13.目を離した一瞬に
酒場にスカイが身を寄せて一晩が明けた。
一番身構えていたのは、渦中のスカイではなく酒場の医者二人だった。
何か起きた時に一番非力である女性二人は、力では男に逆らえない。部屋の中には日に日に護身用と銘打った用途不明の薬剤が増えて行き、その中の幾つかを『取り扱い厳重注意』とした上でスカイに渡そうとしたところをアクエリアに見咎められている。
暫くの間引きこもりを宣言した二人は、王妃殿下から言い遣った教科書作成の為の薬草への文言を纏めるのにも忙しそうだった。
双子はスカイが遊び相手になってくれるのもあり、楽しそうに過ごしている。部屋の中でも出来る遊びはお絵描きや読書、男共を対象とした背中登りなのでその犠牲となるアルカネットやアクエリアは頻繁に四つん這いになる事を求められた。
酒場を開いているアルギンは、普段と何も変わらない生活を送っているように見えた。昼も夜も忙しく働く彼女と、酒場に住まう皆の為に炊事や掃除をこなすマゼンタとオルキデの姉妹。
しかし普段よりも、アルギンの表情は浮かず、逆にマゼンタの表情は明るくなっている。
それは酒場に居るべき人物の不在と、居ない筈の人物の在留が理由なのだが。
「マゼンタ、二番卓に料理出してー」
「はーい」
「マスター、四番卓の御注文終わりました」
「ありがとオルキデ、これアタシが」
「僕が持って行きます」
「あ」
スカイが身を寄せて二晩めの、酒場が開店する夜の時間。雨季に入った空は雨を降らせ、客足を遠のかせる。ゆったりとした開店時間に店員として動くのは四人。
店主のアルギンと、忙しなく動く店員姉妹。そして、今だけ臨時の店員として働く黒い長髪の男が一人。
「お待たせしました、御注文の貝の酒蒸しで御座います」
「……お、おう」
「どうぞごゆるりとお楽しみくださいませ」
その男――ロベリア――が接客する卓は、小汚い酒場の筈なのに急に格式高くなったような錯覚に陥る。そつなく仕事をこなし深々と一礼する優雅さと彼の気品のせいで、接客料を別途取られるのではないかと思わせるほどだ。
彼が宮廷占術師、という役職に就いている男だというのは黙っている。ただ、マゼンタの縁故で一時的に預かっているのだ、と聞いて来た常連客には話した。ただ、『五番街に建つ若干古臭い酒場』という立ち位置のこの場所では些か手に余る存在だ。
「……なーんか……調子狂っちゃうなぁ……」
素直な感想を漏らしたのは、店主であるアルギンだった。自分の酒場が自分のものじゃなくなってしまったような、変な感じ。
カウンター席で酒を傾ける常連の老人は、その独白を聞いて肩を揺らし笑った。
「あの兄ちゃん、すっげぇ派手な刺青してんなぁ。なんだあれ、菊の花か」
「刺青……。うん、まぁ、自分の意思に反して入ってる奴だから、あんまり顔の話には触れないであげて」
「いやぁ、あれは見事な刺青だなぁ。顔も良いから迫力がすげえ」
「だからあんまり触れないでやってよ」
プロフェス・ヒュムネというものを深く知らない者達にとっては、ロベリアの葉緑斑は刺青とさして変わらない反応で迎え入れられる。自由国家を謳うこの国で、相手に深入りしない方がいい事も往々にしてあると学習している国民は馴染むのが早かった。
ロベリアの話を口止め、まではしなかった。彼は自分の身を守れない程の人物でも無いし、そもそもロベリアを狙って来る者がいたとしたらプロフェス・ヒュムネを奴隷としてしか見ていない輩だ。即刻お縄にした方が治安維持になる。
「アタシは覚悟してたつもりだったんだけど、接客が丁寧すぎて皆びっくりしてるよな」
「この店で店員やって馴染める男はアクエリアのあんちゃんだけだろうよ」
「……まぁ、うん、そうだろうね」
「ずーっと前にディルの旦那に給仕して貰った時は凄かったもんなぁ。なんで客の目の前に皿置くだけの仕事でその皿欠けるんだ? っていう。昔は乱暴すぎたよなぁ」
「アレねー。アレけっこうディルも気にしてたんだー。もう忘れてよ」
店員としてはロベリアの対極にいるようなディルは、今もまだ酒場に戻っていない。
騎士の警備が手薄になる穴埋めに、と連れて行かれた筈の彼だったが、その後の話をとんと聞かず連絡もない。同じ主君に仕えているアルギンとしては、その理由もなんとなく分かっているが口には出さない。
多分、王妃と共に城下外に出ているのだ。彼が、勲章を返上したとはいえ元聖騎士だから。その剣の腕に関して言えば、城仕えで無くなった今でも他国に轟く名声を持つ。
「ディルの旦那、早く戻ってくればいいなぁ」
「……うん」
給仕の仕事が一段落ついたマゼンタとロベリアは、店の片隅で微笑み合っている。仕事の僅かな空き時間に、それだけで終わる想い合う二人の心温まる時間。
アルギンも、ディルが在宅であればずっと傍に居た。今は、仲睦まじい二人が羨ましい。
「あの戦争がカタ付いてから、アタシ達、長く離れる事ってあんまり無いじゃん。でもこれが初めてって訳じゃない……筈、なんだけどね」
ずっと傍に居て、でも夫婦になってまだ七年程度しか経ってない。この七年、平穏なことばかりじゃなかったけれど。
それでも、傍目から見れば何の心配もない睦まじい夫婦である自信もある。
「ディルが傍にいない時は、ずっと不安になるんだ。本当にディルは無事なのか、とか、お腹空かせてないかな、とか。双子が居るからディルの事だけ考えずにいられるんだけど」
「っかー。また嬢ちゃんの惚気か。御馳走様」
「惚気だけど惚気じゃないよ!」
でも、自信の裏に隠れたアルギンの不安を、話さなければ誰も知らない。
「ディルが、アタシの知らない所で、見てない所で、居なくなってないよね、とか」
言葉にするのも恐ろしい不安を、知らない。
「どうしてか、ずっと。六年前から。ディルが居ない時は、その不安が消えないんだよ」
大切な人が、『また』いなくなる恐怖を。
アルギンはこれまでずっと、無用な不安だと思いながら抱き続けている。
スカイが酒場に来てから、何事も無く三日経った朝。雨季の合間の曇天の空は、なんとか雨を降らせずに済んでいる。
その日は呼んでも無い客人が来た。
「やっほー酒場のお嬢さん方!! 元気ぃ?」
まだ酒場の面々は朝食も終わらない時間だ。突然の来訪者に目玉焼きを乗せたパンを齧っていたアルカネットはそれを皿の上に落とし、早い時間に起きて来ていたユイルアルトは明後日の方向に飲んでいた紅茶を噴射した。
食事を終えていた双子は、隣に座っていたスカイが目を丸くする速さで客人の方向へと走っていた。双子とは逆隣りに座っていたアクエリアは、喧しい客人に嫌な顔を隠さない。
「しょるびっとー!」
「そるびっとー!!」
自称『双子と姉妹』、王国騎士団『花鳥風月』所属、『花』隊長ソルビット。
今日は緋色の裾が広がる華やかなドレスに身を包んでいた。休暇中の舞台役者かと思うほどの存在感だ。
「あーらどこの美人さんと思ったらウィリアにバルト! おはよう! 今日もかわいい!」
「そるびっともかわいいよぉ!」
「かわいいー!」
姉のように慕うソルビットに抱き着く双子と、そんな双子にやや締まりのない顔を向けながらも持ち前の美貌は崩れていないソルビット。その場で戯れ始める姿は、血が繋がっていないのが不思議に思える仲の良さを表していた。
喧しい声に釣られてくるように、奥からよたよたと覚束ない足取りで出てくる人物の姿も見える。
「……うっさい」
「おはよアルギン。また前より朝弱くなってない? そんなんで大丈夫? 生きていける?」
「お前さんよりは長生きするつもりだから宜しくな」
肩に毛布を掛けて、やや隈の残る目元は虚ろ。曲がり気味の腰と、踵を踏んだ靴。疲れ切ったアルギンが、客席のひとつに腰掛けた。
ぱっと見は老婆のようだ。昨晩からいきなり二十は年齢を重ねたような酒場店主が、恨みがましい視線をソルビットに向ける。向けられた方も向けられた方で、別にいつものことだと気にしない。
「そもそも、何の用だ。こんな早い時間から来るなんて聞いてねぇぞ」
「あら嫌だ、アルギンってば。吉報と凶報持って来たってのに、そんな事いうなら凶報から伝えちゃうんだから」
「凶報?」
アルギンが反応したと同時、双子に「お部屋で開けてねー」と言いながら綺麗な包み紙で包まれた箱を双子に渡すソルビット。双子は喜色一面で、それを手に自室がある二階に続く階段を上る。
それが、双子を遠ざける一番の方法だと分かっている。誰も、双子を引き留めもしない。
「件の奴隷商人達の居場所の見当がついたんだよ。聞いて驚け、九番街だった」
「は!?」
途端にアルギンの表情が変わる。
城下九番街、というと、貴族や騎士家系の者達が屋敷を構える場所だ。そんな場所に他所から来たならず者が潜伏、となると。
「どうもバルオード卿が手を引いたらしいのよね。まだ泳がせてる最中だけど、王妃殿下やアールヴァリンが戻り次第尋問開始予定。久し振りに団長がキレてたよ」
「そりゃ……アイツだってキレるだろ……。バルオード卿? って、誰だっけ? まぁそいつが九番街に呼び寄せてたってなったら爵位剥奪? 領地も接収?」
「バルオード卿。よりにもよって陛下の元御学友で、商売で成り上がった金で買った爵位。商売の繋がりで奴隷商人と知り合って、廓にも出入りしてたらしいねぇ」
「最悪だな」
国の暗部が、こんな寂びれた酒場の一階で露わになる。聞いたアルカネットは眉間に皺が寄ったし、廓の話で記憶が蘇ったスカイは震える肩をアクエリアに抱き留められた。
この話に参加するべきではない、と感じたのかユイルアルトも席を立とうとする。しかし一階から離れようとするのを、ソルビットの視線が許さなかった。まだ寝ているジャスミンは不可抗力といえ、ユイルアルトもいずれはアルギンを通さず直接城に仕えるようになる身分。聞かずにいられる立場にない。
「それで、ここからが吉報。王妃殿下達御一行、昼過ぎに城下に戻って来るんだって」
「やっと?」
「今晩からバルオード卿の捕縛、尋問。同時に九番街の屋敷を包囲、捕り物……って、団長は予定を組んでたよ」
「予定通りに行くと良いけどな……。人手は足りてんの?」
「本当に今日の昼過ぎまでに皆帰って来てくれるなら、ね。ディルも帰って来るよ。予定通りなら今日任務完了の筈だけど」
「ディルも!!?」
アルギンの表情はまた変化する。花が咲いたような明るい表情と声。それまで悪かった顔色も吹き飛んで、笑みさえ浮かんでいる。
最愛の夫がやっと帰って来る。傍に居てくれる。その喜びは結婚する前から何も変わっていない。
アルギンの声に喜色が混じり始めた時、二階から子供達が降りてくる。熊を模した掌に収まる程に小さなぬいぐるみを持っている。それがソルビットから渡されたお土産なのだろう。双子の名前に因んだ色違いだ。
「ありがとーそるびっとー!」
「かわいいー! ありがとー!」
「大事にしてねぇ? 二人の事を思って空き時間に作ったんだよ」
和やかな空気は、こちらに有利な情報ばかりが集まっているから。九番街に潜んでいれば、この五番街までは遠くて手は出しにくいだろう。本当に、十番街の孤児院を急襲するつもりだったのかも知れない。
この酒場が危険な目に遭わずに済むまま終わるだろう、とアルギンの胸中に安堵が過る。うまく行けば、このまま今日中にはスカイの身も安全に城に届けられる。
後は騎士に任せていればいい。それで、全て終わる筈だ。
「ねぇねぇ、そるびっと。きょう、あそべる?」
「あそぼーよぉ」
双子のお誘いは、ソルビットが酒場に来ていればいつも聞ける。甘えるような声は、幼児特有の上がり調子。
ソルビットはこの声に弱い。産まれた時から知っている子供が、自分を慕う姿に鼻の下が伸びそうになっていた。
「えええ? 二人ともそんなにあたしと遊びたいのぉお? 仕方ないねぇー、ソルちゃんこれでも忙しいんだよぉー?」
「「だめぇ?」」
「いいよぉ!!」
かつては他国を戦禍に沈め、或いはその逆を成した事さえあるソルビットの美貌が、今、崩れ去る。
自他ともに認める傾国の美女が、ほんの小さな女児にやり込められているのをその場にいた全員が生温い視線で見ている。
けれどそんな事おかまいなしに喜んだのは双子だった。にこにこの笑みを浮かべて両手を挙げ、ソルビットと遊べる喜びに狂喜乱舞している。
「やったぁー!」
「やった、やった!」
「何して遊ぶ? お絵描き? 御本読む? お菓子作る?」
「えー」
「やだー」
ソルビットが遊んでくれるのはいいとしても、その内容に不満があるらしい。輝くばかりの笑顔は突如曇った。
「おそとがいいー」
「こうえんー」
「えっ……」
これまで、ずっと家である酒場の中に閉じこもってばかりだったのだ。対する相手が奴隷商なだけあって、外に出したくないとアルギンも考えていた。それを今まで律義に守っていただけ、この年齢の子供としては聞き訳が良い。
想定内ではあるにしろ、外を強請られてはソルビットの独断ではどうしようもない。判断を求める為に、母親であるアルギンに視線を送るが、送られた側も悩むばかりだ。
「……まだ話は解決してねぇしな……。今夜にも終わるったって、その今夜はまだ来てない訳で……王妃殿下もディルも帰って来てないから、不安しか無いんだけど……」
「だよねぇ。あたしだって、二人が外で遊ぶのはいい事だって思うけど」
状況が悪い。
けれど双子は我慢の限界で、室内遊びでは持て余し気味な体力が有り余っている。大人が悩んで相談し合っている間に、双子は扉の所まで行ってしまった。
「おそとがいい!!」
「おそとであそびたい!!」
「うーん……」
公園は近くにあって、双子が自分達でソルビットとも待ち合わせするような場所だ。子供の足でもすぐ行ける。
そんな近場なら、とアルギンが了承したい気持ちが、今は危険と警鐘を鳴らす自分自身と鬩ぎ合う。
双子がばんばんと扉を叩いて、犬猫のような強請り方をし始めた。扉に取りつけてある来客を示す鐘が小刻みにガランガランと何度も鳴った。
「ああ、はいはい!! 仕方ないな、ちょっとだけだよ!? ソルビットだけじゃ不安だからママも行く!」
「わーい」
「わーい」
「お昼までには帰るからね? パパが帰って来るらしいからお出迎えしたいしお昼も食べないと」
双子の粘り勝ちだ。
双子を二人で見ていれば、不安もきっと薄らぐし、危ない輩が寄って来てもすぐに分かるだろう。アルギンには少しの油断があった。
肩に羽織っていた毛布を椅子に畳んで置く間に、双子は扉を勝手に開けて外に出てしまう。ほんの僅かの時間を、ソルビットはアルギンを待っていた。
「お前さんも食べてくだろ、昼。何がいい?」
「作ってくれんの? やった、アルギン愛してる」
「はいはい」
夫さえなかなか口にしない愛の言葉を軽く聞き流すアルギン。
女性二人が、扉に手を掛ける。鐘が低い音を鳴らして、アルギンとソルビットが扉の下を潜った。
見慣れた酒場の前の道には、通行人が一人もいなかった。
そう、一人も。
「――あれ」
出入り口を潜った先で、そこで待っているはずの双子の姿が無い。
右、左、正面。どこを見渡しても、双子が居ない。家の影に隠れている気配すらない。
「アルギン。……ねぇ、ちょっと。ねぇ、アルギン!」
「うそ、だろ」
二人揃うと必ず聞こえる楽しげに笑う声が聞こえない。
両親の見た目を受け継いで来た双子の姿が見えない。
春の日を思い出す日だまりのような香りがしない。
消えた。
少し離れた曲がり角の手前に、先程ソルビットが双子に送った藤色のぬいぐるみだけが置き去られていた。




