15.それは、少し前に遡る
それはディルが騎士を辞めた頃にまで遡る。
季節は冬。雪の積もる日ばかりになった頃だ。
日に日に窶れていく妻、アルギン。初めての育児が双子で、その疲労も心労も頂点に達したまま回復しない。
ディルも子供が産まれてから、着々と騎士を辞する準備を始めていたのだ。
元より妻さえ居れば良かった。子供達が居るなら更に幸せだった。最愛と呼べる存在達と、この先死ぬまで共に居られるならそれだけで良い。
……と、思っていたのだが。
「………」
アルギンが言った。
『育児大変だから、一週間に一度休んでよ』と。
ディルだって孤児院の施設長をしていた。だから子育てに自信は無くとも手順は知っていて、実際風呂も着替えも洗濯も大半は出来ている。出来ないのは離乳食作りと、自分の体で乳を生成する事くらいか。
途中離脱するような生半可な気持ちで騎士を辞めたのではない。勿論、周囲の補助ありきの子育てではあったのだが。
けれど自分一人で何でもかんでも抱え込んで、その上ディルの世話まで焼こうとする妻に憤りを感じたのは事実。
『ならば汝も交代で休め』と言って妥協するのが精一杯で、結局ディルは望んでもいない休息を取らされる事になった。
「…………」
一人で育児をする訳ではない。
妻と二人きりの育児でもない。
言えば助けてくれる者は幾らでもいて、充分な休息をディルは取れる。けれど授乳に関してはアルギンしか対応できないし、山羊の乳を双子はあまり好まない。
妻の負担を軽くするために騎士を辞めたのに、これでは本末転倒だ。癒えることのない疲労を抱える妻を見るのもディルの心の負担になる。それでなくとも、騎士を辞めた今のディルの肩書は『無職』なのに。
だから、最初の休みの日は何をすればいいか戸惑った。近所の知り合いの本屋に行って本を読み漁った。「ここで読むな、買って家で読め」と言われて更に困った。
次の休みの日は自警団詰所まで出かけてみた。教官として派遣されている顔馴染みが団員をしごいているのを見ながら、自分も参加しようとした。教官から「俺の面目潰してくれるな、帰れディル」と全力で止められた。困った。
その次の休みの日は、七番街まで出かけた。特に目的も無い散策のつもりだった、のだが。
「……?」
大通りの隅で、蹲る人影を見つけた。
その周囲は民家も無い、娼館通りの入口付近。その人物の体はそちらを向いており、ただでさえ日のあるうちでも治安の良くない場所なのに、と思って様子を窺う。
どうやら女性だ。かなり顔色が悪い。
「……」
かといってディルには助けられそうな手段が無い。水も持っていなければ体の温まる何かすら持っていない。
体調を崩した女性の姿に、ディルは在りし日の妻の姿を重ねた。毎日桶を胸に抱いて、真っ青な顔で病院の寝台に蹲っていた頃を。
だから、その時のディルには声を掛けないという選択肢は無かった。
「――立てるか」
「……う」
「歩けるか。我が知り合いの居る場所まで連れて行こう。立てぬなら手を貸す」
防寒具をしっかり着ていても、この寒さは服を貫通し肌を刺す。ゆっくりとしか進めない彼女の手を引いて、向かったのは――娼館通り、『茜の森亭』。
この寒さでは外に娼婦も出ていない。だから、扉を開いた時はあぶれた娼婦達の出迎えが多かったのだが。
「……え、ディル様? どうして、こんな所に」
「通りの側で動けなくなっていた。誰ぞ、暖炉の前に案内出来ぬか」
「通りの側って、こんな寒いのに? ……って、ジュリアちゃんじゃない!!」
「知り合いか?」
「ちょっと、ここいら一帯に店の備品を卸してくれる人で……ちょっと皆! 大変よ、ジュリアちゃんが!!」
――どうやらジュリアという名前らしい女性は、娼館通りにとってこの上なく大事な存在だったらしい。
すぐに彼女は温かい部屋に通されて、身内にも連絡が行った。そして迎えに来たニニシャと顔を合わせれば、ニニシャが必要以上に恐縮する始末。
通された部屋で話を聞くと、夫婦で養蜂と蜂蜜店をやっているものの、めでたい話でジュリアが妊娠した、と。けれど、彼女は無理を押して働いてしまっている、らしい。
その時に、夫婦になる馴れ初めや経緯までをも聞いた。ニニシャとアルギンの関係も。
「……蜂蜜店とは、其処まで人手が必要なものなのかえ?」
「必要……です、ね。店だけならジュリアでもなんとか出来るんですが、養蜂の方は……。生き物相手だから危険も多いですし、熊が出た時とかは一人だと、最悪食われてそのままって事も有り得ます」
「ふむ」
既にこの時には、ディルの心は決まっていた。
「養蜂は毎日手を掛ける仕事かえ」
「そうですね、今は冬なので……巣箱が凍らないように雪を避けてやる必要はあります。でも、そう毎日重労働って程でもなくて。寧ろ春から先ですね、大変なのは」
「人手の確保は?」
「呼びかければ、なんとか。でもこれまでは、俺もダレスの手伝いしてたくらいしか経験無くて……ジュリアの実家は、別に店も巣箱も持ってるからそっちも忙しくて」
「二週間に一度、或いは手の空いた時であれば動ける無職が此処に居るが――入り用か?」
「えっ」
相手は妻の知り合い。今出会ったのは、何かしらの縁だろう。
ディルの申し出はその場で受理された。簡易的な雇用関係が結ばれて、その日からディルは養蜂手伝いになった。
熊さえ倒して捌ける男だ。雇わない手は無かった。
季節は変わる。
手伝いもそこまで必須ではない季節に、ディルは養蜂の本を買い始めた。そしてニニシャと共に蜂に対する知識を深めていく。
春が近付いて本格的な養蜂が始まると、ジュリアが持つ知識と、二人が重ねた勉強の成果を巣箱に向けていく。巣箱の修理、内部温度の調査、病気や病原菌の対処。
ジュリアは元から養蜂の家系だが、妊婦を率先して働かせられない。ジュリア自身やニニシャよりも、ディルはジュリアを丁重に扱った。妻であるアルギンの重度悪阻を目の前で見ていたから、余計に。
最初に春の蜂蜜を採取する、となった時、ディルの心には感動があった。
採蜜は午前中に行う仕事だ。早い時間に巣箱から巣枠を取り出す。蜜蜂が作る特有の六角形が、枠一杯に並んでいる。
自分が手伝い手掛けた蜂の巣箱から、甘やかで美しい黄金色の液体が取れる。蜂が集めた花の蜜は、色さえも美しいと思う。この蜂蜜ありきであれば、金が高額なのが分かる、とも。
作業服は全身を覆う白。頭部分は幾重にも重ねられた透ける布と、藁で出来た顔前方部分の覆い。相当重く暑いが、自分達を守るための装いだ。不快な思いをしても、収穫の喜びはかけがえのないもの。
「……熊も今の所出ず、充分に蜜を蓄えられたようだな。蜂の溜める蜜というのは、此れ程までに美しかったか」
「そうですね。……蜂にとっては熊も勿論敵ですけれど、一番の天敵って言えば……雀蜂かも知れませんね」
「……雀蜂? 同じ蜂では無かったか」
「雀蜂は、蜜を集めませんから。昆虫、それも蜜蜂さえ襲うんですよ。だから寄り付かないよう、気を配ってやらなければならない」
「……同族でありながら、小さきものを襲うか」
雀蜂の脅威はディルも分かっている。決して刺されてはならない毒虫だ。
これまでに、蜂についての別の知識も身についている。普通に暮らしていれば必要のない所まで。
女王を中心として、寿命の短い働き蜂が身を粉にして巣を支える、とか。
雄の蜂は繁殖の為だけに生きている、とか。
蜂が蜜を集めるお陰で受粉できる花や野菜も多い、とか。
蜜蜂は一度刺したら針が抜けて死んでしまうけど雀蜂は何度も刺せる、とか。
雀蜂は蜜蜂の巣を乗っ取る、とか。
それらをディルは、知識として吸収し、また実物を見た。だから、こんな感想を抱く。
「まるで、我と同じだな。……他害する事でしか生きられず、権力に傅いて命を繋ぐ。世に生きる同族を害し、その暴虐を他種族にまで向ける。過去の罪を、蜂を通して見せられているようだ」
「……けど、ディル様の場合は罪だったのでしょうか? それに今は、生きて行くための他の術を見つけられたのではないですか」
「ああ」
他の術なんて、騎士でいる間は見つけられなかったろう。
罪で無かったとしても、同じだ。環境が違うだけで、していたことは同族殺し。自ら考える事を止め、命令を受けて誰かを殺す。それが敵国でも、犯罪者でも。
「……妻のお陰だ」
妻が王妃に掛け合って、裏ギルドも人を誅殺する事が無くなった。
汚れた手で双子を抱き上げなくて良くなった。
妻の頬を撫でる指が、撫でた後に血の線を引くことも今は無い。
蜂のような羽は無いが、ディルの足は陸続く限り、何処へでも行ける。
空の下で蜜蜂相手に穏やかな時間を過ごせるだなんて、過去の自分は思いもしなかった。
「妻が淹れてくれた紅茶に蜂蜜を入れた事がある。砂糖と違う甘味を感じ、気に入ったものだ。この蜂蜜も美味いのだろうな」
「お召し上がりになりますか? これまでかなり手伝って頂きましたし、謝礼と別に瓶をお渡ししますよ」
「成らば、妻にも食して貰いたい。我が養蜂を手伝った蜂蜜、きっと気に入ってくれる」
「そうでしょうね、他の誰でも無いディル様がお手伝いくださった蜂蜜です。でもアルギン様は蜂蜜よりお酒……、あ!」
ニニシャが何事か大声を上げる。ぶん、と耳元を蜂が掠める音さえ掻き消えるほどだ。
流石のディルも少し驚いた。手にしていた巣枠を引き出して巣にしがみついている蜂を落とし、幼虫のいない部分を確認して回収し、新しい巣枠と入れ替える。また新しく作られる巣には、再び蜜が溜められる。
その一連の作業をしている間に、ニニシャはディルに提案した。
「蜂蜜を使ったお酒、ディル様はご存知ですか?」
「蜂蜜酒……? いや、知らぬな。我は酒を飲まぬし好まぬ」
「ミードって言うんですけれど、製法は比較的簡単です。ディル様が採蜜した蜂蜜で、アルギン様にお贈りするために作って見てはどうでしょう?」
「……ミード……」
酒。自分は飲まないディルでも、その提案は実に魅力的だった。
酒を好む妻が、自分の採蜜した蜂蜜で作られた酒を飲む。日頃からディルを愛していると宣う彼女が、それを喜ばない訳が無い。
年上とは思えない愛らしい笑顔を浮かべて、ディルに感謝と愛の言葉を口にする。その未来は不確定だが、ほぼ間違いないだろう。
瞼の裏には一瞬で妻の喜ぶ顔が浮かんで、どうしてもその顔が見たくなる。永遠を誓ったただ一人の幸せそうな顔。
「……どうすれば作れる?」
「まず採蜜からですね。秋になれば、夫婦に相応しい花の単花蜜で作るミードが作れるんですけれど……うちは今の時期は百花蜜で作るしかないですからね。そうと決まれは早く戻りましょう。汗もかきましたし、うちでお風呂も入ってくださいよ。蜂蜜の石鹸も置いてあります」
「借りよう。汗みずくでは、妻子の傍に寄るのも憚られる」
巣を採取している間に時間は過ぎ、昼食にとジュリアは弁当を持って二人の所まで来る。
昼食の後に店に戻り、採蜜や身支度、それから夫婦に是非にと出される蜂蜜を使った菓子や紅茶。
ディルの休息日は充実していた。妻子と共に過ごす時間も幸せだが、最初はただの手伝い気分だった養蜂は趣味になりつつあった。
ニニシャの体調が思わしくない週は多めに手伝いに行ったし、ジュリアの体調が良くない時は娼館通りに御用聞きに向かう。娼館でも蜂蜜と、蜜蝋を使った蝋燭はよく売れた。
今まで趣味らしい趣味が無かった男が、初めて楽しいと思える事に出逢えた。
それが妻にあらぬ疑惑を抱かせてしまったのは、想定外だったが。
その誤解を解くために、ディルはニニシャと一緒に店の奥を案内する。
地下室に続く階段を下りれば、蜂蜜酒が入った樽の並ぶ部屋がふたつ。
その中に、ディルが採蜜した蜂蜜が使用された樽がひとつ、彼の名前を書かれて他の樽と一緒に横たわっている。