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【第三部】アルセンの方舟 ―国家公認裏ギルド交響曲―  作者: 不二丸茅乃
chapter.4 花鳥風月

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3.今、言わないで




「愛している」


 今まで胸中を一度として伝えてこなかった夫の口から、妻に向かって初めて愛が語られる。色の深さは違えど同じ銀髪を髪に宿した二人が密着する。男が女を抱き寄せて、、妻の見えない所で、無表情を貫く普段の彼からは想像も出来ない程の優しい笑顔を浮かべていた。


「――……え」


 アルギンは言葉を飲み込めなかった。

 今まで結婚してからも一度としてそんな事を言わなかった。今になって紡がれる彼からの(のろい)の言葉は、途端に思考を白く染める。


「我が、この世界から消え去ろうと、汝への愛は永久に消えることは無い」

「待っ……、なんで、そんなこと、今」


 アルギンにしてみれば嫌な予感が消えない。まるで最期の言葉のような、そんな愛は聞きたくなかった。普段であれば顔を真っ赤に染めて卒倒していてもおかしくない程に、この男――ディルに心を狂わされているのだ。

 優しい声で、愛してるだなんて、聞きたくない。

 ここは、戦場だ。

 先程敵陣から新手が出現したと聞いて、疲弊したアルセン軍はその攻勢に耐えられるか分からない。そんな話がされた。その直後に愛を囁かれて、わあ嬉しいだなんて思える頭はしていない。

 アルギンも、ディルも、騎士隊長なのだ。あまりに状況に不似合いな言葉を、ディルが意味もなく言うなんて思ってない。

 けれどディルの意図はフュンフに伝わっている。


「ソル、お前はアルギン様を連れて、退却しろ」


 『全責任は我が取る。……『花』隊長(アルギン)の命が危機に瀕した場合、汝があの者を連れて逃げ、城に戻れ』


「……あー、そういう事か」


 とても事務的な言葉と共に下された命令は、先程彼の口から出た愛の言葉で意味が分かる。

 ディルは自分が死のうと、妻を守りたい、と。

 フュンフは自分の敬愛する隊長の言葉を守りたいと思っている。けれどフュンフには、ディルと同じくらい大切な人がいた。

 それが、異母兄妹であるソルビット。

 だから、命令をそのまま押し付けようとした。城に戻れたなら、アルギンもソルビットも、死ぬ危険は無い。


「嫌だよ。それは兄貴が言われた仕事だろ。あたしはたいちょーが居ない『花』の指揮しないといけないんだから」

「……お前も、強情よな」


 でも、フュンフの願いは即決で拒否されてしまった。強情だ。だが、良い女だ。この期に及んでも、騎士で居続けようとしている。

 二人のやり取りの後ろで話していた癖の強い茶の髪を持つ異母兄妹は、その言葉で会話が終わる。例え血が繋がっているのが半分だけだったとしても、それだけで互いに通じ合えていた。

 通じ合えない二人組は、こちらではなく。


「やだよ」


 抱き寄せられていたアルギンが、ディルの体を突き放す。


「なんで、そんな、今生の別れみたいなこと言い出すの。アタシは、貴方が居ないと生きていけないんだよ」

「……アルギン」

「好き、大好き、愛してる。……お願い、アタシも一緒に居させて」


 泣きじゃくり始めるアルギン。兄妹の二人は互いに目を合わせ頷き合う。

 こうなれば、力づくになっても連れて行かなければならない。アルギンの生は、この三人にとって何よりも守らねばならないものになっている。

 音を立てないよう馬に乗ったフュンフ。

 『月』隊長は、アルギンをもう一度抱き寄せ、額に口付ける。最期まで、妻に愛を伝えようとするように。


「……居よう。我は、これから先、共に。いつでも汝と共に――」


 その言葉を最後にするつもり、だった。

 ディルはアルギンを抱き抱えようと、気付かれないように腰に手を回し――そしてフュンフに預けようとした。

 『つもり』は叶わなくなるけれど。


「――っざ、けんなああああ!!!!!」


 聞こえたのは、その場に響き渡る鈍い殴打音。

 足が勝手に半歩下がる程の衝撃を受けたディルの右頬が赤に染まる。アルギンの左拳が固く握られていた。

 怒りに震える顔で、涙を湛えた瞳で、食いしばった歯で、これ以上ないという程の形相で自分の夫を睨みつける妻。

 何が起きたのか分からなかった兄妹は、一度顔を見合わせてまた銀色の夫婦に視線を向ける。


「……いつでも、って、何。ディル、何になって傍に居るつもりなの。アタシに見えなくなって、それでも愛してるって、聞こえもしないのに言い続けるつもりなの? アタシがディル居なくてずっと泣いてるのを、ずっとずっと見てるつもりなの!?」


 堪え切れなかった涙が頬を滑り落ちる。

 頬に広がっていた血が、涙の跡の部分だけ肌が露わになった。その涙は、分からず屋な夫に対しての悔しさから来る涙。


「ふざけんじゃねぇよ!!」


 その怒号は、夫に対して投げるようなものではない。


「アタシが、どんだけ貴方の事好きだって、愛してるって思ってんだよ!! アタシを本当に愛してるんなら、首もがれたって生き続けてよ!! それが出来ないってんなら、生きて側に居て!! ……じゃないとっ、この場でっ、アタシが貴方をブチ殺す!!」


 え、と、濁音交じりの声が兄妹の口から漏れた。

 それでは本末転倒じゃないのか、という横槍を入れる間もなくアルギンが捲し立てる。


「勝手だよどいつもこいつも!! なんなの、アタシがそんなことして逃がされて、それで嬉しがるって思ってる!? アタシだって隊長格だよ、強くなくても弱くもないよ!! でも、そんな事よりっ」


 嗚咽交じりの声が、苦しそうに吐き出された。


「……アタシは、生きるのも死ぬのも……楽しくて笑うのも、悲しくて泣くのも……ディルの傍じゃないと、やだぁ………」


 感情をよく露わにする女ではあったが、夫に拳を振るったのはこれが初めて。

 ディルは殴られた拍子に口端に滲んだ血を乱雑に袖で拭って、普段通りの無表情を浮かべる。怒っているようにも見えるのだが、その程度ではアルギンも動じない。


「……もう一度、言う。汝は、死ぬぞ」

「じゃあアタシももっかい言うね! 死んだ事無いから分かんないなぁ!!」

「……我は」


 一度引き結ばれたその唇から、アルギンがその感情を『苦痛』だと読み取った。

 そんな顔をさせたかった訳では無いが、アルギンとしてももう黙っていられない。


「……我は、汝を……愛する者を死なせたくない」

「ほらそこ!! なんで!! 自分ばっかりそう思ってるって考えるのぉ!?」

「汝は、我よりも弱い」

「そんな貴方だって死ぬ覚悟してんじゃん、意味分からない!!」


 ここで逃げたら、絶対後悔する。

 それこそ、死ぬまで。

 アルギンは確証こそないものの、この予感を拭い去れないから、言い募る事を止めない。


「貴方の背中を守るのはアタシなの!!」

「――……」

「騎士としてのアタシもっ、アルギンとしてのアタシも! ここにいる『アタシ』は、貴方を守りたいの!! アタシの覚悟に水差すってんなら、ディルだって許さない!!」


 この場で離れる事が正解だなんて思えない。

 この男を愛しこそすれ、不必要な自己犠牲に付き合うなんてごめんだ。

 尚も噛みつかんばかりの表情をしているアルギンに顔を向けたまま、その柳眉が寄る。


「……我に、戦死した汝の葬儀を執り行えというのか。些か夫不孝ではないか?」

「打ち捨てないでいてくれるんなら嬉しいなぁ、ディル愛してる」

「そんな言葉遊びで我を弄するつもりか」

「アタシがそんな器用な訳ないでしょ。……なんで、そうやってすぐアタシが死ぬっていうの」


 ディルは、ひとつ思い違いをしていた。だから、アルギンが優しく諭す。


「……生きて帰ろうよ」

「アルギ、」

「一緒に、生きて帰って、……ずっと一緒に居よう。二人で酒場やるって、話したじゃん。約束、守ってよ」


 生きるために、残りたいのだ。

 ディルを、最愛の夫を、あの酒場に連れて帰りたいのだ。

 勿論、夫を生かすためなら死なんて怖くはない。生きながら孤独に耐える世界の方がきっと、ずっと、もっと辛い。

 二人寄り添いながら生きる幸せな未来を夢見てしまった。それは、アルギンの心を強く変える。

 言葉を失うディルに微笑みかけるアルギン。その後ろで、口を挟むことも出来なくなってしまった兄妹が所在なげに視線を彷徨わせている。


「……あたし達、何見せられてんだろうね兄貴……。もうすぐここも血塗れになるだろうに」

「そう思うなら、お前だけでもあちらに戻ったらどうだ」


 妹であるソルビットは、アルギンの受け持つ隊『花』の副隊長だ。兄のフュンフから言われた言葉に、唇を引き結ぶ。


「……『花』は、もう指示出してあるから。でも、多分……そろそろ戻らないと向こうに心配かけるね」


 惑う妹を見て、フュンフはそれまで乗っていた馬から下りた。

 え、と声を漏らす妹は、自分と年の離れた兄を見つめる。


「お前は、もう行け。こうなってしまっては、『花』は梃子でも動くまい」


 フュンフだって、『月』隊の副隊長なのに。一緒に、と言いかけて、ソルビットが口を噤む。梃子でも動かないのは、自分の兄だって同じなのだ。

 無言で手綱を握りしめたソルビットは、一度だけ己の隊長へと視線を向けて、挨拶も無く走り去っていった。今の二人を邪魔したくなかったから。

 馬が駆ける音で、銀色の夫婦も気付いたらしい。フュンフの視線にも。ばつの悪い顔を二人でして、けれどもう言い争ってなどいない。


「もうお済みですかな」


 フュンフが腕組みをして、二人に声を掛ける。ディルは僅かに目を逸らし、アルギンは笑顔で頷いた。

 この時ばかりは、フュンフは口に出さずともアルギンに感謝をしていた。普段不平も不満も、自分の思っている事は何もかもを包み隠して無言を貫き譲らない隊長だ。そんな彼に臆面もなく物事を言える者は数少ない。

 他ならぬ妻の言葉なら、彼だって聞き入れる余地だってあった。


「ソルビットは行ったみたいだし……フュンフはどうする? ……アタシとしては、ファルミアに残ってる皆の再編して迎撃準備整えてくれたら助かるかな、って」

「どうしますか、隊長」

「構わぬ、アルギンの言う通りに。それから、フュンフ」


 改めて名を呼ばれ、フュンフが背筋を改める。この隊長に並々ならぬ感情を抱いているのは、フュンフだって同じだ。掛けられる命令が何であれ、その言葉の通りにしようと思ったフュンフの耳に涼やかな、柔らかささえ伴った低音(テノール)が届く。


「死ぬな」

「………た、……い、ちょう……?」

「何があっても、生き延びろ。……今出せる命令は、それのみだ」


 今まで、フュンフには一度も掛けられたことのない程の優しい声。言葉を失ったフュンフが、唇を引き結んで頭を下げた。

 再び馬に乗って去っていく背中を、アルギンは笑顔で見送っている。そんな妻の顔を見て、ディルが怪訝な顔をした。


「……アタシ達は、ここで迎撃? もう、離れろなんて言わないよね」

「町に入られるよりは、此の場で交戦した方が良かろうな。離れろ、などとは言わぬ。ただ、その逆は言うが」

「えへへへ」

「こんな状況というに、楽しそうだな」

「ん、……楽しくはないよ。……でも、そうだねぇ。なんかねぇ」


 アルギンの手が、ディルの腕の裾を握った。


「これまでで一番最善の選択した気がして、嬉しいって気はしてる」

「……ふん」


 鼻で応えたディルは、その妻の手をそっと解く。そして、その解いた手で行き場を失くした指を握る。


「喜ぶのは早い。我等は、未だ『選択した』だけだ」

「……うん、分かってる」

「よもや、あのような事を言っておきながら汝が約束を破ったりはしまいな?」


 握られた指を、絡ませるようにして握り返すアルギン。まだ不確定な未来が二人の間で揺らいで、それを言葉にされる度に不安が襲う。

 ここまで来て、死にたくない。

 願うのは『二人の幸せ』。


「じゃあ、アタシは貴方の背中守るから、ディルもアタシの背中守って?」

「元より、そのつもりだ」

「ありがと、愛してる」


 二人でいられることに最大の感謝を抱きながら、アルギンが目を閉じた。その唇は笑みを湛えている。


「ねぇ、ディル」


 瞳を閉じたのは、胸に湧き上がる羞恥があったからで。


「何だ」

「……あのね、その……帰ったら、さぁ」


 言う言葉は決まっているのに、それを口にするのを躊躇うアルギンにディルが待ちかね、握る指に力を込める。

 催促に気付いたアルギンも観念したように、頬を朱に染めて続きを言う為に口を開いた。


「……もっかい、『愛してる』って……聞きたいなぁ?」

「――」


 その言葉に絶句したディルは、視線を逸らして手を解いた。残念そうにしゅんとするアルギンに、顔を向けないまま。


「……そう何度も言わぬ。……しかし、聞きたければ無事に戻れ」


 と、不愛想に言うだけ。

 照れ隠しのその言葉が嬉しくて、アルギンの頬の緩みが収まらない。解かれた手を、根気強く再び握る。


「……アルギン」

「もうちょっとだけ」


 こうしていられるのも、あと少しだけなのだ。

 だったら、愛する人の体温を許されなくなるその時まで感じていたい。

 自分はもう、一人ではないと信じる事が出来るから。


「ねぇディル」

「今度は何だ」

「愛してる」

「……………………。ふん」

「愛してるよ、ディル」


 遠くに見えていた筈の敵部隊が、どんどん近付いてきている気がする。次に手を離したのは、同時。


「前方、敵性勢力三十。現在の視認可能総数、およそ十。残りはあっちに行ったかな?」

「確認可能、報告不要。――アルギン、離れるな」

「了解」


 そしてディルは剣を抜き、アルギンは詠唱を始める。


「――『水の精霊よ』」


 二人が生きる世界の為に。




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