14.どこへ
「――……あ、……?」
アルギンがぬいぐるみを視界に捉えた時、まず頭より体が動いた。
小走りにもならぬ足取りで、ふらふらと、けれど心だけは急いでいた。手に取る小さいぬいぐるみに、まだ仄かな温もりが残っている気がする。
地から拾い上げる時、焦点が合っていなかった。自体を把握しようとしても、頭が理解を拒絶する。
「アルギン、アルギン! まだ遠くに行ってない筈!」
「……」
曇天は、今まさに雨を降らせようとしていた。空を見上げたアルギンの鼻先に、小さな雫が触れる感触。
名前も知らない誰かの地を踏み歩く足音が聞こえる。でも、それは屋外だから当たり前。
まだ雨音が大きくならないうちに、耳を澄ませる。
混じっていてもエルフである筈のアルギンの耳は、双子の足音を聞き取れなかった。
でも代わりに規則的に舗装されていない道を走る音が聞こえる。それは足音ではない――車輪。
「あっちだ!!」
家々を別つ道、その中のひとつから車輪の音が聞こえた。子供達を拐す者が、身柄の運搬に使うとしたら荷台か馬車か。
馬の蹄の音は聞こえない。頭に血の上ったアルギンは、ぬいぐるみを握りしめたまま、全速力で道を駆けた。
「待っ、アルギン!!」
悲痛なソルビットの声が聞こえても、止まれない。待っていたら、最愛の子供達に何が起きるか分からない。
騎士を辞めても、母親として生きていても、騎士団の中でも並みいる男共を差し置いて俊足を誇っていたアルギンの速さは健在だった。子を想う心が足に速度を乗せる。
「その荷台、待てやああああああああああああああああっ!!」
荷台を引いているのは男だ。幌も無いような荷台には、干し草とそれを覆う布が張ってある。
待て、と叫ばれた男は心当りがあるのか一度だけ振り返った。目深に鍔の広い帽子を被って目元を見せなかったが、大人しく止まる手合いでは無い。
アルギンの制止を無視して、荷台を引く速度を速める。
「待てっつってんだろボケカスがあああああああああああっ!!」
怒声は空に響いた。
男との距離は、歩幅にしておよそ百歩分。荷台を引く男とアルギンとでは、その距離がすぐさま縮まる。
やがてこれ以上は危険だと判断した男は、アルギンにも聞こえるような音の大きさで舌打ちした。そして、荷台をそのままにしてその場を逃げ去る。――逃げ去れる、と思っていたのだろう。
荷台が置き去りにされたのを見たアルギンは、それまで殆ど切れていない呼吸を乱した。肺いっぱいに息を吸い込んで。
「――ソルビットっ、二人を、頼むっ!!」
まるで咆哮のようだった。
アルギンの大声を聞き届けた後続のソルビットは、否も応も叫び返す間もなく走り去るアルギンの背中を見ているだけだ。
荷台にそれまで持っていたぬいぐるみを置いて、男を追う選択をしたアルギンは、速度を保ったまま走り続ける。そのアルギンの姿を見た男も「げぇ!!」と声を漏らすに至る。
逃げようとする方向には六番街がある。雑多な方へと向かえばそれだけ逃げ切れる可能性が上がる。しかし、アルギンだってこの城下で暮らしている。どこへ逃げようと地の利は間違いなくアルギンの方が上だ。
「逃がすかタコがあああああああああっ!!!」
道行く通行人が仰天して道を開ける有様。
男だって決して足の遅い部類ではない。対するアルギンが速すぎるだけなのだ。
かつて自身も騎士隊長として名を馳せ、元とはいえ聖騎士の勲章を戴いていた男の妻の座に恥じない程に。
やがて逃げきれないと悟った男が、六番街へ続く橋の上で立ち止まって振り返る。相手は足が速いとはいえ女と侮ったのが、その男の運の尽きだった。
アルギンも足を止めると思っていた男は、目の前の景色と自分に降りかかる悪夢を受け入れられなかった。
「へ」
情けない声を漏らしたのは男の方だ。
そのまま距離を詰め、秒ほどの間を持たせる事無く、アルギンの両足が地を離れた。一対の靴底が、男の腹を捉える。
鈍い音をさせてめり込んだアルギンの飛び蹴りは、男の体を半分にへし折るような形で後方に吹き飛ばした。
「っが、……はっ!?」
地に落ちる際に受け身を取ったアルギンの動きは、その直後から。
アルギンの先制に反応できなかった男は床を転がり、呼吸すら出来ない程の衝撃に目を白黒させているだけだった。男の行動より先に、即座に胸倉を掴んだアルギンは躊躇いなく男を川に向かって投げ飛ばす。
「待てっつっただろこの野郎おおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
投げ飛ばす時すらも絶叫だ。持ち前の肺活量は煙草を愛飲していても尚健在。
いきなり地面が消失した男は、手足をばたつかせながら川に落ちていく。でも、それで終わりでは無いのが悪夢たる所以。
アルギンが後を追って橋を飛び降りた。華麗にふわりと翻る下衣を押さえる事もせず、惜しげもなく脚線美を晒しながら川に降り立つ。膝下まで水が来る川に着水すると同時、立つことも覚束ない男の首根っこを引っ掴んで水面に押し付ける。
体も、髪も、顔も、川の水が跳ねて濡れても気に留めない。
「っごぼ、がっ!? ごぼ、がばぁっ!?」
「人様の娘攫うたぁどういう了見だぁコラァ!? この場で殺してやりたい程だが我慢してやらぁ! 命で償えとまでは言わんからあの世の手前まで観光に行ってこいやクソボケがああああ!!」
――母親を怒らせると、怖い。それが騎士経験のある人物でなくても、だ。
やがて男から抵抗の動きが見られなくなる、その直前で顔を上げさせる。死なれては後々問題になるから、それだけは避けたかった。
空気に触れても息の出来ない男が藻掻く様を冷たい瞳で見ながら、鳩尾付近を二発ほど殴りつける。水を吐いた男はやがて意識を失い、手足に力が入らずに川に浮かんだ。顔を水面から上に向かせて、足で男が流れて行かないように堰き止めるのはアルギンの温情。
「アルギン!!」
やがて、ソルビットがアルギンに追いつく。息を切らして川を覗き込む彼女の顔は真っ青だ。
「おー、ソルビット。どうだった? あの子達は無事だった?」
ソルビットが追い付いた事で、アルギンの瞳にも正気の色が宿る。
しかし、真っ青な顔のままのソルビットの唇は。
「違うのっ!! 違う、アルギンっ!!」
アルギンの聞きたい報告が出来なかった。
「居なかった!! あの子達、どこにもいないのっ!!」
「――え、?」
荷台自体が、囮である事に気付いたのはその時だ。
子供を攫うに相応の、それでいて誰もいない空の荷台。
双子は、既に連れ去られている。
「……うそ」
アルギンの表情が、更に青く染まる。
してやられた、と気付いてももう遅い。
膝下までが水に浸されたアルギンが、腰が抜けてその場に座り込む。
増水前の冷たい川の水が、彼女の頭までをも冷やしていった。
雨が、強くなる。
誘拐に関わったと思わしき男を縄で捕らえて酒場に帰ったアルギンとソルビット。
双子が攫われたと聞いて一番に酒場を飛び出したアクエリアだが、手掛かりも掴めずに強くなった雨に降られて戻って来る。
酒場の空気は張り詰めていた。こんな時に限って、ディルが居ない。ディルだけでなく、今日はマゼンタもオルキデも、ロベリアも外出していた。
アルカネットはすぐさま、状況を報告しに自警団詰所まで走った。今頃、自警団員で捜査網が引かれている筈だ。
アルギンはずっと、椅子に座ったまま双子の身を案じて泣いていた。顔を覆い隠して、肩を震わせて泣きじゃくっている。自分のせいだ、と絶えず後悔の言葉が漏れていた。
あんなに元気よく酒場を飛び出した双子を、誰が引き留められただろう。扉が閉まったその一瞬で居なくなるなんて、誰が予想しただろう。変わらない日常が変わって後悔するのは、いつも手遅れになった後だ。
こうなった理由は明白だ。でも、誰もその事実を口にしないようにしていた。なのに。
「……ぼ、ぼく、が。……この、ばしょに、きてしまった、から」
本人が口にしてしまえば、誰も何も言えなかった。
スカイが、酒場に身を寄せたから。だから双子にも矛先が向いた。向こうがスカイの身柄と交換しようとしているのか、それとも双子を代わりにと思っているのかは不明のままだが。
自責の念に駆られるスカイの言葉を否定したのは、双子の母親であるアルギンだった。
「違う。違う、よ。スカイ。お前さんは、悪くないよ。悪い筈が無いじゃないか。なんでお前さんが悪いんだ。悪いのは、子供を飯の種にしようとしているクソ共の方だろ」
「ですが、アルギンさん」
「お前は悪くない。絶対だ。あの子達だってそう言うに決まってる。それ以上自分を責めるな。他に悪い奴が居るとしたら、油断していたアタシだ。アタシが悪いんだ」
こんな時でも、アルギンはスカイを責めない。実際、スカイを責めても何も進展しない。
酒場の外では、雨の音が強くなった。それに呼応するように、アルギンが泣きじゃくる声も大きくなる。
「っ、あの、二人に、っ! 何か起きたらっ、取り返しのつかない事になったらぁ!! アタシ、親失格だし、ディルに、っ、なんて言えばいいか分からないっ……!! 二人が、無事に、戻って来るかも、わから、ないのにぃっ……!! アタシだけ、こんな、屋根の下でぇっ……ふた、りをっ、心配するしか出来なくてぇえっ!!」
――大事な、大事な、愛する人との間に産まれた可愛い双子。
二人はただ、遊びに出ているだけで、自分達でそのうち戻って来る――なんて慰めは通じない。こんな雨の中、まだ小さな幼児が母の手を離れて何処へ行くと言うのだ。
アルギンとソルビットが連行した男は、勝ち誇ったような笑みを浮かべている。ソルビットやアクエリアから殴られ蹴られ口端から血を垂れ流そうと、自分達の優位を疑っていない。
「あんな子供なんざ力尽くで攫っちまえばこっちのもんよ。今頃、頭領達が値段決めてるだろうよ。そこそこ高値が付くだろうから、喜んでもいいと思うぜぇ?」
聞くに堪えない挑発だった。
殺気を込めた視線が、今現在一階に集まっている者達から注がれる。でもこういった手合いの輩は、視線だけでは黙りもしないのはアルギンだって分かっていた。だから、カウンターの中に入って刃物を取り出す。果物を飾り切る時に使う、小さなものだ。
それで人が簡単に死なないのは男だって分かっている。
「……あのさぁ。アタシねぇ、人に大声で言えない仕事をした事もあるんだよぉ。口を割るなら今のうちって、忠告だけしておくねぇ」
瞳の虚ろなアルギンが、刃物をちらつかせて男ににじり寄る。
だが、男はこの期に及んでも、それがただの虚勢だと侮ってしまった。
「っは、お前みたいな女に何が出来るんだよ。手元震えてるの見え見えだ、嘘吐くならもっと上手に――っ、あ、ああああああああ!?」
アルギンの手は確かに震えていた。でもそれは躊躇いから来るものではない。振り上げた刃物は、吸い込まれるように男の太腿へと深く刺さる。
「期待に添えなくて悪いなぁ」
絶叫を上げる男の目の前で、刺した刃物の持ち手に掌を当てるアルギン。それを前後に揺らせば、傷口は難無く広がった。更に絶叫が大きくなるが、外の雨音とどちらが大きく聞こえるだろうか。
「手元震えてるの、あの子達が心配だからだよ。太い血管傷付けたら悪いな、お前さんここで死ぬわ。今のうち言っておきたい事無い? 故郷に遺して来た親兄弟とか、恋人とか奥さんとか。住所まで言ってくれたらアタシが皆殺して後を追わせてあげるよ。家族は、皆揃ってた方がいいもんねぇ?」
さらりと生死に関する発言をしてのけたアルギンの背中を見ながら、ソルビットとアクエリア、それからミュゼが顔を突き合わせている。ミュゼの表情は、アルギンに負けない程真っ青だった。
「急がないと、アルギンったら奴を殺しかねないね。アクエリアさん、外見て怪しい影無かったの?」
「俺が見た時には無かったですね。……アルギンさん、それ以上やると本当に殺してしまいますよ!!」
アクエリアの言葉にすら、アルギンは耳を貸さない。独り言のように脅す言葉を垂れ流しながら、刃物を抜いては刺しを繰り返している。けれど決して主要な血管を刺さないでいるのは、人の急所を実技で勉強したからか。
刺される度に男の絶叫が漏れる。逃げたくても、柱に体を括りつけられていては逃げられもしない。
「奴隷商人が、値打のある子供に傷をつけるとは考えにくいです。だから二人の身の安全はそれで証明される、……と、思います。皮肉な話ですが」
「でもそれがいつまで持つか、分からないじゃんか。九番街の警備は、今日も万全な筈だったんだ……。くそ、それがどうして……」
――根城は、九番街以外にもある。
ソルビットが辿り着いた答えは、恐ろしいものだった。把握している以外に住処があるとして、そちらは騎士も把握しきれていない。
双子が何処にいるかも分からない状態で、ソルビットだっておいそれと自隊の騎士を派遣する訳に行かない。元々、自分を含む騎士は王家の持ち物で、それを自由に使うのは越権行為だ。
泣きじゃくるアルギンを目の前にしても、今にも誰かを殺しそうなアルギンが居ても、自分一人の意思で騎士を動かす訳には行かない。今回の件で動かせるのは、酒場に居る面々だけ。
でも、どうすればいいか悩むだけのソルビット達を尻目に、雨具を着て外に出る準備をしていたのはジャスミンとユイルアルトだ。二人は別段何か言葉を交わす訳でも無く、淡々と外套を被る。その姿に面食らったのはソルビットの方で。
「ちょっと、二人とも外に出る気?」
「私達でも、情報くらいは集められると思いますから」
「駄目だよ、二人が外に出て何が出来るの? 双子を取り返すにも下準備が必要なんだよ」
「それで酒場で手を拱いていろと? 何も出来なくても、怪しい人物を見かけたかだけでも聞き回る事は出来ます。それさえしない人達と一緒に居て何か進展有りますか」
――しない。
出来ない、ではなく、しない。
そこまで見下げられているのか、と思えばソルビットの言葉も出なくなる。冷たい言葉を連ねるユイルアルトの言葉選びに慣れていても、今回の発言には隠し切れない侮蔑が聞き取れた。
双子は、この酒場にとって何にも代えられない宝物なのだ。小さくて、無邪気で、何も知らない純粋な命。双子がいるから、酒場の面々はどんな状況に於いても理性を保っていられる。
「……ごめっ……ん、ねぇ……、ごめんっ……ウィリア……バルトぉ……」
泣き続けるアルギン。その声に背を押されるように、医者二人は酒場を出て行った。
低い音を鳴らす鐘の音が聞こえると同時、一瞬だけ気を失ったかのように倒れかけるミュゼ。
「ミュゼさん!?」
「……だ、い、じょうぶ。……大丈夫、……私なんかより、あの子達が」
双子を想う心はそれぞれだ。でも、ミュゼの顔色は母親のそれと同じくらい悪い。
今は、それぞれが出来る事を考えるしかない。先んじて行動を起こしたジャスミンとユイルアルトだけに、情報収集を任せる訳にはいかなかった。
「……あの二人は、無事ですよ。そうでしょう。あの二人は、元気で笑顔でいて貰わなければならないんです」
アクエリアが外を見た。雨足は変わらず、足跡を消してしまいそうな強さだ。
この空の下で、双子が泣いているかも――と思うだけで、アクエリアの心に黒い靄が渦巻く。
「……アクエリア」
震える唇で、喉で、ミュゼが名を呼んだ瞬間、その靄がほんの少しだけ晴れた気がしたアクエリア。
「探しに、行こう。絶対、見つけなきゃ。あの二人には、絶対、無事でいてもらわなきゃ……」
ミュゼだってまだ顔色が悪すぎるほどの癖に、何かしなければならない程の焦りに襲われている。
絶対に、無事に見つけ出さなければならない。助けなければならない。皆に共通している認識だが、ミュゼのそれは人一倍強い。
雨の強い城下へと、次に飛び出したのはミュゼとアクエリアだった。




