22.妻に見せられないほどの顔
双子を救出するのに協力した面々に、アルギンが言ったのは御礼をしたい旨だった。
アルギンに最初に出された御礼の内容が、ジャスミンからの『昔話を聞かせて欲しい』というもの。
それは主にこの酒場を中心とした内容だが、夫婦の馴れ初めに付いても言及されていてアルギンが頬を染める。
夫に関する話はすべて、この女に掛かれば惚気話になってしまうのだから。
「あ! それだったら私も聞きたいなぁ! 特にディル様の禁句とやらについ――」
ジャスミンの提案への援護のように、ミュゼが次に声をあげた。
その一瞬だけ、ディルの顔を見ていた者達の呼吸が――止まる。
見ていなかったのはアルギンとアクエリアとフュンフだけ。
「……んん、アタシは……まぁ……聞きたいなら聞かせてあげられるけどぉ……。でも大丈夫? 終わるまで三日くらい掛かるよ」
「要点だけ纏めろ」
「二日間くらいを惚気て終わりそうですよね貴女」
「そりゃそうなるだろ。アタシがディルの話するってのは、まぁ、そういうことだ。……あれ? 皆? どうした?」
ほぼ全員が固まっているのにやっと気付いたアルギン。もうディルはいつもの無表情に戻っている。
双子は父親の例の顔を見てもけらけら笑っていた。
「あははー、ぱぱすごいかおだったー」
「ぱぱおもしろーい」
「顔? ……いつものカッコいい顔じゃん」
双子が笑う理由も分からないアルギンは、その言葉を軽く聞き流した。
最愛の夫の表情は基本的に、いつもあまり変化がないと思っている。
「……アルギン」
妻に声を掛けたディルは、その時には眉間に皺が寄っていた。
「なに?」
「ミョゾティスが言うには、我への『禁句』に付いても触れたいのだそうだ」
「………ぇ」
「今思い出しても不愉快極まりない記憶だが――、其れでも伝えるかえ。其の時には、我も同席しあの時の恨み辛みも吐き出して構わぬか」
「あの、はい、その節は本当、その、申し訳ありませんでしたというか、あううう」
あううう、なんて言う声が汚く濁っている。
アルギンが言い淀んでいるうちに、固まっていた面々が復帰する。麻痺が解けた後のような渋い顔をしつつ、夫婦の会話に耳を澄ませた。
それでも、全て分かっている夫婦の言葉だけでは理解出来ない部分が多い。話に付いていけなくて、医者二人はこっそりアクエリアの側に移動した。
「あの、アクエリアさん」
「はいはい?」
「ディルさんの『禁句』って何なんです? そんな言葉あるなんて、私達知りませんでしたよ」
「まー、知らない方がいいんでしょうよ。あんまり言い過ぎたらディルさん怒り出しますし……、まぁ、でも、そうですねぇ」
結婚して七年目。
子供が産まれて五年目。
そして、『禁句』が出来て四年目。
「あの二人、一回離婚するって話が出た事があるんですよ」
「は」
「……は!?」
「勿論結果は皆が今ご覧の通りですけれどね。その時から、ディルさんには『浮気』『不倫』『離婚』は禁句。詳しい話は、二人の口から聞いた方がきっと楽しいですよ」
仲睦まじく可愛い子供もいるこの夫婦が、離婚の危機に陥っていたなんて――と、医者二人は勿論ミュゼまでもが戦慄する。
アルカネットは、当時の記憶が思い出されたのか溜息を吐いている。フュンフも目を細めて夫婦を見遣っていた。
「離婚って……どうして」
「夫婦のすれ違いですねぇ。片方に不倫疑惑が浮上して、それでって感じです」
「不倫って……。ちょっと、待ってください」
艶聞に興味津々のジャスミンもユイルアルトも、瞳が輝いている。
今でもアルギンがディルに頭が上がらないのはそれが理由か――とも。
「……マスターが不倫? そんな、ベタ惚れのディルさんがいるのに? まさかそんな」
「………勿論、どっちも不倫なんてしていませんよ。誤解でした」
「だ、だよな!! ディル様いるのに、マスターが他の男になんて」
ジャスミンもミュゼも、不倫疑惑が浮かんだのはアルギンの方だと認識した。
そもそも、今だってディルは昼も夜も酒場にいる時間が長いのだ。他とも深い交流が殆ど無い男に見える。
対するアルギンは社交的で明るく、酒場の客にも近所にもその他にも懇意にしている人物は多い。
そうなれば、疑うべきはどちらかはっきりしている。でも――現実はそうではなく。
「……当たり前だろう。あのディル様が居ながら、アルギンが他の男に現を抜かす訳があるまい」
溜息交じりに口を挟むのはフュンフ。
夫婦の危機の顛末を、直接では無いが彼も知っている。だから断言するように言うのだが。
「そ、そうですよね」
「疑惑があったのは、ディル様の方だ」
「………へぇえええ!?」
「ちょっとフュンフさん。ネタバレは駄目ですよ」
ディルの過去に不倫疑惑。
どうしても理解出来ない女性三人が三様に頭を抱えている。
疑惑があった方がどうして今、あんな風に妻に詰め寄っているのかも分からない。妻への愛情表現も希薄で、感情らしい感情も殆ど出さない男――怒りや先程の『禁句』について言及した時はまた特別だが――なのに。
感情の希薄な夫に、どこまでも甘い妻。そんなアルギンへの認識が強固になりつつあった。……でも、恐らく夫婦の話を改めて聞けばその認識も変わるだろう。
「何がネタバレだ、ディル様の話を娯楽の代わりにするな」
「代わりだなんてとんでもない。娯楽そのものですよ、俺にとっては」
「貴様」
不倫の疑惑も。
離婚の危機も。
今でさえ二人にとっては笑い話にもならないのに、あの頃の夫婦の憔悴を知っていれば心持ちが違う。
でも、夫婦と関わるなら知っていても悪くない事かも知れない。……特に、愛情表現の少ないディルが妻にどんな感情を抱いているか、話を聞けばよく分かるだろう。
フュンフはそれ以上、口を出す事が出来ない。夫婦は夫婦でもう話す方向で考えているらしいし、双子はそんな夫婦の周囲をくるくる回って遊んでいる。
あとは酒場の面々の問題だ。
「……ふん、これ以上下らない話に付き合うのは時間の無駄だ。失礼させて貰う」
「双子に挨拶くらいしたらどうです?」
「家族水入らずの最中に無粋だろう。今日が最後になる訳でも無し、また後日ゆっくりと――」
「せんせぇ!!」
フュンフが帰る気配に気付いたのか、夫婦の側からウィスタリアだけが走り寄って来た。
灰色の寝間着に身を包み、治療されたとはいえ痛々しい赤い傷を晒している。顔に塗られた膏薬の匂いがフュンフの鼻腔を擽った。
孤児院に所属こそしていないが、可愛い教え子の一人だ。敬愛する人の子供でもあるが、それだけではない感情もある。
「せんせぇ、もう、かえっちゃうの?」
「そう、だな。まだ仕事も残っている。悪い奴等の居た場所を、ひとつひとつ調べていくんだよ」
「いそがしいの? つぎ、いつまたあそべる?」
「……さあ。それは、分からないな。でも、早く帰らないと次がもっと長引くかも知れない」
「えー……やだぁ……」
無条件で慕ってくれるウィスタリアを、フュンフは下心なく愛している。子供に向ける博愛の対象であるウィスタリアの頭に手を置いて、優しく撫でてやる。
それだけで足りなくなるのはウィスタリアの方。大好きな人ともっと遊んでほしくて、「かがんで」「かがんで」とおねだりした。
可愛い子供のお願いを聞き届けない孤児院施設長でもなく、フュンフは腰を屈める。しかし。
「あっ」
「……」
「あら」
「あ、………」
「あ」
さっきまでフュンフの近くにいた、医者二人とアクエリア、ミュゼとスカイはその瞬間を見た。
何の疑いも無く身を屈めたフュンフ。その頬に唇を押し付けたウィスタリア。
ちゅ、なんて軽い口付けでも無い。強く押し付けた唇は、なかなか離れない。
「せんせぇ、だいすき。またね。きをつけてね」
「………」
フュンフは目を丸くしつつ、身を起こす。ふらふらと外に向かおうとするが、距離感を計りかねてそのまま扉に激突する。がらん、と鐘の音が大きく鳴った。
フュンフが外に出て漸く、夫婦も彼が出て行ったのに気付いた。あの瞬間を見ずに本当に良かったと全員が思う。
特にディルは、ウィスタリアが自主的にしたとはいえ娘の口付けの瞬間など見てしまえば何をしたか分からない。
「……ふ、……ふ。ふふふふふふふ、うふふふふ、ふふふ」
「アクエリア、目が笑ってないよ」
「構いませんよ。そりゃ彼は恩人の一人ですしいつも遊んでもらっています。幼い頃特有の憧れとかあるのかも知れませんねぇ。あんな加齢臭漂うような年齢のオッサンへの淡い想いなんて遠くない未来にいつかまともじゃないって分かって正気に返るでしょう」
「お前、自分の方が年上だってこと忘れてない? いつも都合のいい所だけは無視するんだよなお前」
アクエリアは自分が見た光景を受け入れつつも、フュンフへの毒吐きを忘れない。そこでいつも冷静に突っ込みを入れるのもミュゼの役目になった。
一瞬だけ正気を失いかけたアクエリアだが、対照的にミュゼはどこか嬉しそうだった。愛らしい幼児が、誰かに素直な好意を見せたところが微笑ましかったのかも知れない。
「でも、どうする? あのままウィリアがフュンフ様と結婚するとか言い出したら」
「は? 許す訳ないでしょ。いくつ年の差があると思ってるんです、ウィリアに手を出したらあの野郎四つくらいに裂いて殺しますよ」
「殺すな殺すな止めろ頼むから」
文字通り目の色を――藍から黒へ――変えながら毒吐くアクエリア。
ミュゼはそれを諫め、けれど唇で弧を描く。
「まぁ、でも。……人の恋路に口出すほど無粋な事って無ぇよな?」
まるで、ウィスタリアの幼い恋が成就するのを願っているかのように。
その点だけは意見が合いそうにないな、と思ったアクエリアは目に見えて不機嫌になる。
「アルギンさん、折角ですし酒でも振舞って下さいよ。祝い酒です」
「おっ、いいねぇ! じゃあ今日の酒代は全員無料にしようかな!! 双子の無事を祝して!」
「やった!」
アクエリアの一言が、他の面々にも恩恵を齎した。
その日は酒場を開けられる筈も無く、しかし灯りのついた店内では楽し気な酒盛りの声が響いていた。
更け行く夜、双子は父親を伴って先に寝床に就く。その階下で、昔話が始まった。そこまで過去に遡らない、店主夫婦の話だ。
その楽し気な声の中に、店員姉妹はいなかったけれど。




