愛模様は、城の中では知らぬ者がいない程有名な話だ。愛する人が側に居て、幸せそうにしているアルギンの姿も。
ディルが来たことで、リエラの役目は失われる。出て行こうとする彼女の腕を引いたのは、ソルビットだった。
「リエラ様。少しいいっすか」
「はい?」
「ここじゃ、ちょっと話し辛いんで……一緒に来て貰っても?」
「……大丈夫です」
リエラを伴って、ソルビットは出て行く。残されたのは夫婦だけで、片方は寝たままだ。
妻の寝顔は何度も見てきたが、今日ほど生きている事を安心できる寝姿も無いだろう。いつか目覚めると聞いていれば、穏やかな寝顔をずっと見続けられる。
妻がいなければ生きていても仕方ない、とは、何度も思った。倒れたと聞いて、それがマゼンタのせいかも知れないと叫ばれて、ディルの目の前は一度真っ暗になった。
「……アルギン」
愛する妻だ。
命に代えても守りたい女だ。
いつも元気で有り余る体力が売りの彼女が、今日はとても疲れた表情をしていた。ディルに出来る気遣いなんてあの時かけた言葉が最大で、他に何も休ませる手立てが無かったのか考える。
けれどきっと、「アタシは隊長だから」なんて言って、他の言葉は断られただろう。
解かれた髪に、指を差し入れる。細く、手入れの行き届いていない鈍い銀の色の髪は、ディルから逃げるようにするりと流れて行った。
「……」
起きろなんて言えない。瞼に隠された瞳が見たいなんて思ってはいけない。休息を取らせる事が第一で、床に蹲って苦しんでいた話を思い出すだけで胸が苦しくなる。
何度か髪を撫で梳いている間に、身動ぎしたアルギンが苦痛の表情を浮かべて目を開く。
「っ……ぅ、……あ、……でぃる……?」
「寝ていろ」
「寝っ……あ、……ああ、うん……そっか、アタシ、寝ちゃってたか……」
「気分はどうだ」
「……少しまだ気分悪いけど、倒れた時ほどじゃないよ……。みず、水……貰える……? のどかわいた……」
「ああ」
側にあった水差しを、唇に傾けてやる。喉を鳴らして少しずつ飲むアルギンだったが、二、三口で止めてしまった。
ぷは、と唇を離す時に水が零れる。少し頬を濡らしてしまった。
「も、いい。ありがと」
「足りるのか?」
「あんまり飲み過ぎないようにって言われた。一気に飲んだらまた吐いちゃうって」
「………」
ただの疲労で、水すら吐くような体調になるものか。
数時間前は普通に階段すら上っていたのに、今はもう寝床から起き上がれずに自力で水を飲むことも出来ない。水差しを置いた後、アルギンの指に触れた。細い指だと思っていたが、号数を確認して買った指輪が少し浮いている。
「……ディル、あのね」
「どうした?」
「……あの、ね。……話したい事が、あるの。……とっても、大事な話、なんだけど。……聞いて、くれる?」
「……必ず聞かねばならぬのか」
「うん……。それでね、本当は、こんなこと、お願いするのは変かも知れない、けど……。どうか、聞き終わった後は……愛してるって、聞かせて欲しいな。じゃないと、アタシ、……不安になる」
前置きが、彼女らしくない。
二人の間で交わされる話に、こんな嫌な予感を齎す前置きなどあっただろうか。今の時点で大事な話があるなんて言われれば、体調の話以外無くて。
聞きたくない、と思ってディルが目を伏せる。前置きをされて聞く話が全部、吉報ばかりではなかった。
「……我が、不快に思わぬ話ならばな」
抵抗のつもりで口にした言葉。
「……それは、……ごめん、わからないや……。でも、ちゃんと、聞いて欲しい」
「………凶報であるならば聞かぬぞ」
何か病気が見つかった、とか。
戦場で負った傷が実は思わしくなかった、とか。
今日負った傷が、実はよくないものだった、とか。
聞かない事でどうにかなる訳でも無いけれど、唯一、ディルの心の平穏は保たれる。
「凶報、……そう思われたら………無理は無い、けど、悲しいなぁ」
外見と同じ、儚い笑みを浮かべたアルギン。
ディルの予感はどんどん強くなる。妻を失いたくないのに、言われる言葉が凶報である予感が消えてくれない。
聞きたくなかった。子供のように耳を塞いで、恥ずかしげもなく拒絶出来たらどれほどいいか。
「聞いて、ディル。……アタシね」
唇から紡がれる言葉の続きを、ディルは待ちたくなかった。
けれど時間が流れるのと同じように、アルギンの言葉も止められない。
「アタシね、妊娠したみたい。あなたとの、あかちゃん、いるみたい」




