8.振り払った後悔
「……はー」
夜になり、村の中心には火が焚かれた。その灯りが入る室内、広い湯船の中、ジャスミンは気の抜けた溜息を吐く。
屋根のある建物のうち、一つは村の公衆浴場らしい。男女分かれたそこで、宮廷医師一行は体を清めた。村にとっての恩人であるフィヴィエルが居る事で、普段であればただの湯しか張られないそこに薬効のある花が浮かんでいる。
「まだ城出てあんまり経ってないってのに、久し振りにお湯使ってる感じ。アルセン出身者はやっぱり、お風呂入らないと変な感じがするよねぇ」
湯船の外で体を洗っているのはソルビットだ。豊満な肢体を、ジャスミンが持参した石鹼で泡に包んでいる。髪も肌も艶やかな彼女の体は、泡を充分に堪能した暫くの後に湯で流される。柔らかそうといえど筋肉もしっかり付いており眩く見え、思わずジャスミンが目許を手で覆った。
綺麗なソルビットでも、服の下に隠れた傷は痛々しい形をしている。変色していたり、肉が盛り上がっていたり。そういう点で見ても、彼女は女騎士なのだと思い知らされる。
「……別に、アルセン国出身じゃなくてもお風呂は入るでしょう?」
「ジャス、そう思う? 一度アルセンを出てごらんよ、この国みたいに水源が豊富な国ってあんまりないんだからね。飲み水にも難儀する所だってあるんだから」
「この国以上に恵まれた土地は少ないですからね。だからこそ戦火に包まれる事もあるのですが」
ジャスミンと同じく、湯船に浸かっているリエラが湯の温度に癒されながらソルビットの言葉に付け加える。湯船の中にソルビットが入れば、三人分の体積に耐えられない湯船は湯を溢れさせた。
「折角だから、イルも一緒に入れば良かったのに」
ソルビットは湯船に背中を預けながら、天井を見つつ呟いた。
女湯の中に、一人足りない。その一人は「後からお湯をいただきます」とつれない返事をして離れていった。
村の中だから、特別危険な事は無い筈。だから、後からという言葉を信じて先に三人で入浴している。
「……イルは、しょうがないですよ。私だってソルビットさんの押しの強さがなければイルと一緒に入っ、ぶぇ」
「もー! そんな悲しい事言うなんてソルちゃん泣いちゃうぞ!! あたしの涙は一粒ごとに価値が付くんだからね!!」
素直な心境を吐露すると、即座にソルビットからの攻撃が待っている。具体的には、抱き着かれて湯船に押し付けられる。
涙にさえ価値がある、なんて、ソルビットが言うと冗談に聞こえない。実際冗談ではないのだろう。けれどそういう言葉を軽く、明るく言う所に信憑性がないというか。
ばしゃばしゃとじゃれ合う二人を見ながら、リエラがころころと落ち着いた表情で笑った。
「仲が良いのは素敵な事ですね。アルギン様がソルビット様の交友関係を心配していらしてましたが、大丈夫だとお伝え出来そうです」
「はぁ!? ちょっとリエラ様、アルギンに変な事吹き込まないでよねー!」
こんな場所でも大騒ぎなソルビット。
ジャスミンは流されるままに、煩い入浴時間をそれなりに愉しんだ。
「……」
一方、ユイルアルトは。
村人達から周囲の話を聞き、川の側まで来ていた。浅瀬で安全と聞いた河原の側にはちょっとした草むらがある。
ここまでは村の灯りは届かない。代わりに誰も居ない。不審者も、獣の類も。
スープの材料を得るために草むらを漁りに来たのではない。ただ、ひとりになる時間が欲しかった。賑やかなのは嫌いじゃないが、そればかりでは少し疲れてしまうから。
河原に座り込んで、川の流れを見ていた。濡れないし、まだそこまで寒くない宵。もう少し一人の時間を堪能したら帰る、そのつもりだった。
「――散歩か?」
やっと皆から離れられたというのに、足音と声はユイルアルトを逃がしてくれない。
は、と溜息を吐いた。振り返らなくても、この声は王子騎士アールヴァリンだと分かる。
声の主は近くまで歩いて来て、でも絶妙に距離を開けて座った。ユイルアルトが離れずに済んで、でも声は聞き取りにくくない程度に。
「ソルビット達はもう風呂に向かったと聞いたが、君は気分じゃなかったかな」
「……散歩……というか。疲れただけです。お風呂は、後でいただきます」
「そうか。俺達は、どうも自分達の尺度で行動してしまう。気を付けたつもりだが、随分無理をさせたようだ」
「それは……別に。緊急事態って分かってるつもりですし」
まともな休憩も無しに『気を付けたつもり』とは、この王子も相当鈍感らしい。ユイルアルトは膝を抱えて、彼の苦笑する声を聞いている。
王子の声は、嫌いじゃない。青年の爽やかさそのままに、芯のある力強さを持つ声だ。この声をどこかで聞いた事もあるような気がして、拙い記憶を探る。
こんな声、聞いたことがあるなら簡単に忘れそうもないのに。
「騎士達だけだったら、馬車なんて使わずに馬だけで昼夜問わず走るんだがな。……いつもの基準がそれだから、ソルビットには気を遣えって言われるんだ」
「………」
「色々注文付けてくる奴と違って、君達はソルビットと一緒になって耐えてるから……つい、もう少し……が続いた。せめて今晩だけでも、ゆっくりと休んでほしい」
「アールヴァリン様は」
彼の名を声に出す、この唇が動かない。
王子の名を呼ぶ、それ自体に慣れている訳が無い。なのに、唇も声帯も違和を隠さない。他にもっと、彼を呼ぶに相応しい名詞があるとでも言いたいかのように。
「――随分、ソルビットさんの事を好いてらっしゃるのですね」
「は」
瞬間、アールヴァリンの言葉が止まる。
「……」
「…………」
「……」
「……っあ、は、な、何を言っ……、な、何を、っえ、な、何!?」
それで隠そうとしているつもりだろうか。否定もはぐらかしも出来ない癖に、彼の声はまともに単語にさえならない声だけ漏らしている。
ユイルアルトの視線は川だけ見ながら、口は溜息を逃がす。
「ソルビットさんの事、ソル、って……呼んでましたよね」
「……え。……聞こえて、たのか」
「ソルビットさん、自分の事そう呼ぶのは厄介な人だけって言ってて。……それでアールヴァリン様、ソルビットさんへの好意を隠しきれてないです」
「か、隠し? 切れて? ない? ど、どのあたりが」
「気付いてないんですか」
さっきからソルビットの名前だけ、何回呼んだと思っているのだ。呼ばれていないフィヴィエルの立場がないだろう。わざわざ特定の一人の名前だけ出す理由さえも。
これで無自覚というのなら、ソルビットも確かに厄介という筈だ。
「……気付いていたら、君から指摘される事も無かっただろうな」
照れ臭そうに咳払いする音がして、アールヴァリンの動揺も解けたらしい。どこか抜けた王子騎士は、もしかしたら自分より年下なのではないかと思わせる。
「いつ、から?」
「……ずっとだ。もう、ずっと。君達が城下に来るよりも、ディル達が騎士を辞めるよりも、俺が成人するよりも……ずっと前から」
「言わないんですか」
「聞かないんだ。絶対にはぐらかされる。でも、恐らく、面と向かって言ったらもう……元の関係には戻れない。分かっていてソルは、俺の言葉を聞かない」
彼は彼なりに思い悩んでいるようだった。恋い慕う相手から曖昧にされながら、今の関係を続けるしかない。それが、王子と女騎士として当然の在り方なのだろう。
いつか必ず迎えなければならない未来の王妃が、その細い指に指輪を嵌めるには彼女の手は血に汚れすぎている。なのに、彼がソルビットを呼ぶ声は親愛に満ちていた。ただの仲間だと言うには苦しい、隠しても滲む深い愛。
「……君達があんまりソルと仲が良いものだから、正直妬いてる」
「知ってます。舌打ち、これまで何回か聞いてます」
「…………」
「その度に、ソルビットさんはちょっとぴくって反応するんですよね。見てて面白――」
そこでやっと、ユイルアルトが彼に視線を向ける。
「誰?」
「は?」
瞳を向けた先に居たのは、宵の闇で髪色が暗色だということしか分からない。でも目鼻立ちのはっきりした、どこか冷たささえ宿した美男というのは分かる。でも、目許に掛かる髪の毛は見覚えが無い。
前髪があることで、冷たさが和らいでる。さっきまでより随分若く見える、王子騎士。
「誰って……失礼だな!? 誰だと思って話してたんだ!!」
「……あー、すみません。前髪あるのが珍しくて」
「謝ってるのかそれで!?」
突然子犬のようにキャンキャン鳴き喚く王子騎士。
よく見れば、服装も違う。ずっと纏っていた騎士服ではなく、簡素とはいえ気品を感じさせるタイ付きのシャツとズボン。
こうして見れば、思っていたよりも王子は若いのかも知れない。ユイルアルトはまじまじと、彼の足先から頭頂までを見回した。
「……アールヴァリン様、そんなに私と年齢変わらないんですか」
「知らん。俺は君の年齢にまで意識を回してない」
「……怒ってる」
「怒ってない!」
彼も長い休息に気が抜けているのか、感情が表に出やすくなっている。素の彼はこっちなんだろうな、と思うと不思議な感覚になる。
王族というのは、自分達庶民の手の届かない世界に生きている。だから、彼等にはどうしても自分と同じように感情があるとは考えにくかった。まるでディルのように、平坦な感情で生きているのだろうと思っていた。
目の前の王子は、ディルよりもよっぽど感情が豊かだ。
「でも、アールヴァリン様。結構私達に無理してませんか」
「……無理って? 警護対象である君達に気を回すのは当然のことだろう」
「それです。……貴方から『君』って呼ばれる度に、むず痒いんですよ。呼ばれ慣れないからかなって思ってたけれど、貴方が呼びたくないのが伝わってるのかなって思って」
「……」
王子騎士は、否定も肯定もしなかった。どう答えても、ユイルアルトを傷付けるかもしれないと危惧したから。
でもユイルアルトは答えが何であれ傷つかなかったろう。
「アールヴァリン様」
無言の間を繕ったのは、ユイルアルト。
「手を払ってしまって、すみませんでした」
「……その話か。良いんだ、気にしていないよ。君が気に病む事じゃない」
「お優しいんですね」
別に、王子に必要以上の好感を抱いているとか、そういう事ではない。
でも、手を伸ばしてくれた事には必要以上の恩を感じているかも知れない。
――私を助けようとしてくれた。
「……?」
言葉に簡潔に纏める事の出来ない、出所の分からない自分の声が自分の頭の中に響いた。
助けようとした、なんてそんな大層な事じゃなかった行為なのに、彼の行動をそう理解しているらしい自分が奇妙に思えた。
表情の変化に反応したのはアールヴァリンも一緒で。
「どうした?」
「……いえ」
奇妙だとしか、今は言える言葉が無くて。
「なんでもないです」
でも、確かにこの王子騎士には好感を抱いている。それはきっと、恋とか愛とかそんなものじゃないけれど。
次に手を延ばされても、振り払わずに居られる自信はない。でも、それを分かっていて王子はきっと待っていてくれる。いつか、振り払わない自信がつくまで。
「応援しますよ、私」
「……応援されたってな」
溜息を吐くアールヴァリンは、それでもユイルアルトを突き放さない。余計な事を、と言ってそっぽを向いたりしない。
人間味に溢れる、優しい王子。細めた瞼に見える長い睫毛が、表情を曇らせたように見せても、それは決して彼の否定の意味ではない。
ユイルアルトの気が済むまで、二人は一緒に居た。和やかな話に付き合ってくれるアールヴァリンは、何故か心を落ち着けてくれる。体の疲れが消える訳では無いが、彼の側が心地いい。それが王族としての求心力なのかも知れないと納得した。
夜はまだ始まったばかりだ。
そして時間が経つごとに、七人にとっての地獄が近付いてくる。




