1.不揃いな足音
王妃との約束の一週間を終えたアルギン達酒場の面々は、話を聞かされている者と知らない者で二分された。
酒場に戻って、たった一週間。なのに、その期間でアルギンの心は冷え切ってしまっている。これまで、兄の死の真相を黙っていた店員姉妹にも、近所に住む者達にも不満は山ほどある。
死んだ、殺されたと思っていた兄が本当は生きていた。……ただそれだけの話だったらどれだけ良かっただろう。凶刃を振りかざした店員姉妹にも、未遂で済んだのだからいい――そんな事は言っていられない。
心の中を掻き乱されたアルギンは、素直に笑う事が出来ずにいる。兄は何故、生きているのならその生を伝えなかったのか。今の今まで、何をしていたのか。
その質問はきっと、今は王妃に投げ掛けた方がいいのだろう。誰も分からずにいるこの話を、王妃ならきっと誰よりも明確に答えてくれる。
アルギンの心は、空の曇天のように重いものが立ち込めていた。
雨季は終わった筈なのに。
酒場に戻って、騎士を護衛に付けての情報収集。期間を終えたアルギンが城に戻っても、心も足取りも重いままだ。迎えの馬車に乗っている間中、誰の耳にも重苦しい溜息ばかりが聞こえてきている。
ディルだって、沈む表情の妻ばかりを見たいとは思っていない。けれど――今回の事は、仕方ないと諦めている。
詳しい話を聞かされていない酒場の者も、いつもだったら無駄に明るくけたたましい店主の様子が気になって仕方ない。けれど彼女はいつだって、「王妃殿下に報告するまで、待って」としか言わないのだ。
やっと聞けるかと思った皆の前には――謁見の間で、玉座に座る王妃が居た。
「……御苦労だった、アルギン。そして、その直属の者達よ」
「……」
敷いてある赤い絨毯の両端にずらりと並ぶ上級騎士の存在理由は、王妃の護衛というよりは立会人の意味合いが強い。今日のアルギンの報告を聞き漏らさぬようにするため。
騎士達が並ぶ絨毯の向こう側、いつものように、顔を垂れ幕で隠している王妃の表情は読めない。
王妃の労いの言葉にも、アルギンは俯いたままだ。豪奢、とまではいかずとも煌びやかな謁見の間は、いつも来るものを拒まない筈の温かさを備えているのに、今日はどうしてか寒々しい。
それはきっと、招かれた側のアルギンが笑顔じゃないせい。
「王妃殿下」
アルギンは膝を付き、恭しく臣下の礼を取った。ほぼ同時にディルも同じ体勢になり、それは他の者へも伝播する。
臣下の礼を取った面々の中に、店員姉妹の姿は無い。
「……? アルギンよ、オルキデとマゼンタが居ないようだが」
「あの二人は、一緒に行きたくないらしくて酒場に残って貰ってます。……ってより、アタシ達と顔を合わせ辛いらしくてですね」
「珍しい事もあるものだの。何ぞ、仲違いでもしたか。今回の原因は何方だ?」
今回、謁見の間に出る事をアルギンは心配していた。
「――……」
顔を上げた時、王妃にいつも通りの馬鹿面を晒せるか分からなかったからだ。
実際今、王妃の喉が引き攣るような音を立てた。どうやら、表情作りに失敗したらしい。
無理もない。今から口に出そうとしているのは、個人的な恨みが混じった言葉達だ。
「オルキデに殺された筈の兄さん――エイス・エステルに、存命の可能性が出てまいりました」
「っ……は、……アル、ギン……」
「あれだけ知りたがった兄さんを殺した犯人も、兄さん自身が存命と分かってしまえば拍子抜けしますね。……なぁんだ、そうだったんだ、って」
僅かな笑いを混ぜて言い放った言葉に、戦慄したのは王妃だけではない。
アルギンやディルのその背後で、ユイルアルトやアクエリアまでもが目を見開いて硬直していた。特にアクエリアは呼吸すら忘れた様子で、顔面蒼白のままアルギンの背中と王妃を見比べていた。
「アルギン、其方」
「だからですねぇ! ……聞いたんですよ、マゼンタに。オルキデにはすぐ逃げられてまともに話も出来なかったけど。兄さん死んで泣いてたアタシを見て、どう思ってたのかって。……実行犯はさておき、アタシとしちゃあ――高みの見物されていらした、いと貴き王妃殿下に於かれましては、さぞ愉快にご覧いただけたんでしょうねぇって思う訳ですけれど」
アクエリアの怒りは、まだ表面化しない。
声と言葉選びに棘があろうと、アルギンは冷静だった。
養女が冷静だから、弟は怒ることが出来なかったのだ。育てて貰った恩を感じているアルギンの悲しみの方が、遥か昔に離れて暮らしていたアクエリアの悲しみよりも深いのだから。
「ねえ王妃殿下」
冷静さは、怒りを覆い隠す為の壁か。それとも悲しみか。
アルギンの瞳には涙が溜まっている。
「ずっと黙ったままで、アタシに隠し事して。……信じようとしたのはアタシだけ? 信じたかったのは、アタシだけだったの? アタシはやっぱり、貴女にとっては駒でしか無かったの?」
「ちが、」
「友だなんて言って、こんな大事な事隠してて」
王妃は、反論も出来ない。アルギンの声の震えがそのまま自分の喉にまで移ってしまったかのように、喘ぐような息をしながら碌に言葉も並べられない。
「卑怯だ」
その一言で王妃の唇が、完全に声帯を震わせるのを止めてしまった。
「アタシは殿下の事信じてた。……駒でしかねぇなら友達とか言うなよ。どこまで行っても、アタシ達を使い潰す事しか考えてねぇのか。汚ぇ部分隠してたら、『オトモダチ』とやらは騎士を辞めても喜んで雑用やるからなぁ?」
「……」
「全部嘘だって言ってくれよ。アタシは、ずっと、オルキデの口からも、マゼンタの口からも、嘘だって言って種明かしされるのを待っていた。兄さんが生きてるなら、アタシが見た兄さんの遺体も、あの日の絶望も、全部アタシの悪い夢だったって言って欲しかったよ。ねぇ、殿下。アタシが見ているこの景色は、本当に、アタシの見ている夢じゃないのか。こんな悪夢が現実なの? ……信じてた人から裏切られた世界が? ……そんなの」
――虚しいよ。
アルギンの言葉はそこで途切れた。隣で膝を付いていた筈のディルが、隣に寄り添って肩を支えている。
アルギンの瞳から涙が溢れたのもその時だ。頬を伝う涙は距離もそこそこに、次は床を目指す。緋色の絨毯が、そこだけ色が濃くなった。
「ミリアルテア王妃殿下。……今まで我が妻の友人として接して頂いた事には感謝をしている。だが、此の期に及んでも弁解さえ無いのは些か癪に障る。真実、殿下は我が妻を駒としてしか見ていなかったのかえ」
「……」
「何も言わぬ事こそを肯定と取るが」
それきり、顔を覆って声を殺しきれず泣き出すアルギン。隣のディルは、冷えた視線で王妃を見ていた。
その背後からは、言葉も無く王妃を見続けるアクエリア。他の者は、空気の悪さに顔を伏せたままだった。
アルカネットだって――聞きたい事は山とある筈だ。自分を引き取った男の死に様を、アルカネットは伝聞でしか知らない。その詳細は、今この場に居る者だけで充分語られるものだ。でも、まだ聞かない。
玉座に腰を落としている王妃の、その表情に湛える絶望が取り除かれない限り、聞けない。
「……っ……は、」
再び王妃の声帯が震え出した時、王妃の白く細い指は顔に掛かる垂れ幕へと伸ばされていた。
「――そんな訳、無いだろう。私は、ただの駒を友と呼ぶほど厚顔ではない。癪に障る、だと? 馬鹿女を大事に思っているのが貴様だけだと思っているのか、ディル」
「……」
「友の育ての親を殺めた事実を、伝えられる訳が無かろうが。失いたくない尊い関係を、自らの手で打ち砕きたい訳があるか。それが、例え国を守ろうとした結果であろうと、知らせたくない話だったのだ。――けれど、アルギン」
王妃の指が、己の垂れ幕をそっと持ち上げた。
額当てをそのまま引き抜き、その場にいる者達へ顔を露わにする。
王妃、ミリアルテアの顔。初めて見る者も、その場には存在する。
「私は何があったとて謝らんよ。私は、あの事限りは正しい命令を下したと思っている。それだけ、其方の育ての親は凶悪だった。我等を欺いて帝国と通じようとしていた。それでなくとも私が、どれだけ帝国を憎んでいたかは其方も知っているだろう」
「……」
「黙っていたのは私の落ち度だ。其方との関係を失うのが怖かった。けれど私とて譲れぬ部分はある。一度でもこうして意見を違えたら、もう友には戻れぬのか、アルギン。それでも其方と友でありたいと望む私から離れていくのか」
王妃は、謝らない。――謝れない。自分の下した命令が過ちだと認めてしまう。
泣き顔を手で覆っていたアルギンは、赤い瞳で王妃を睨みつけた。
「それ、都合が良すぎねぇか。違えた意見の、その『一度』が、アタシにどんな意味があると思ってんだよ」
「分かっているよ、アルギン。これでも私は、憎き仇に姉を奪われている。其方と傷口を舐め合うに最適だろう?」
「ふざけた事言ってんじゃねえよっ……!!」
アルギンの言葉選びは、既に王妃に向けるものでは無くなっていた。それを見かねた近衛である上級騎士が咎めようとするが。
「アルギン様、如何な貴方様でもその口の利き方は――」
「貴様は黙ってろ!!」
咎めるのよりも遥かに強く、それこそ小川と大瀑布ほどの違いで、王妃からの叱責が飛んだ。
びくりと体を震わせた上級騎士はそれきり黙ってしまった。王妃の護衛たる近衛に任命されても、この仕打ちは非情。
発言権を戻されても、アルギンの喉はそれきり潰れたように声が出なくなってしまった。喉の奥から襲う痙攣が、言葉を紡ぐのを許さない。
兄を殺した、そしてその命令を下した相手が判明しても、今の状態は好転しない。ミュゼは戻って来ていないのだから。
「――失礼」
泣きじゃくるアルギンを気遣うディルを尻目に、アルギンの発言権を掻っ攫ったのはアクエリアだった。
「王妃、ミリアルテア殿下。俺達も、今事情を聞いたばかりで全然考えが追い付かないんですよねぇ」
「……」
「俺達にも聞く権利があると、思いません? ……アルギンは事情とやらをもう知っているかも知れませんが、俺はエイスの弟なんですよ。それこそ、今の今まで……全っ然知らなかったんでぇ」
その唇は弧を描いていたが。
「嘘偽りは、幾ら貴女と言えど許しませんから」
その髪の色は、彼の本当の種族を知らないものは目を疑う程に――紫と金色の間を幻のように彷徨っていた。
「全部、貴女様のご存じの範囲を――話してくださいますよね」
それは、怒りに震えるアクエリアの姿だ。
その意味を知っているからこそ、王妃も一度だけ頷いた。