7.休息地
酒場に属する医者二人にとって『悪くない』馬車の旅。
二頭と七人の、ちょっとした小旅行。
皆で一緒に食事を摂り、睡眠を取り、時々ジャスミンはソルビットと隣り合って寝た。
女同士の話は楽しくて、リエラとも話が弾む時もある。
山菜取りの時はフィヴィエルと、時々ソルビットと一緒に向かう。ソルビットの物覚えは早くて、二日目の昼休憩の時には一人で山菜の収穫に行けるまでになる。
ジャスミンとユイルアルトは、馬車の中の指定位置は前方になっていた。
その時に御者席にいるのがソルビットでもアールヴァリンでもフィヴィエルでも、話の種が尽きる事も無い。
それが、話すだけだったなら。
「フィヴィエル、この先に村がある。寄ろう」
休憩少なく、山道を急ぎで馬を駆って三日目の夕方。酒場を出てから丸二日経った辺りだった。
御者席にいるのはアールヴァリンとフィヴィエル。地図を開いて道を指示する王子騎士は、道の先に村の印を見つけた。山間にひっそりと存在する、小さな村がふたつ。
「ああ、その村ですね。僕、どちらとも行った事があるので案内出来ますよ」
横目で地図をちらりと見て、知っている村の話に声が弾む。手にした手綱の先に繋がれた、二頭の馬が声に反応したかのように尻尾を揺らした。フィヴィエルをしてよく働く子と言わしめる馬二頭だが、少ない休憩で馬車を引く姿は流石軍用馬といったところか。
「そんなに突然お邪魔して、村の人が驚いたりしません?」
ジャスミンの疑問は尤もだ。でも、フィヴィエルは笑顔を浮かべて否定する。
「大丈夫ですよ、少し心苦しくはありますけれど。もし都合が悪ければ大人しく出て行けばいい、それだけです」
アールヴァリンは、物資の補給を理由に一番近くの村に寄れと言った。もしそこで充分な補給が出来なければ無理せず次に行けば良いと。
丸二日の殆どを馬車で揺られる者達の体力も懸念事項だ。医者はなるべく万全の態勢で連れて行かなければならない、との事から、今日は最初の村で休息を取る事に決めた。朝日が昇るとともに出発し、その日のうちに目的地に到着したいと考えている。
配分を考えるのも騎士の仕事だ。考えるだけなら簡単かもしれない。
病魔に襲われた村人は、待ってはくれないのだから。
「……っと。この辺りですね」
夜の闇に飲み込まれるより先に、村の側に到着した。
外周を覆うように木の柵が施されたそこは、馬車が入れるような通り道は無い。柵の外に馬車を停め、フィヴィエルは馬を近場の草原へ放つ。
それから御者席の男二人は馬車の後部へ回り込んだ。……のだが、騎士が来るより先にデナスは一人で馬車を下りる。
次に顔を覗かせたのはリエラ。王子騎士が手を差し伸べると、おずおずといった様子で手を重ねて下りる。
その次にソルビットがひらりと身を翻して下りた。
次に、ジャスミンがフィヴィエルの手を借りた。名実ともに騎士であるフィヴィエルの姿は、絵本の中から出て来たようだった。
「ほら」
「……」
最後まで残っていたのはユイルアルト。
騎士の男二人が、残り一人が下りるのを待っている。アールヴァリンに至っては、他意も無く手を差し伸べてくれていた。
「一人で下りられますから。そこ、退いてください」
「そういう訳にも行かないさ。暗くなってきたし、段差があるのに怪我でもされたら大変だから」
「怪我なんて、っ!!」
王子の瞳には拒否がただの強情に移ったのか、差し伸べられた手が近付いた。
その一瞬。
「――っ!?」
その場に響く、平手の音。
ただ自分に延びて来た掌を反射的に打ち返しただけだが、その相手が王子だと改めて気付いた時には遅かった。
自分に向かってくる手が、怖かったのだ。
三年前を過去に出来ていないユイルアルトは、その掌の大きさに恐怖した。
自分を奴隷同然に扱っていた男の手が思い出されたから。
あの男は――私が助け出された後、どうなったんだっけ?
「っ……も、申し訳、ござい、ません」
王子の手を打った自分の手が震えている。もう片方の手で抱きかかえるようにしても、震えが消えてくれる訳じゃない。
アールヴァリンは何が起きたか分からないような顔で見ている。でも、その表情には困惑が透けていた。
「……いや。俺も、悪かった。君に無理強いしたい訳じゃないんだ」
「おゆるし、ください」
「許す? 君は何も悪い事をしていないだろう。……足元、気を付けて下りられるか?」
「……」
彼が、失礼な事をしても激情するような人格でないだけ助かった。
ユイルアルトは、騎士達の不安を受けたがなんとか一人で下りる事は出来る。
俯いたまま頭を下げて、小走りに、ジャスミンの側へと駆け出して行った。
「……」
その様子を、リエラもソルビットも見ている。まさかユイルアルトがあそこまで頑なになるとは誰も思っていなかった顔だ。それまで、デナスを除く誰とでも和やかに話が出来ていたのに。
アールヴァリンはフィヴィエルを先に行かせて、他の面々を村の中に誘導させた。彼一人でも村人に対処できるだろうと踏んでの事だ。
「……ソル」
苦い顔をしてアールヴァリンが近寄るのは、『花』隊長ソルビットの側。彼女は王子騎士の困惑を分かっていて待っていた。
「あらやだ、王子殿下ってば罪作りだこと。女性に迫る時は嫌がられるくらい強引にしちゃいけないって、先代と先々代の隊長から教わりませんでした?」
「勘弁してくれ……。そもそも、俺そんな不誠実な心持ちで手を貸そうとしたんじゃないんだぞ」
「そんな事分かってるよ。あたしも、多分イルもね。……でも、そっかぁ。ヴァリンでも駄目だったかぁ」
医者二人の背中が遠ざかり、二人の声も他に聞こえない。
二人が込み入った話が出来るのは、こういう時間だけになってしまった。
「……駄目、って。ソル、何か知ってるのか」
「知ってるよ。知ってるからあたしも来たんじゃん。男騎士ばっかじゃ駄目だって、連れて行かせられないって、アルギンから言われてたもん」
「男騎士が駄目……? それ、どういう意味だ」
「……ヴァリンは、ウバライ・ゴーンの傘下の商隊の話って聞いた?」
ウバライ・ゴーン。
今現在、城下に入り込んだと目される奴隷商人だ。
女子供を攫い、小児性愛の客を取らせたり人身売買にも手を染める。その客の中にはアルセン王国貴族もいるらしく、裏で騎士隊『風』による調査が入っていた。先日は拠点のひとつを、アルギンの義弟と酒場の新入りが壊滅させている。
親玉の足取りは掴めていないが、騎士と裏ギルドが手を組んで行方を捜している。自警団にも話は通っているのだが、身柄の確保が難航していた。そんな悪人は手広く商売もやっていて、表の顔と裏の顔を使い分けているからだ。
「商隊……って、言ってもな。奴には配下も多いし、別動隊も幾つか持ってたって話だろ。どれだ」
「三年前にアルギン達が潰した奴だよ。あれに奴隷として、イルがいたんだ」
「……成程な」
それだけ聞くと、理解の早いアールヴァリンは言葉を呑み込んだ。それ以上を聞くのも野暮と言うものだ。
そう聞くと話が繋がる。どうして酒場に属する事になったのか、どうしてアールヴァリンの手を払ったのか。その時向けられているものが善意でも、男の掌は恐ろしいものだと記憶に刻み込まれる程酷い目に遭ったのだ。
改めて自分の手を見るアールヴァリン。成人して暫く経った彼の手は、昔と比べて随分大きくなってしまった。
「あれだけちぃちゃかったヴァリンちゃまも、もう外の人には立派な大人って認識されちゃってるんだねー。ソルちゃんしみじみしちゃう」
「なっ……!」
「ま、そうでなきゃ『風』隊が困るんだけどね。隊長は立派な大人でなきゃ、ついていく皆が困惑するから」
からかうようなソルビットの言葉に憤慨するアールヴァリン。悔しそうに歯噛みするのは、相手が自分の子供時代を知っている相手だからで。
二人の間に、長い時間が流れた。両手で数えきれない年月が通り過ぎ、二人は違う隊を預かる隊長になった。
「……お前の中では、俺は今でも子供のままなのか。お前が俺の事を、一端の男だって認識してくれるまで、あとどのくらい待てば良い?」
でも、頬をやや赤らめて聞いた言葉には他意が入っている。
「そこんところ気にするようじゃ、まだまだお子ちゃまだと思うなぁ?」
その他意にも気付いていながら、ソルビットは笑顔で返答した。
そのまま他の面々の背中を追うように、或いは逃げるように、王子を置いて小走りになる。軽い笑い声だけを残して。
「……くそっ」
『ソル』と呼んで『ヴァリン』と呼ばれる、隊長同士の裏の関係。
ソルビットの側に居る時だけ、彼は王子でも騎士でも無い、ただの男になってしまう。彼の足首に嵌められた枷は、ただの男で居続ける事を許さないが。
逃げたソルビットを、アールヴァリンは本気では追わない。追ったら、向こうも本気で逃げるから。
緩やかな足取りで村へと向かう王子の背中側で、馬車を引いていた兄弟馬二頭が毛繕いをしあっていた。
一方、村の中では住民が総出で来客と対峙していた。ざわざわと何かを話し合っているようだが、村人達の会話の詳細までは聞こえない。
男も女も老いも若いも関係なく、突然訪ねて来た馬車を不審に思っている――のだと、ジャスミンとユイルアルトは思った。
先頭に立つのはフィヴィエル。その後ろにソルビットが来て、医者二人を庇うように立っている。
リエラは更にその後ろに付いていた。デナスは、先に行ったまま姿が見えない。
「や、やっぱり急に来て驚かせたんじゃ。戻りましょうよ」
ジャスミンはこういった事態に慣れていないので、動揺しつつ馬車に帰りたがっている。
ユイルアルトは、少人数の村とはいえこれだけの衆目に晒されているのが辛かった。
そんな二人を背中に庇って、ソルビットが小声で。
「大丈夫だよ。あたしら信じて、じっとして」
そんな優しい声で、囁くように言われて動く奴なんていない。
安心感を与える、味方と無条件に信じられる強者の言葉だ。
じっとしていられても身を強張らせずにはいられない。医者二人が、成り行きを見守っている時。
「――すみません、皆さま。お久し振りです、お邪魔してもいいでしょうか」
フィヴィエルが、村人達に向かって呑気な声を投げる。
ジャスミンもユイルアルトも、その返事が来るまでに緊張を抱かずにはいられなかった。
でも。
「フィヴィエル様!!」
「本当にフィヴィエル様ですか、お久し振りです!!」
「どうぞ遠慮なく! さぁ、こちらへ!!」
わっと歓声が湧いた。
彼の一言を待っていたかのような村人達は、途端に彼を取り囲んでしまう。
呆気に取られた医者二人がその姿を見ていると。
「以前、この周辺はならず者の襲撃に遭った事があってね。フィヴィエル……ってか、フィヴィエルの所属する『鳥』隊の数名が巡回してた所に襲撃に出くわしたんだ。被害軽微で助けられたんだけど、その事に恩義感じてくれてるみたいで今でも時々手紙が来るんだって」
「……それ、先に言って貰えてたらよかったのに……」
「恩義感じてても快く迎えてくれるかは別だからさ。でも、良かったよ。追い払われなくて」
ソルビットの注釈で、漸く緊張の糸が解ける。あとは、囲まれているフィヴィエルに村の中を案内させて、温かい湯と休憩できる屋根の下を借りられれば有難い。
和やかな空気にほぼ全員が歓待されている中、冷たい視線を投げる人物がいた。
「……」
それは意気揚々と村の中に先に入っていたデナスだった。
村人全員からほぼ無視される形で、道の真ん中で立ち尽くしている。