17.彼女が遺したもの
「っ、う……!?」
惨状にユイルアルトが覆いの上から口を塞ぐ。吐き気とおぞましさに、鳥肌が全身に立っている。
床一面に、と言わずとも斑に赤茶に染まる世界。これが全て、患者のものだとしたら手遅れかも知れない。
多量だ。視界に移る全てが血だとして、デナスは何をやっていたのか。
隣で患者達に視線を向けているリエラの手が、震えている。
「……こんなの、」
リエラすら、言葉が出て来ない。
デナスは自分から言い出しておいて、患者の世話にすら手が回っていないのだ。患者は三人だけとはいえ掃除も何もかも、一人で出来る訳がないのだ。
でもデナスには荷が重いと分かっていて、何もしなかった自分達に責が無い訳じゃない。
この部屋に広がる赤は、自分達の罪だった。
「……治療、薬、ああ、どうしますか。何を処方すればいいですか。血を止める、でも、この血はどっちから」
吐血か、喀血か。胃からなのか、気道からか。
出血には変わりないのに、出す薬はそれで変わって来る。
リエラが頭を抱える。ぶつぶつと自分の口の中だけで何かを呟きながら、医師としての思考の渦に呑み込まれていく。
冷静にならなければいけない。落ち着かないといけない。でも。
自分達が落ち着くまでを、患者は待ってくれるだろうか。
「――ぅっ、ぐ」
「わぁ!?」
外からソルビットの悲鳴が聞こえた。咄嗟にそちらの方を向くと、ソルビットの着ている服が鮮血に汚れている。
デナスの口から血が垂れていた――発症している。喀血らしく、咳き込みつつ身を屈め、血に赤い斑模様を作っていく。
ソルビットは即座に血の付いた服を脱ぎ去る。胸部のみを覆う下着が露わになるが、躊躇っている時間は無い。アールヴァリンもフィヴィエルも、緊急事態に走り寄っていた。
このままでは、ソルビットさえ罹患してしまうかも知れない。
「――ユイルアルトさん」
何かが吹っ切れた様子のリエラが、目だけを大きく開いてユイルアルトに顔を向けた。
幽鬼のような、というと失礼かもしれない。けれどその時のリエラは理性を失っているようだった。
「ジージー。トリエルベショ。クロベニヨン。モノオモイ。ニーイックス。ルチタービ。オーツガイ。ベリン草」
何かの名前を一息に捲し立てる、その瞳がユイルアルトをまっすぐに見ていた。
この名前は、多分ソルビットが効いても何も思い至るものが無かっただろう。ただ、ユイルアルトは違った。
並べられたその名前を聞くだけで、喉奥で、ごくりと音が鳴る。
「使いますか」
何に、と聞く時間も許されない。その瞳の色は正気ではない。
「使います」
でも、ユイルアルトも迷わなかった。
即答に近いその言葉がリエラに届くと同時に、彼女は出口に向かって走り出した。ソルビットも、デナスも無視して。
「っへ!? ちょ、リエラ様!? イル!? どこ行くの!?」
何事か分からない様子のソルビットの叫びには。
「薬が必要なんです!!」
そう怒鳴るように返事した。
持って来た薬ではない、もっと別の薬だ。先程リエラが口にした名前も、薬草のものばかりだった。
でもこの国では扱いが悪い。
大半が、毒草とされ禁忌認定されているものの名前だった。しかし効能はユイルアルトもよく知っている。
先程の名前を持つ毒草は、酒場の部屋でも育てていた。そして、その中の数種類を使った薬は、アルギン経由で騎士に届いている。
「リエラさんっ、使うとはいいましたが、っ。材料としてお持ちなんですか!?」
「わかりません!!」
「はぁ!?」
いきなり重症患者の隔離小屋を飛び出したかと思えば、わからないと言われて耳を疑う。今の声はリエラもユイルアルトも、この出張で出した一番大きな声だった。
リエラは走りながらも続ける。
「この村は、私とっ、私の母の、出身地なんですっ!」
「……」
「母が使っていたのは、その名を持つ薬草で、っ。私の父は、それを知ると、金目当てに、母を魔女として売りましたっ! 命からがら逃げだした私達は、城下に辿り着いて、命を、助けて貰ったっ!」
「それが、酒場という……っ、訳、ですかっ!?」
リエラが大きく頷いた。
話が繋がった。そして、ユイルアルトの脳裏に浮かぶのは、自分が師として尊敬の念を抱いている酒場の老婆だ。
いつも一人で、酒場で所在なげに寂しそうにしていた彼女。でも、アルギンが産んだ双子の成長に笑顔を浮かべていた。
話し相手はユイルアルト一人だと言っていたあの老医師、リシュー。
「母が育てていた薬草の菜園が、森の中にあるんですっ! 何年も、何十年も前のっ、私達が居なくなってどうなったか分からないっ、でも! もうあの子達に頼るしかない!!」
切れ切れの息で、獣道を駆ける。やっと辿り着いた小屋の扉を勢いよく開いたら、ジャスミンが驚いた顔をしていた。
「へ!? な、何!? どうしたんです、何かあったんですか!?」
「ジャス、っ、ミン、さんっ。一緒に、来て、ください。手が、足りない」
「え。手が足りないって……でも、ここを離れる訳には」
「緊急なんです!!」
ジャスミンには事態が掴めない――のだが、察しは付いている。
転がり込むように小屋に入ったユイルアルトは自分の荷の中を漁った。荷物入れを逆さにする勢いで出したのは、幾つかの薬包。それぞれ、酒場の医師二人にしか分からないような印が書かれている。
「乾燥したレイアンガとベリン草、クロベニヨンとニーイックスなら持って来ています!」
「足りない!」
「ちょ、イル! 出していいの!?」
「出さなきゃ!!」
――出さなきゃ、患者が死ぬ。
確かにこの材料は国が定める禁忌のもので、見ている相手は宮廷医師だ。でも、状況が状況だ。これを使わないと間に合わない程、患者の容体が悪い。
ユイルアルトの言いたい事は、隠そうともしない必死さで伝わった。ここまで親友が焦っている所を見るのは初めての事で、ジャスミンも事態を重く見る。
「……私は、何をすればいいんですか?」
碌に状況報告もなく、一緒に来いと言われても、その程度の説明は欲しかった。
ちらりと視線を患者達に移すが、彼等はじっと三人を見ていた。それは別に、責める為ではなく。
「……行ってくれ」
一番最初にそう言ってくれたのは、子供が重症患者になってしまった男性で。
「薬も、飲んだんだ。俺達は寝てるから。寝てるから、その間、何が起こったかなんて、俺達には気付きようがないよ」
男性の言葉に、それまで目を開いていた患者が一斉に目を閉じ、顔を背ける。
それを協力的と捉えていいのか、それとも医者の目から逃げる為の行為と考えるべきか迷った。患者と言うものは、医者の目が無ければ普段の生活に戻ろうとする者ばかりだ。
ジャスミンは、特にそれを分かっている。好き勝手するくせに、都合が悪ければ医者のせいにする者がいることを。協力的な態度と信じたくても、自分の中の別の心が否定する。
「……行けばいいじゃん」
まだ迷う背中を押すように、やっと追いついて来たソルビットの声が聞こえた。
彼女はデナスの首根っこを掴んで一緒に来たようだった。罹患しているせいか、それともソルビットに『お説教』されたせいか、デナスに覇気は無い。
「ここはあたしが残っとくからさ。何かあった時にはどうすればいい?」
「あ……」
ソルビットが手を離したら、デナスの体は力なく床に落ちる。ぐほ、ごほ、と咳をする音が罹患者のそれと同じだ。
咳き込む宮廷医師を見たジャスミンは、いかに普段は温和といえど侮蔑の視線を隠し切れない。何があったかを理解して、尚且つデナスを見下した。
「……こちらにある薬を。ですが朝の分は皆さんに既に飲んでいただいているので、他の方々は私達が戻るまで大丈夫です。ソルビットさん、服が汚れています。着替えて、うがいをした後様子を見ていてください。戻って来たら、薬を処方しますので」
ジャスミンの侮蔑の視線は、ソルビットやデナスの隣を通り過ぎる寸前まで逸らされなかった。
医者三人で小屋を出て行く三人の最後尾、ジャスミンがデナスに去り際に吐き捨てた言葉を、その場にいた全員が聞いた。
「――医者の癖に覆いもつけないで自己管理も出来ずに罹患、って。恥ずかしくないんですか。同じ医者を名乗らないでくださいよ、私達が同類の馬鹿だって思われたくないです」
瞳孔が開いたその顔は、上半分しか見えてないのに怒りに満ちているのが分かる。
温和な彼女だからこそ、本気で怒らせたら怖いのだ。冷え切った言葉の端々に見える氷の棘に、患者達までもが身震いする。
小屋を出た三人は、視線を合わせて頷きあった。先頭を走るのはリエラで、後をジャスミンとユイルアルトが追う。体力に自信のないユイルアルトは、やや引き離され気味だった。
何も知らないジャスミンに説明するように、リエラが声を張る。
「この先にっ、母が手を加えていた菜園があります! そこに行けば、まだ薬の材料が残っているかも!」
「母って、リシューさんですかっ」
「――何故、知って……」
リエラの言葉が止まるが、足は止まらない。ユイルアルトが口にしたその名前が、リエラにとって意味のある名前だと気付いていた。
城に関わった酒場なんて、そう幾つもあるとは思えない。そして、酒場に医術を身に着けた女性が何人もいるなんて有り得ない。
ユイルアルトは知っていた。五番街の酒場には、医術を収めた女性が居ることを。
そして。
「とっても、素敵な……お医者様ですもの。……でしたもの、って、言った方が正しいのでしょうか」
ジャスミンも、その名前は聞いている。
その人物が、ユイルアルトにとってどんな人物かも知っている。
でも、一度として話をした事がなく、厳密には見た事も無い。
ユイルアルトしか見えない、話が出来ない存在なのだ。
「誰かの口から、母の名前を聞くのは――久し振りです」
リエラの走る速度が弱まった。それは話に気を取られているせいでもあるが、進む先の雑草が多くなっているから。
ここ暫く、誰も進んだことの無いような草むら。獣道すらない草原。でも、ここを進むしかない。
「不思議です。貴女方を見ていると、これは母がくれた出逢いのような気がするんです。母と、私が育てていた禁忌認定されている薬草を、扱える酒場の医師と出逢えるなんて」
アルギン経由で渡した薬を見た時点で、リエラは気付いていたかも知れない。
あそこまで効果的な薬効を示せるのは、禁忌の薬草しか有り得ないと。
薬効が確かでも、使い方を誤れば人に害を齎す。故に禁忌とされた植物。
今、その禁忌に近付くためには道の無い道を歩くしかない。厳密には、かつて彼女と母親が薬草の世話の為に歩いたであろう道。
「不思議ですね。もう、母はとっくの昔に亡くなっているというのに」
酒場からの医者二人が、その言葉に俯いた。
そう。リシューは。
――既に死んでいるのだ。