5.援軍
空に浮かんだ僅か薄い膜から射出された血の鏃は数も少なく、プロフェス・ヒュムネ三体の命を奪うには足りなかった。
けれど確実に、その身を文字通り削っている。
地に落ちた枝葉、折れた茎、散った花。それでも這いずるように騎士夫婦に近付こうとする。
そこまでするか、と、アルギンの声が漏れた。
痛いのは誰だって嫌な筈で、なのに奴隷として酷使されている立場の者が、自分の命と引き換えにしてでも敵と肉薄しようとしている。近付いてくる緑の身の丈は、アルギンの二倍はあろうかという大きさだ。
奴隷なのに、見上げた忠誠心だ。こんな風に必死で動けるなんて、何かしらアルセン軍の殲滅の他に目的があるようにも見えた。
「っち……、やっぱりこれだけじゃ足りないか……!」
アルギンの出血は止まって来ていて、充分な殺傷力を持つ魔法になるに至らなかった。
そもそも水の精霊を使役している筈なのに、水ではなく己の血でないと発動しないのだから使い勝手が悪い。兄から譲り受けた精霊と契約しているのだから、相性が悪いのだとこれまでは納得していた。
だが、自分の命が懸かっている状況で納得し続けたままではいられない。
「アルギン」
「分かってる」
「来るぞ」
「大丈夫!」
向かってくる三体は、それぞれ左右に分かれて回避する。葉を飛ばして来る者、蔦を延ばして来る者と行動は多様だ。傷を負って動きは遅いものの、二人が避けた後の地面には葉が刃のように刺さり、蔦の形に抉れている。
ディルの動きは余裕のある素早い回避だ。最小限の動きで避けるアルギンよりも危なげない。
だからか、プロフェス・ヒュムネ達は一斉にアルギンを狙った。
一撃、二撃、三撃、四撃――避け切れず肩に喰らう。ぱん、と、騎士服の下の防具が砕ける音がした。
「っぐ、ぅうっ!!」
幸いにも、動けなくなる痛みではない。衝撃で数歩下がるが、この程度の痛みなら騎士同士の手合わせの時に何度も喰らっている。今更小娘のように泣き喚く痛みではなかった。
追撃のように振り下ろされる蔦を避けながら――ディルがその背後で攻撃態勢のまま飛び上がるのを見た。
「『飛』、『閃』、アルギン避けろ!」
「へ、あ、うわっ!?」
急にそんな事を言われても――と思いつつも体の判断は正確だった。ディルの一閃はプロフェス・ヒュムネを狙った縦の一撃。空気さえ両断するような、雷のような斬撃が襲い掛かる。
その先に居たアルギンは必死の回避で直撃こそ免れたものの、靡いた髪の毛先がチリッと音を立てた。
青くなるアルギンの視界の端で、プロフェス・ヒュムネが二体両断されて地に臥せる。残る一体も、ディルが着地と同時に補足してからの、横への跳躍と縦横の二撃。
アルギンが仕留め損なった三体すら、ディルが全て片付けた。相手が地に倒れる音が大きく聞こえる。
「……は」
ディルは息が僅かに切れている程度だ。圧倒的な力の差を見せつけられて、アルギンの冷や汗が止まらない。
こんな規格外の男が、自分の夫だということに今更ながら驚いている。これまでも強さを目の当たりにしていた筈なのに、目の前で見るとまた違った感覚が襲う。
顔に付いた返り血を乱雑に拭う姿も、無感動に前を見据える姿も、普段見ている顔と同じ表情なのに。
「………」
その顔に惚れ直してしまうのは、一種の病か。
何度だって恋してきた、最愛の夫だ。
こんな時に考えるに相応しくない事だと分かっている。でも、自分の存在理由が全てこの男に上書きされるような感覚に襲われた。
この男の為に、生きていたいと。この身全てを捧げてしまいたいと。
「――『水の精霊』」
国に捧げた騎士としての自分を、この男の為に擲っても構わないと。
持っている武器は短弓だけじゃない。腰に佩いていた短刀を引き抜き、左で逆手に持って右手に翳した。
このまま輝く刃先を自分の腕に滑らせたら血が滲む。それで『武器』の補充は出来る。文字通り、自らの身を削る方法だ。
痛みと引き換えにしても力が欲しい。強さが欲しい。武器が欲しい。魔力が欲しい。夫の隣に見合うだけの戦力になりたい。
勿論、理由をつけるならばそれだけでは終わらない。一撃でも攻撃を喰らった事が腹立たしい。隊長の座を戴く者としての矜持が、自傷を後押ししようとする。
「アルギン」
翳していた刃を腕に滑らせようとした――その時。
ディルの手が伸びて来て、手首を掴まれて引き上げられる。短刀は取り落とさずに済んだ。
は、と飲んだ息。まだ刃が及ばずに傷の増えていない腕。夫に止められた、と気付くのは険しい顔をした彼に振り返った後だった。
「何をしようとした」
「っえ……」
「どのような理由が有ろうと、二度と己を傷付けるな。汝の血は此の先、戦場で一滴も流すべきではない」
「でも」
傷ついた方が、強くなる。アルギンの持つ能力は皮肉なもので、血を流さねば強くなれない自分自身に一番嫌気が差している。
なのに夫はそれを止めた。アルギンの血液で好転する戦いもあると分かっているだろうに。
止めるだけで終わらないディルの手は、手首からそっと離した後に妻の頬を撫でる。その血の一滴に至るまで、夫である自分のものだと思い知らせる事は今出来なくても、身を案じる意思表示だけは出来るから。
「妻の流血を見て喜ぶ夫など、少なくとも此の場には居ない」
「――ぅあ」
「案ずるな。幾ら相手が束になって掛かって来ようと、我は負けぬ。……成程な、此れ迄理解し得なかった全てが――今なら解る」
「わ、わっ……わ、わかるって、な、なに?」
こんな状態になって、ディルの感情表現は普段より顕著になっている。
戦場という非日常がそうさせるのか、それとも、一度は想いを吐露した事によって口が軽くなったのか。
その瞳の輝きはいつも通りなのに、唇には確かに微笑が刻まれていた。
アルギンも何度か見たことがある喜びの感情が、そこにはあった。
「汝が側に居るならば、負ける気はしない。ということだ」
「ふぇ」
「離れるな、アルギン。……離れてくれるな、何があっても。汝が言ったのであろ、『首が捥がれても生き続けろ』と。ならば、汝の為に生き続ける我の其の姿までもを、其処で見ていろ」
感情が分からなかった筈の、確かな彼の感情。それは確実に、妻が愛と共に彼に与えたものだ。
笑顔も喜びも愛も、アルギンがいなければ彼は知り得なかった。
知ってしまえば、知る前には戻れない。そして、『愛』も『守るべきもの』も側にある今のディルは、強い。
最後にするりと頬から顎を撫でたディルの指が離れる。
「次だ、アルギン。行けるか」
「行っ……け、なくも、ない、ような気はする」
「そうか。――『気張れ』! 汝が何時も使う言葉であろ!!」
「ひー!」
過去に幾度となく『戦闘狂』と呼ばれたディルの悪癖が今顕現する。
アルギンは『離れない』の約束を守る為についていくので精一杯だ。これまで負った傷も、疲労と共に圧し掛かる。
待って、なんて今言える筈も無い。ディルとの距離が少しずつ開いて、走りが歩みになって、止まる。その頃には、アルギンの視界も霞みが強くなって来ていた。根性論だけでは、もうどうしようもない。
「……」
残るプロフェス・ヒュムネは四体。
ディル一人でこれまで三体、別にアルギンの先手もあって三体、合計六体は倒せている。
しかし次の四体も、となると話は違う。ディルだって怪我を負っているし、気付かないだけで連戦の疲労も出てくるだろう。そうなった時、ディルの力になれるのはアルギンしかいない。でももう体がまともに動かない。
「ち、っきしょー……。ディルってば」
離れた場所で輝く彼の剣の軌跡は、霞んだ瞳にも見えるように光を反射してすぐ解る。
強くて、少し不器用で、結構言葉が足りない、アルギンにとって最愛の夫。
「……かっこいい、な……」
愛を再確認すると同時、アルギンの膝が勝手に折れた。地面につくのは片方で済んだが、体力の限界だった。
すぐに立てない。呼吸も整わない。そんなアルギンを、敵側も見逃す筈も無く。
「――!!」
声にならない葉擦れの音が、耳に届いた。
ディルが二体と対峙している間に、残りの二体がアルギンに狙いを定めて走って来る。走る、という表現が正しいのかは分からない。足に当たる部分にはそれぞれに違った形の根っこがあり、地を這うように移動しているのだから。
攻撃を仕掛けられる前に動き出せるか。動けたとして、避ける事は可能か。反撃はどうだ。
アルギンの計算は、答えを出す前に終わる。
「『花』隊長!!」
――背後遠くから、夫のものではない声が聞こえたから。
「避けろ!!」
聞き馴染みのある声は、平気で無茶を言う。
動けないから片膝を立てているというのに、相変わらずディル以外に向ける目は腐っているのではないか。
ぐ、と呻き声を上げるアルギン。しかし。
「それでも我等が隊長の――ディル様の妻か!!」
声は――フュンフは、檄を飛ばす。
その檄は的確で、彼の名を出されれば動かない訳には行かなかった。例え、体の自由が利かない状態でも。
「……ったく、早々それかよ。本当に、もう」
アルギンの憎まれ口は、まだその時はフュンフに届かない。
「来るのが遅ぇんだよ!!」
その張り上げた声は、やっと彼に届いた。同時に立ち上がり、左に駆ける。プロフェス・ヒュムネとフュンフ『達』との間に入らなければいい。
アルギンが退避した頃に、フュンフは指示を出す。右手を天に掲げ。
「総員」
――振り下ろす。
「放て!!」
命令に行動を返したのは、彼の後ろに居る『月』『花』両部隊の生き残りたちだった。町での戦闘を終了させた後に駆け付けた、生き残った精鋭達。
『花』隊が弓を引けば、『月』隊は手にしていた杖に嵌められた魔宝石を光らせる。弓矢の物理と、魔法の雷球。それらが一斉にプロフェス・ヒュムネを襲う頃にはディルも退避が完了していた。
弓も魔法も全弾放たれ、一度目の攻撃が終了する。しかし、それらを余さず受けた筈の四体のプロフェス・ヒュムネはまだ動いていた。




