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【第三部】アルセンの方舟 ―国家公認裏ギルド交響曲―  作者: 不二丸茅乃
chapter.4 花鳥風月

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2.悪い報告


 六年前の戦争で、雌雄を決した場所はアルセン王国領内だった。

 帝国との境よりもっと手前にある、工房の街ファルミアを巻き込んだ戦い。

 帝国軍が導入してきたのは、多種族の奴隷部隊だった。

 獣人、ダークエルフ、それから――プロフェス・ヒュムネ。


 プロフェス・ヒュムネ部隊が導入される前に、アルセン軍は自領へと押されていた。

 これ以上引くと後が無い、という場所まで来てからの戦闘。

 ファルミア周辺の広域平野には『鳥』と『風』、ファルミアには『花』『月』の精鋭が陣を張る事になった。

 そして、アルギンとディルも街に向かう。

 二人の運命は、そこで変わったと言って良いだろう。


 話は、運命の日の前夜まで遡る。




「……ん」


 夜も更けた真っ暗な世界で、アルギンの意識が浮上した。

 やっと気を張らなくて良い夜が訪れていた。明日が来なければいい、なんて陳腐な言葉をどれほど願ったか分からない夜だった。

 痛む体で寝返りを打ったのは、寝台でもない固い床。着ていた騎士服を下に引いただけで、薄い毛布を掛けている寝床というにも粗末な場所だ。


「起きたか」


 声に視線を上げると、月明かりの差し込む窓の側にディルがいる。

 月明かりに照らされた、上半身だけ服を脱ぎ捨てた肌に影が差す。「ひぇ」なんて、晒された肌に髪が垂れる夫の艶めかしい姿に、未だに慣れない初心な妻が声を上げる。


「でぃ、ディル。起きてた、ん、だね。寝なくて大丈夫?」

「少しは休んだ。……汝こそ、もう暫し寝ているが良い。加減はしたが、連日の疲労は溜まっているであろ」

「……え、えと、……うん」


 加減――なんて、軋む体が嘘だと訴えている。彼にとっては加減した『つもり』なのだろう。何の、なんて言及するような野暮な真似もしない。

 だからと疲労が溜まっているのも本当だった。これまでの戦況で、隊長であるアルギンは甘えた事も言えなかったし誰よりも気を張っていた。

 寝ろ、と言われてまた目を閉じる。でも寝に入るには遅すぎる時間のような気がしている。

 朝日が昇れば、戦闘が始まる。

 それを思えばおちおち寝ても居られなくなり、上体を起こしたアルギンは、体に毛布を巻いてディルを見た。


「……アタシが起きとくから、ディルが休んだら……?」

「我は、良い。眠るよりも、したい事が有る」

「したい事?」

「………」


 問いかけに返事は無く、代わりに熱っぽい視線が向けられた。纏わりつくような湿り気と温度を感じたアルギンは、気恥ずかしくなって頭から毛布を被り直し横になる。


「っ、でぃ、ディルも、寝ないと、大変だよ」

「心配など不要だ。……まだ起きている」

「……そう」


 こうなった夫は梃子でも動かないので、アルギンもそれ以上睡眠を薦めるのを止めた。

 これまで戦場で離れる事を余儀なくされたディルと、やっと同じ時間を過ごせる幸せ。こんな時くらい、隣で寝てくれてもいいのに――と思いながらも、アルギンの疲労はその喉元を掴んで眠りに引きずり込んだ。

 妻が寝息を立て始める頃合いに、ディルが動いた。起こさないようにそっと顔部分の毛布を退けて、寝顔が見られるようにする。

 頬に手を触れさせれば、ちゃんと温かい。


「……」


 ずっと、ディルはこの寝顔が恋しかった。寝顔だけでなく、妻の全てが側に無い事に苦痛さえ感じていた。この女が、自分の手の届かない所に居る苦しみを嫌と言うほど味わった。


 言葉は違うが、来るな、と、ディルは言った。


 ファルミアという拠点を狙われれば、この街での戦闘は激化する。それこそ、平野での戦闘よりも激しいものになるだろう。 

 だから、街を離れて平野で隊を展開している『鳥』や『風』と行動を共にするよう言った。そちらの方が生存確率は高かった筈だ。

 死地に立つのは自分だけでいい、と思った。

 でも、それは自分の命を軽く見ているからではない。


「………アルギン……」


 妻の命が、自分のそれより重すぎるからだ。


 年上なのに子供っぽく、乱暴なのに部下の心を掌握する。解けていく雪を思わせる儚げで美しい見た目と反して、口調も態度も粗雑で荒々しい。そんな女に懸想し、深く愛した。

 近付けば近付くほど、触れれば触れるほど、深みに嵌まって抜け出せない。向けられる笑顔も紡がれる愛情も触れた温もりも、今受け取った分だけでは到底足りない。もっと、と望みそうになる度に、暫くは耐えられるほどの量の愛をくれる妻だ。

 こんな女、他に居ない。もし居たとしても、アルギン以外考えられない。

 

「汝だけは、生きろ」 


 既に眠りについて声も聞こえていない筈の妻に向かって、小声で呟く。

 聞けば、彼女は怒るかも知れない。また、声を荒げて胸倉を掴んでくるかも知れない。今は掴む胸倉がないから、そのまま殴って来るかも知れない。……それも、一興だったけれど。

 来るなと言ったディルの言葉を拒んで、アルギンは共に来た。だから、ディルはもう願うしか出来ない。


「……生きて、くれ」


 誰を見捨てても。

 それが夫である自分でも。

 アルギンの居ない世界で生き永らえるつもりは無い。生きていられる自信も無い。

 最愛の人がいなくて、自分だけ生きていくなんて耐えられない。

 指先で撫でる妻の頬の温もりが、このまま保たれる事を願った。そこに、自分の命があるかどうかなんて二の次だ。

 ずっと、生きて、自分を愛して欲しい。それこそ、死の間際まで。

 ただ、アルギンの死は、ディルのそれよりもっと先の未来に訪れるべきだ。


 願った。願って、祈った。

 叶わなければ、ディルは神という言葉すらも受け付けなくなるだろう。

 妻が生きているように。

 自分をずっと愛するように。

 そして自分も、例え死しても妻を忘れないように。

 肉片や血の一滴に至るまで、妻を求めてやまない自分が永遠であるように。




 明けるなと願った夜は、時間が経てば容易に朝日を迎え入れた。

 明ければ静かな街の様相は一転、悲鳴と怒号が飛び交う戦場となる。

 夫婦は互いの手を離し、自隊の指揮官として動かねばならない。

 闘うのは夫婦の部下もだ。その命を散らすまでの激戦で、見知った者達が死んでいく。

 次に散る命が誰のものかも分からない状況で、それでも、藻掻いた。

 アルギンもディルも戦闘を交え、勝利を収めても無傷でいられる訳じゃない。それぞれが対峙した相手の戦闘力に見合った怪我を負い、そして――合流する。

 フュンフに案内されたアルギンは、傷を負いながらもディルの元へ向かった。当時の『月』隊長は単独で街の外にて、迫り来る部隊を片付けていた。帝国の騎馬兵を相手にし、その時は無傷で終わらせるディル。二人いたその兵は、片方が死ぬともう一人は逃げるように駆けて行った。

 残されたのは、一人分の死体と、その死体だった兵が乗っていた馬。主人を失った馬は大人しく、ディルに手綱を引かれていた。


「ディル」

「――アルギン」


 そこでやっと、側に行ける。

 落ち着いた様子でぶるる、と鼻を鳴らす馬は一先ずフュンフの手に渡った。

 ここに至るまでに獣人の奴隷と交戦したアルギンの姿は満身創痍で、妻の身を案じるディルは眉を顰めた。痛々しい妻の姿など、何があっても見たくないのに。


「ちょっとだけ、やられちゃった。でも、まだ大丈夫」

「……ふん」


 『でも』『まだ』なんて、聞きたい言葉ではない。ちょっとだけ、という割には頭部を切ったらしく頬を塗りつぶすほどに血が流れている。

 アルギンの種族はハーフエルフだ。魔法を使える血が半分流れておきながら、その発動条件がとても狭い。この血は故意に流したものかも知れないと思えば、ディルの機嫌は更に悪くなる。愛する人が戦場で傷付く様を喜んで見ていられる者など居ないのだ。

 フュンフとアルギンは、ディルの『ふん』を、アルギンの負傷が原因と考えた。ひいては、彼女が非力なのに戦場に残っているせいだと。……そうでない事を、二人はまだ知らない。


「フュンフ」

「は」

「町はどうなっている」

「未だ一部が交戦中。流石に防衛線ともなるとこちらの優位のようですな」

「優位、か。我は其の言葉が出てからの逆転を何度も見た事がある。気を抜くな」


 ディルの機嫌が直らないまま、『月』隊の二人は戦況の話に入る。負傷したアルギンは若干蚊帳の外だ。それが面白くなくて、無理やり話に割って入る。


「そっちは今どんな感じなの?」

「遊撃兵らしい者どもと……斥候が幾らか。いつまでも町を落とせない事に焦れているのやも知れぬ」

「斥候の相手なら、貴方一人でも大丈夫だしね……」


 口から転び出るのは夫に対する賛辞。やや過度なそれを聞いて、フュンフがまた惚気かと鼻白む。

 恋人同士になる前は臆病で、ろくに近付けもしなかった筈の女だ。それが今や、砂糖にも勝る甘い言葉と思考でディルの隣を勝ち取った。

 フュンフにとっては不愉快極まりない。ディルを敬愛しいつも側に居たフュンフが、ディルの一番になれない事。同じような愛情から来るものではないが、フュンフがアルギンに向ける感情は嫉妬だ。


「……全く、『花』は春色で参りますな」

「あれフュンフ、ご機嫌斜めかぁ? 大丈夫だって、アタシだってこんな所でイチャついたりしないから、――」


 そんなフュンフをからかうように、アルギンが笑い飛ばそうとした。

 けれど、特に何か目的があって向けた訳でない視線の向こうに、知らない緑の軍勢が見える。

 笑みは、そこで止まる。


「フュンフ」


 嫌な汗が滲む。


「何だ」


 まだ、フュンフは気付いていない。


「あれ、」


 不機嫌そうなフュンフを無視して指差した先、地平線の手前。

 空の青と平野の緑の間に、更に濃い色の緑が蠢いていた。

 三人が目を凝らす、離れた向こう。その緑は隊列を成しているようにも見えた。

 嫌な胸騒ぎが、止まらない。


「――エンダが言っていたな。帝国には奥の手があると」


 ディルにだけは、あれが何なのか分かっていたようだった。フュンフは新手らしき緑の隊列に言葉を無くしている。

 それが、何なのか。奥の手だとディルの口から漏れたが、アルギンにはエンダという名前しか分からない。


「奥の手……?」


 エンダは『風』隊長だ。アールヴァリン王子を副隊長に任命した、アルギンやディルの同僚。情報部隊を内包する『風』隊は何かを知っているというのか。ディルに視線でも問うたが、答えは返らない。

 不安は強くなるばかりだ。今更新手なんで出されても、アルセン軍にはまともに対抗する余力があるとは思えない。状況が悪いのは嫌でも伝わって来て、思わず夫の袖口を指で引いた。

 

「――隊を組みなおそう。今の街の戦況を確認して、まだ帝国の残党がいるなら先に片付けよう」


 アルギンの不安は声の震えに出た。情けない声しか出せないが、言いたい事は伝えられる。

 迎撃できる体制を整えなければならない。後顧の憂いなど、あってはいけない。背後から狙われるなんてごめんだった。けれど、それよりも。


「……それが良いであろうな。……ん」


 アルギンは、ディルを前線に一人で立たせたくなかった。

 自らの命を顧みない彼を、あの緑と引き合わせてはならない。その時、何故か強くそう思ってしまった。

 しかしディルは妻の心配を他所に、音を聞き取ってしまって動かない。全速力で駆けてくる、馬の足音だった。


「たいちょー!!」


 それは聞き慣れた声と共に近付いた。快活でよく通る高音域(ソプラノ)の女性の声だ。

 ここには隊長格は二人いるが、その声だけでどちらが呼ばれたか分かる。アルギンが勢いよく振り返った。

 栗色の毛並みを持つ愛馬を駆る、ソルビットがそこに居た。彼女には隊の指揮権の幾らかを譲り、他の隊と行動を共にして貰っていたのに。


「ソルビット!? お前さん、向こうはどうしたんだ!」

「んな事言ってる場合じゃないっす!! 緊急事態っす、あっちに何かいるの見えるっすか!?」

「向こうって……あの緑色の?」

「あれ、三十人のプロフェス・ヒュムネっす!!」


 ――ざわり。

 ソルビットの齎した情報に、『月』隊に所属する二人の背中に悪寒が駆け上がる。でも、アルギンは何も分かっていない顔だ。

 士官学校すら出ていない無学のアルギンは、その種族名に思う所がそれほどない。彼女にとってのプロフェス・ヒュムネで知っているのは、昔に滅んだ国に住まう種族で、酒場に勤めるオルキデとマゼンタがそうである事くらいだ。今遠くに見える緑色の影が、何故緑色に見えるのかも分かっていない。それほどに、知識が無い。

 ディルもフュンフも、互いに顔を見合わせた。このままでは、恐れていた事が起きる。


「……プロフェス・ヒュムネって……あの、プロフェス・ヒュムネ……? 帝国に滅ぼされたっていう、あの」


 ――アルギンが、死ぬ。


「あの、っす!! 急いでくださいたいちょ、町捨ててでもこっちと合流してください、皆死にますよ!!」


 ソルビットの怒号は、三人の耳に届いている。けれどそれに現実味を感じていないのはアルギンだけだ。

 この女を戦場に置いておきたくない。ディルにとって大切な、たった一輪の花。例え誰が死のうが生きていて欲しい妻だ。

 ディルは今、終わりを見ている。

 まだ一年程度しか味わっていない、幸せな時間の終わりを。


「今こんな所でプロフェス・ヒュムネの生態を授業してる暇は無いっす! たいちょ、急いで――」

「……いや」


 急かすソルビットを、ディルが止めた。

 終わりが来るのなら、もう少しだけ待ってほしい。

 怪訝な顔をしたソルビットだったが、ディルはただ、フュンフに向かって軽く頭を下げる。礼や何かを口にするでも無いその動きは、アルギンの目には不思議な光景として映った。が、フュンフにはそうではないらしい。

 大きく目を見開いた彼は、戦慄く唇を噛みしめて、拳を強く握る。


「……プロフェス・ヒュムネは、『ファルビィティス』に住まう種族だった。今は滅ぼされ、奴隷として身を窶している者も多数いる」


 次にディルは、アルギンに向かって諳んじた。それは士官学校の教科書に載っているような一文。

 こんな内容すら碌に知らない、歴史も覚えていないような馬鹿な女だ。でも。


「プロフェス・ヒュムネにはひとりひとりに様々な能力を有する『種』がある。その種を体内にて発芽させることにより、他を圧倒する戦闘力を誇る。そしてその種は、一定の条件下で暴走する。暴走したプロフェス・ヒュムネ達は、帝国軍の半分を虐殺した。………一方的な殺戮だったと、聞いている」

「……まさか、それが今見えてるアレって訳……?」

「アルギン」


 そんな女に心を奪われたからこそ――ディルの苦悩は尽きない。

 今から何が起こるかも分かっていないような顔。堪らなくなって、ディルがアルギンを抱き締める。何度だって二人きりの時にそうしてきたように、背中に両腕を回して。


「三十名も居れば、疲弊したアルセン軍など半壊……あるいはそれ以上に追い込めような」


 この言葉は、ディルの苦悩そのものだ。

 『半壊』『それ以上』の計算に、何があっても妻を入れたくない。


「……ちょ……っと……、なに、を」

「ああ――」


 漏れる声が、温もりに触れて和らぐ。

 最近、妻と共に居ると表情が緩むのに気付いた。でも、緩んだ顔を妻に見せるつもりは無い。

 昔、人形と呼ばれて蔑まれていたディルを『ヒト』へと変えたのはアルギンだ。


 もう二度と、人形になど戻りたくない。

 失いたくない。

 生きていて欲しい。


 ディルの願いは、それだけだ。


「もっと早くに、出し惜しみせず、伝えていれば良かったな」

「……何、言ってるの? ねぇ」

「知っていたのだ、我は。言葉が結び付かなかっただけで、我はずっと解らないと思っていた言葉を探し続けていた。答えは、いつでも我の側にあったのだ」

「うで、くるし……」

「アルギン」


 それは、彼にとって、はじめての。


「愛している」


 妻に向けた、愛と呪いの言葉だった。



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