11.意識
「ふぃっ、フィヴィエルさん!! 本当にっ、だいじょうぶなんですか!?」
――フィヴィエルとジャスミンの身を心配するユイルアルトが入浴に向かっている時。
確かに、心配されるだけの状況に陥っているジャスミンは居た。
「大丈夫です。舌を噛まないでくださいね」
ジャスミンはフィヴィエルの胸元に向き合う形で抱き留められている。腰を下ろしているのは鞍なのだが、一人乗り用でしかないそれに尻を半分だけ置いているような形。フィヴィエルが腕の力を抜けば、ジャスミンは落馬して死んでしまうかも知れない。
フィヴィエルの胸元も、腕も、固い。騎士服の下の防具のせいらしいが、そのせいもあり尻も肩も腰も痛くてたまらない。
二人を乗せたのは黒馬のネリア。もう一頭の栗毛馬であるジョマよりは温厚だとは言われたが、地を蹴る音も道を走る速度も到底温厚とは思えない。
「貴女方を信頼して、もうひとつの村に行くんですよ。……それほどまでに、必要なものなのだと信じています」
「それはっ、たしかに、必要ですけれどっ」
「こうして馬を出した今更、疑う訳ではないんですけれど……。何に使うんですか、その、布って」
フィヴィエルの疑問は尤もで、何故アールヴァリンが聞かなかったか不思議な程だった。
悪路でもないのに馬の背中で揺さぶられる視界の中、必死に声を出すジャスミン。
「口の、っ。覆いが!! 必要なんです!!」
「――覆い? 砂塵避けですか?」
「違いますっ! もっと、目に見えないようなものの、為に!!」
志のしっかりした医者であれば、何の為に必要なのか誰だって答えられるだろう。
口から、そして鼻から入る病魔を防ぐには覆いが一番効果的だ。その為には、布生地が必要になる。それも少量では意味が無く、人数分、そして替えの分まで用意しなくてはならない。
こうも突然な依頼では城下で用意が出来なかった。ならば、と道中に賭ける最後の希望は今しか無い。
「目に、見えない? 見えないものの為に必要なものなのですか?」
「病魔は、病人の体で自然発生するものばかりではないのです。病がうつるのは、病人から排出された病の元があるからとされています。物体を媒介、或いは空気で感染する病は覆いで防げる場合が多いんです」
勿論、予防としてもそれだけでは足りない。衛生管理がどこまで村で可能かも分からない。
でもだからこそ、覆いくらいは無いと医者として心許ないのだ。
自分達が病魔に罹る訳には行かない。勿論、他の面々や村人にもつけて貰わないと困る。
「……布を調達して、それから作るつもりなんですか」
「作り方は簡単です。イルも、私も、針と糸はいつも持っていますから」
あとは、寝る間も惜しんで作業が出来るかという話なのだが。
それでも、やらないと騎士の誰かが罹患する恐れがある、となれば。
「宮廷医師の手伝いの名目で来てるんです、やれる事はしたいから!」
馬が地を蹴る蹄の音よりも大きく、フィヴィエルに聞こえるように声を出す。
「……それは、同感です。僕達も貴女方医師の護衛の為にここまで来た。可能な限り、貴女方の要望を聞き届けたい」
ぐっと更にジャスミンを抱き寄せる、力の籠る騎士の腕。
ぐえ、と蛙が潰れたような声を出しかけて、必死に呑み込む。無様な姿を見せたくなかった。
「不思議ですね。こんな事になって初めてお会いする貴女方の話は、どれも信用に足るものだと思わせられる。それは勿論貴女方が、アルギン様やソルビット様と懇意になさってると知っているせいもあるでしょうけれど」
更に速度を速める、フィヴィエルの手綱捌きに振り落とされないようにしながらもジャスミンはその静かな声を聞く。
大きくもない声は蹄の音に掻き消される事も無く、耳に届いて。
「僕にはこれが、以前から確約された縁のように思えてならないんです」
そんな縁があるのなら、自分も信じてみたい――と。
ジャスミンは口に出しかけるも、馬上の揺れに舌を噛みかねないと判断して口を噤んだ。
たった二人の逃避行のようにも思える、互いしかいない夜闇の道程。
果たして、二人きりの逃避行は長くは続かない。目的地に着けば、フィヴィエルは馬を停めて下りるだけ。
ぶるる、と鼻を鳴らすネリアを近くの木に繋いで、二人は改めて点在する民家や土地の様子に視線を向ける。
先程の村では、この村の中にあるような畑は見なかった。だが食べられる農産物を主な産物としているからには、別の場所に畑を持っているのだろう。この村の中の畑は、自分達で消費する分だけを育てているのかも知れない。
足元の土を踏むたびに、城下とは違う雰囲気を否が応にも感じる。故郷とも似ていない、山間部の村の空気。既に就寝時間だろう、灯りが殆ど無い。
「……もう皆さん寝ていらっしゃるのですかね……?」
「寝ていたら、申し訳ないのですが起きて頂く事になりますね。ジャスミンさんは僕の後ろへ」
先んじて道を進む、フィヴィエルの広い背中を追う。ジャスミンは大抵夜が活動時間なので、夜目は利いた。
どの家も灯りがなさそうに思える。先程の村では中央に火が焚かれていたがここでも同じ生活様式らしく、炭火さえ見えない灰が中央に広がっていた。
「起きて、って……誰を起こすんですか?」
「村長さんですね。まだ起きているかも知れませんが」
暗い村の中を、フィヴィエルは躊躇わず歩く。足を下ろした先が、確実に地上である事を知っているかのように。
でもこの村に始めてくるジャスミンはそうではない。何処が地面で何処に奈落があるかも分からないのだ。おっかなびっくり歩く膝が震えている。
そうこうしているうちに、フィヴィエルは目的の家まで到着したらしい。家、というには周囲のそれより大きめで、戸を分かりやすくガタガタ鳴らすとすぐに老いた男性が出てくれた。
そこで始まるのは――フィヴィエルと男性との応酬。
「フィ、フィヴィエル様じゃありませんか!! 何故このような時間に!」
「お久し振りです、村長さん。御無礼を承知で訪問させて頂きました。実は少し事情がありまして」
「おおい、皆! フィヴィエル様がお越しだぞぉ!!」
「……そのように大事にして欲しくなかったのですが」
「ええ、……ああ、失礼しました。ですがこの村の恩人ともなれば村総出でお出迎えせねばならんと思いまして」
「事情が事情なので、出来ればお静かに」
「事情? 事情とは……」
そこでジャスミンの姿に気付かれた。ちらりと視線を送っては、見てはいけないものを見たかのように視線を逸らす。
村長と呼ばれた男は、蓄えた髭を撫でながら目を細めていた。
「……ははあ。そうですか、そうだったのですか。構いませんよ、この家にも空き部屋はございます。一泊と言わず何ならそのままお住まいになられても」
「違います」
「お気になさらず。私共も年ですからな、耳が遠いですし寝入った時には何も聞こえませんで」
「だから、違います」
二人のことを『そういう関係』だと誤解した、フィヴィエルの会話相手は一人でうむうむと頷いていた。何かを理解した様子だったが、その実何も理解されてない。
これで本当にうまくいくのか、と疑問を抱いていたジャスミンだが、フィヴィエルは気にせず話を切り出す。
「今回は、王命です」
「……」
「なので、僕が……いえ、そちらに居る方が必要としているものを用立てて頂きたいのです。代金は、ここに」
フィヴィエルが差し出した小さな革袋。その中身を改めた村長が漏らした引き攣った声に驚きを隠さない。
「こんなに、頂けません」
「王命だと、理解して頂けましたか? その代金ほどに重要な事があるんです」
「そこまで重要な事とは、一体……」
「今は、言えないんですけれど」
村長が事の重大さを理解して落ち着いた頃合いを見計らって、フィヴィエルが手招きでジャスミンを近くへ来させる。
頼むべき物品を伝えるために来た身だ。何が必要かは、医者でないと分からない。
「布を、融通していただけませんか」
「ぬ、布?」
「出来れば粗が少なく、しっかりと目の詰まったものが良いです。あと、少し引っ張っても切れない、長さのある紐もお願いできれば」
「布、ですか。この村は確かに綿を育ててはおりますが……少々お待ちいただけますか」
そう言って村長は奥へと引っ込んでいく。手にした革袋は返すつもりがないらしく、一緒に。
ジャスミンは些かの不安を覚えた。奥に行ったまま出てこない、なんて可能性が無いとは思えなかったから。
不安そうにフィヴィエルに視線を向けると、彼も苦笑を浮かべた。
「少し待て、と言われてるんですから……そんなに不安そうな顔をしなくても良いと思いますよ」
「か、顔に出てました?」
「出てますね。それでなくとも、不安というのは肌でも伝わるのですよ。大丈夫です、何かあっても僕がなんとかしますから」
こんな暗闇で分かる程酷い顔をしていた可能性に、ジャスミンが思わず掌で顔を覆う。
大丈夫だという彼の声が優しくて、それでなくとも自分を抱き締める力強い腕にときめかなかったとは言わない。そんな彼に見られている自分の顔は、どんなものだったのだろうと気恥ずかしさが勝ってしまった。
「……フィヴィエルさんって、この辺りの方々から人気高いですよね」
「そう、ですかね? 賊から村を助けたのは僕だけじゃないですから、なんとも言えないですね」
「高いですよ。私だけでこの村を訪れたって、時間を理由に対応されないに決まってるんです。それを丁寧に対応していただけるだけ、凄いと思います」
顔を隠したまま、話題を彼にすり替えた。そうでもしないと、自分の話だけされている現状が辛かった。
村長はまだ来る様子が無い。住居の中を覗くのは不調法が過ぎると思って、動けない。
恥ずかしいと思って変えた話題も、その魂胆を見透かされているのだけど。
「でも、僕は基本的に体を使うことしか出来ませんよ。貴女方は人を救う事が出来る医者じゃないですか、そちらの方が余程凄いと思いますけどね」
「…………」
誉め言葉が耳から入って、頬に熱を宿す。
話題も意識も変えたかったのに、今の状況じゃ逃げられない。住居の中から足音がして、手元を照らす小さな灯りと大きな板に巻きつけられた布地と紐を持った村長が再び現れるまでそのままだった。
持って来られた布地は立てたらジャスミンの腰ほどもある細い板に巻きつけられ、その数四枚分。色に僅かな違いはあれど、質の良い目の詰まった厚手の布だった。紐の質も、太すぎず細すぎずでジャスミンの希望にぴったりだった。
馬ではそんなに持って行けないということで、二枚分だけを受け取る。残りはこれからも必要になる、と王命の帰りに寄って受け取る、と話を付けて村長宅を後にした二人。
手綱を括っていた馬の元へ帰ると、それまで眠っていたネリアは目を覚まして二人を迎えてくれた。鼻先をフィヴィエルに擦り寄せたかと思うと、同じことをジャスミンにもする。随分人慣れした馬だった。
「……お待たせ」
道中よりも遥かに短い滞在だったが、これで皆が居る村まで戻れる。
フィヴィエルが先に馬に乗ると、手を引いてジャスミンを乗せてくれる。再び走り出す速度は、行き程の速度は無かった。
「荷物が落ちないよう、少し遅めに行きますね」
「……お願いします」
行きは振り落とされそうになる速度にそれどころではなかったが、帰りはどうしても意識してしまう。
自分を軽々と抱き留める腕と、普通では有り得ない程に近い距離。少し頼りなさげな顔付きではあるものの、その実王子騎士達と行動を共に出来るほどに認められた騎士としての能力。
村を救った、彼等にとっての英雄の一人。
ここ数年、一番近しい異性が酒場の面々というのもあり、異性との新鮮な関わりにジャスミンの心臓の鼓動が跳ねあがる。
「……」
もう舌を噛む心配は無いというのに、ジャスミンは何を喋る事も出来なくなってしまっていた。
無言で進む二人と一頭の視界の向こうで――草むらが音を立てる。
それは不吉な音として、ネリアの体が大きく反応した。




