19.聞かされていない話
一階は制圧したのだ、表と裏とで侵攻したのだから討ち漏らしは無い筈。
階段を上る間に新手に会う事は無かった。階段に足を下ろす時、ミュゼでも軋む音をさせる程に安っぽい作り。複数人で上がったら抜けるのではないかと思わせる程の薄い板に体重を預ける恐怖。
点々と灯る蝋燭を頼りに何とか二階に到着する頃には、アルカネットは額に浮いた汗を拭わずにいられなかった。
「無事に着いたね。でも……なんだろう、この変な感じ」
窓が無くて閉塞的な空間であることは間違いないのだが、それにしたって臭い。羽虫だってこの建物内で生息量がおかしいくらいに飛ぶ姿を見せている。
喉を塞ぐような悪臭漂う空気は、二人の間に漂う気まずさから来るものではない。もっと何か、この建物自体が発しているようなものだ。
「……お前、本当にオーナーから何も聞いてないのか」
「オーナーって……マスター・アルギンの事? 聞いてるも何も、私が聞いたのはアルカネット様が同席してたあの時の話だけだよ。だから道すがら話聞いてって言われてたんじゃないの」
「……」
「話聞いてたって、制圧が主なら大丈夫かなって思ってたけど。……奴隷商人の拠点なんだろ、だったら聞かない方がいいとも思って」
「確かに、聞かない方が良かったかもな」
階段から二階に辿り着いた時、二人の前には分かれ道が現れる。
左と右で随分雰囲気が違う。右からは、誰かの啜り泣くような声が聞こえて来ている。
「……ここは、『廓』なんだ」
全ての情報を手に入れているアルカネットだけが、冷静な顔をしている。
え、と息を呑むミュゼ。その言葉の意味くらい知っている。
「廓、って……」
「奴隷商人は……攫った子供達に、そういう仕事を強要している。この城下にも娼館通りくらいあるが、そんなとこよりももっと……酷い。そして、この城下に暮らす奴等の中にも、ここで欲を満たす奴もいるんだよ」
「……そん、な」
ミュゼは手にしていた長棒を両手で握りしめ、悲痛な表情を隠さない。孤児院で仕事をしているミュゼだ、子供達に寄せる想いは大きい。
自分の子でも無しに、慈しみ慕われる子供達に囲まれているミュゼだ。その心を思って、言い出せなかったのもアルカネット。
「先に聞いてたら、お前の手元が狂って誰か殺してたかもな」
「……そんな、事」
「無いって? ……無いと俺は断言できないからな。フェヌだって、お前のシスターとしての仕事振りを買っていたんだ。守るべき存在を踏みにじられた奴の逆上する姿、俺は幾らでも見て来た。これでも自警団員なんだ」
「……」
制圧の大部分が完了したから、アルカネットだって話す気になったのだろう。ミュゼが俯き唇を噛んでいる間、左右どちらの道を選ぶか悩んだ。そしてアルカネットが選んだのは右。
「一先ず、右から見るか。どっちかは階段を塞いでおきたいんだが、どうする」
「……私が行く」
一先ず、聞こえる啜り泣きに対処したいと思っての事だ。ミュゼに選ばせたのだが、即座に自分が動く決定を下す。自分に自信が無ければ出来ない事で、その辺りは及第点だ。
アルギンのお気に召す一員に、きっとなれるだろう。
ふらふらと道を進むミュゼが、先に扉が一つしかない事に気付いた。この先を調べれば、それで終わる。後はアルカネットと合流すれば、敵が居た所で物の数ではない。
廓と聞かされた途端に気分が悪くなってくる。前以て聞かされていれば、心の準備さえ出来ただろう。
でも今聞かされるのと、同時に聞こえる啜り泣きを受け止められるかと言えば話は違う。心の準備なんて、アルギンは許してくれなかった。
その難点さえ克服できれば、きっとアルギンはミュゼを気に入ってくれる。
ただ酒場の一員になりたい一心で、ミュゼは扉を目指す。
そうしないと、自分の未来を見失う予感がしたから。
「――……」
そうして開いた扉の向こうで、一番最初にミュゼを歓迎したのは羽虫の群れだった。
息をすることも嫌になる程の数が、外の空気を目指して羽を動かしている。わ、と身を躱したミュゼは細めた瞼の向こうに何かを見た。
粗末な木材で出来た小さな檻。動物に使う物だろうその中にいたのは子供だった。
「……っ、は!?」
それを目にした途端、虫が側に来ようと構わず走り寄るミュゼ。その場に長棒は落として来た。
檻の中に横たわる子供は小さく、骨が浮き出る程に痩せている。伸びるままにされ乱れた黒髪は手入れもされておらず、それ以前に部屋の衛生環境からして最悪だった。
床には乱雑に拭き掃除しただけの後はあり、得体の知れない汚物もこびりついたまま。白に黒に焦げ茶に、と顔を顰めたミュゼだが、その中の焦げ茶が血だという事に気付く。
「大丈夫ですか!? ねぇ!!」
「……ぅ」
檻に駆け寄って、子供の状態を確認する。見える範囲で打ち身のような跡があちこちにあった。着ている服は襤褸切れで、いくら春といえど夜の寒さから身を守れるとは思えない。
あまりに酷い環境で、ミュゼの胃が一瞬痙攣した。吐き気が込み上げてくるのをなんとか堪え、檻の扉が開かないか確認する。
先程から聞こえていた啜り泣きは、この子供からだ。
「……たす、……け、て」
その声が、今、ミュゼに救助を願っている。
「ちょっと待って、鍵……ああくそ、開かねぇ!!」
冷静になれない。
がたがたと檻を揺らしても、出入り口に備え付けられた扉と鍵はびくともしない。こういった用途で使われているのだから当たり前だ。
中の子供は小さく短い声で悲鳴を上げ、それでミュゼの焦りは膨らんでいく。
こんな惨状、事前に聞けていたら違ったかもしれない。
言わずに送り出したのは、ミュゼを試しているから。
冷静に、冷静にと頭の中の自分が囁く。こんな所で手こずっていては、自分の目的にすら届かない。
舌打ちしたミュゼは、その場に長棒を置いてから自分の髪に指を差し入れる。
髪の間から出て来たのは針金。髪留めとして擬態させていたそれを、震える手で鍵穴に差し入れる。
暫く格闘していたが、やがてかちりという音が聞こえる。簡単な仕掛けだったのに時間が掛かり過ぎてしまって、ミュゼが再び舌打ちする。
「大丈夫ですか!?」
「……あ……」
鍵は開いた。なのに、中の子供は出てこない。もうそんな体力さえ無いとばかりに、子供は扉が開いた所を視界に収めながら気を失ってしまった。
出ようと扉に向かって伸ばした手。その手にさえ、内出血の跡が幾つもあった。
「ちょっと!! ねぇ!」
気を失った子供は、性別さえ分からない。このまま引っ張り出していいのかすら分からずに、ミュゼが周辺に視線をやる。
こんな不衛生な場所に子供を置いておきたくない。でも、一人じゃ無理だ。
長棒を拾って、その場を走って後にする。アルカネットの手が無ければ、一人では判断に困る。
「アルカネット様!!」
「……ん」
アルカネットは、階段の前に陣取って座っていた。二人で二階に来た時から、居る位置が変わってない。
ミュゼが焦っている様子を見せても反応が薄いのは、先程の部屋での声を聞いていたからか。
「向こうの部屋に、子供がっ!! まだ息はあるけど、状態が!」
「……」
「聞いてよっ!!」
気だるげなアルカネットの姿は、孤児院に来る時にも幾らか見せていた姿だ。今はミュゼの声がうるさいと顔に書いてある。
緩慢に立ち上がる、その靴先は先程の子供がいた部屋には向かない。
「お前が行った部屋、ひとつだけか」
「え……? だ、だって扉はひとつしか無かった」
「敵はいなかったろうな」
「……いな、……かった。多分」
子供に気を取られ過ぎた自分が冷静さを欠いていたのに、今更気付いた。
ちゃんと部屋の中を確かめた訳では無い。確信が持てない報告が出来なくて、後付けた言葉にアルカネットの表情が変わる。
「多分?」
「……」
「お前、力試しにでも来たつもりか。荒事やりたいだけなら自警団でいいだろ」
いつもはフェヌグリークにやり込められるような男なのに、同じ声が冷えた温度で非難を投げる。
呆れを隠さないアルカネットは、そのまま未確認の左側へ進んでいった。言葉の足りないアルカネットはそのままミュゼが付いてくると思っていたが、足を止めたままの彼女に振り返らず、溜息混じりに言葉を繋ぐ。
「制圧完了が先だ。安全を確保しないで手当てなんて出来ない」
「……」
「お前の事、冷静な女だって思ってたが……そうじゃなかったな」
「だって」
ミュゼの手が、長棒を更に強く握る。血の気が無くなる程に力を込めた傷だらけの手は、子供達への献身の証。
それが今まで関わった事のない子供達へも、平等に注がれる想いだ。
やっと歩き出したミュゼは、先程とは段違いの大人しさで後ろを歩く。
「……わかんないんだよ、私も」
「わかんないって、何が」
「私、話に聞いてたのと全然違う。と思ったら大事な所は聞かされなくて、……なにがなんだか、分からないよ。何で、エクリィの野郎、私を騙してたら、ただじゃおかない。なんで」
ミュゼの喉から溢れるのは、切れ切れの言葉に滲む怨嗟と。
憎々し気に誰かの名を語る低い音と。
興味のない振りして、アルカネットが耳を澄ませる。この女は、どうも奇妙な行動が多いから。
「ねぇ、アルカネット様」
「……何度も言うが。様、は要らんぞ。今更そんな風に敬称使われたって、寒気しかしない」
「んじゃあ、アルカネット」
思い直したように、ミュゼが口を開く。
女に振り回されるのに慣れていたアルカネットは生返事だけを返した。よくころころと話題が変わる女の相手にも慣れているから。
「こんな風に子供が扱われてるの見て、それでも無視して次の場所って、アルカネットは納得してるの」
「……」
「納得するくらいには、酒場が好きなの? 思い入れがあるの?」
話題が変わるにしても、その部分には触れて欲しくなかった。
答えに詰まりながら、道の先を見る。こちら側の廊下には、幾つもの扉があった。その一番手前の取っ手に手を掛ける。
納得している訳じゃない。でもそれが最適解だと信じている。
「俺が全部終わらせたら、他の奴等と交代して助けられる。包帯も巻けない俺がどうこうするより、そっちの方が確実なんだ。酒場は……嫌いじゃない、とだけ」
「そう」
嫌いじゃない、の言葉は詰まるところ、他に選択肢があったって進んで選ぶくらいには好ましい、という意味だ。でなければアルカネットは『どうでもいい』『そこまで』『嫌いだ』といった返事を寄越す事も、ミュゼは短い付き合いの中で知ってしまっている。
そう、だなんて短い言葉で終わらせたが、裏の意味が伝わっている事は言わない。彼はきっと、意地を張るから。
「……行くぞ」
短い咳払いの後、扉を開くアルカネット。
開かれた扉の向こうでは、ミュゼが再び言葉を失うような光景が広がっていた。




