7.まだ、耐えられる
七番街の娼館通り、その中でも屈指の人気を誇る娼館『白豹』。
アクエリアはその中に入ったディルを見たが、支配人は居ないと言う。
……流石に、通用しない言い訳だ。言われた側のアクエリアは、思わず呆れが顔に出てしまった。
これでは、自分の見たものが嘘だと言われているようで。
「居ない? そっか、分かった。邪魔したな」
けれど次にアクエリアが驚いたのは、アルギンにだった。くるりと支配人に背を向けて、それ以上何も言わずに外に出る。
これまで見て来たアルギンは、意に反した事を言われれば「分かった」と言った口がついているのと同じ体で実力行使に出る女だ。先程ラビィとやらに言った『教育』のように、肉体言語で分からせに掛かるのが常だったのに。
慌ててその背を追いかける。外は先程よりも、様子を窺う娼婦の数が増えているようだった。
「ちょっと、アルギンさん! 良いんですか、あれ絶対嘘――」
「アタシ相手に、シシィは嘘吐けないよ。今のアタシに嘘なんぞ吐いたら、こんな通りお前さんに命令して全部燃やしてやる」
「俺に何でもやらせようとするの止めてください」
娼婦の垣根は、この異質な二人が近くまで行く事で蜘蛛の子を散らすように逃げていく。二人も別に、散らしたくて寄ってる訳では無い。帰り路がそっちだというだけの話だ。
「シシィが居ないって言ったら『居ない』んだ。雰囲気から察するに、逃がされたのかも知れないね。だから、居ない」
「……部屋を全部確認していいって言っていたのはそのせいですか?」
「かもね。そんで、あのシシィの言い方からして、ディルが入って来ていないって可能性は絶対に無い。ディルは間違いなく、あそこに入った」
「次の目的地を聞けば良かったんじゃないですか? ……しかし、分からないものですね。潔白を示すなら、あそこでディルさん出て来ても良いんじゃないんですか?」
「わかんないよ? ディル自身、娼館で嫁に発見されること自体が嫌なのかも知れない。でもラビィとかいう女居たじゃん、あれ絶対ディル誘って断られてるよ」
「それは、なんとなく思いましたが」
「アタシね、体だけだったら他所に向いても仕方ないかなって思っては居たんだよ。ウィリアもバルトもいるし、妊娠中とかあれだけ酷い悪阻だったしね。それは今でもずっと変わらないんだけど」
道を行くアルギンの歩みが、遅くなる。
「これだけ、何かを隠したがってるディルの心が、本当に誰かに向いてたってなった時、アタシはきっと喜べないよ。あの人が本気で誰かを愛してるとしたら、喜ばしいことなのに」
「……」
「アタシが一番じゃないかもって、覚悟はしようとしてる。だからこそ、隠さないで欲しいよ。アタシ、心は広くないけど、ディルが今以上幸せになれるってんなら笑顔で見送るくらいの事はするよ」
「……結婚までして、子供までいるのに?」
「結婚も子供達も、心を縛る為の枷であってはならない。……この自由国家で暮らすからには、それくらい覚悟しておかないとな」
「有り得ない」
短く吐き捨てたアクエリアは、耳にした恋愛観を唾棄すべきものだと思っている。
心変わりが許されるのなら結婚なんてするべきではない。……けれどアルギンは、全て覚悟を決めて寄り添う事を決めたのだ。
すべてディル主導の愛。綺麗ではない、濁った沼のような異臭さえ漂う自己満足。それが不快でアクエリアの口をついて出てくるのは嫌味ばかり。
「貴女、ディルさんが死ねって言ったら死にそうですよね」
「ウィリアとバルトが小さいからすぐには死ねないかなぁ。ちょっと時間貰う」
「……金の無心とかにも無条件で渡しそうですよね」
「ディルがお金? 珍しいけど渡すかな。頼って貰えたら嬉しいよ」
「それで渡せる金が無くなって、体で稼いで来いって言われたら?」
「分かった、って言って王妃殿下に仕事貰ってくるかな」
「そうじゃなくてですね、……ああもう!!」
話の通じないアルギンに苛立って、それ以上自己嫌悪の感情を呼び起こす発言をしないうちにアクエリアが地面を蹴った。その一瞬で、空高く上っていく。
アルギンは彼の靴裏を見上げながら、自分の事を心配してくれることに感謝を抱かずにいられなかった。
疑似家族だとはいえ、彼の気持ちは確実にアルギンに向きすぎている。恋愛が絡んだものでないけれど、だからこそ余計に身に有り余るほどの愛。親愛と言えば良いのかも知れない。心の底から誰かを心配するなんて、本当に彼はダークエルフらしくない。
やがて近隣の建物の屋根に上がった彼は、周囲を見渡してディルの姿を探す。少し時間が経ってしまったのだ、もう彼だって近くには居ないだろう。
後手に回って、煙に巻かれて、それでも大人しくしていろと言われる。
「……」
アルギンの味方は居ない。
誰も彼も、ディルの味方ばかりする。
彼が浮気をする訳が無いと言われる度に、泣きそうになっていたアルギンの心なんて誰も知らないのだ。
アクエリアさえ分かってくれない。分かろうとしてくれるけれど、決定的な所は理解してくれない。
彼の幸せだけを願う事が悪いと言わせない。
この愛情は、信仰とも違う。彼に向けた感情が本当に信仰だけだったなら、性愛さえ抱かなかったろうから。
もう見失っただろうな、というアルギンとは対照的に、アクエリアは目を吊り上げて周囲を探索している。もういいよ、という意味合いで手をバツ印にして見せたのだが。
「アルギン!!」
「わぁ!」
そのアクエリアが、再び唐突に下りて来る。軽く跳躍した程度の足音しかさせないのが、彼なりの見栄なのだろう。
驚いて後退したアルギンだが、その驚愕は更なる感情に塗りつぶされた。
「あっち、七番街の門の方向!! ディルさんが向かってます!」
「――……」
「貴女が聞いてきたのと同一人物かは分かりませんが、近くに女性もいました。言葉を交わしているように見えましたよ。お腹の大きさまでは、未確認ですが」
「……そ、う」
「追いかけましょう。俺が先に行って捕まえ――」
「待って」
再び飛び上がろうとしたアクエリアの袖を、掴む。
普通であれば絶対しない程の淑やかな引き留め方だ。
「女も、一緒に居るの?」
「……ええ」
娼館に乗り込んだ時と対照的な、怯えたような声だった。
「……髪の、色は? 身長は、どのくらい? 顔は?」
「………背中しか見えません。頭には頭巾を被っていました。その頭巾からはみ出した髪は、明るい茶色だったように思います」
「明るい茶色……。ソルビットよりも?」
「黄色に近く見えたから、そうですね」
「……」
瞳孔が揺れている。
蒼白なアルギンを目の前にして、アクエリアは早く行こうなどと急かせない。
娼館とは話が違う。『特定の誰か』に心を開いているディルを、目の当たりにするのだ。
アルギンが涙を溜めて、首を振った。その振りが大きくなれば、自然と流れ落ちていく。
「門に向かってる、って言ったよな。城下外に行くのかな」
「……恐らくは」
「名簿」
それは、当人達と顔を合わせたくないが為の逃げか。
それとも、証拠集めをしようとする強かさか。
「城下外に出るなら名簿に書かなきゃいけない。ディルの隣にある名前が、その女だ」
「……アルギンさん」
「今更だよ、もう急ぐ必要も無い。もう、止めるなんて無理なんだから。今は、相手の素性が分かればいい」
心の分からないディルにばかり臆病になるアルギンの悪癖。
だから長い事想いを募らせていた。今でも変わらぬ熱量の愛は、今は自分を焦がしている。
「……仕方ないですねぇ」
焼け付く痛みを知っているから、アクエリアも今は大人しく言われた通りにする。アルギンの選択を尊重するのは、その苦しみを少しは理解出来るから。
理解しようと歩み寄っても、アルギンの心は動かないけれど。
「少し歩いて向かいましょうか。その頃には、あの二人も門から出て行くはずだ」
「……ありがと」
折れたアクエリアは、アルギンを伴って大人しく歩く。遠くない距離だが、門が近付くにつれ行列が出来ている。その中に、ディルの姿は無かった。
手続き場は、小屋で行う。
まるで店や屋台のように大きく開いた軒先で、係が居る中と手続したい者が訪れる外とに分かれている。座るまでの空間は無く、手続きも特に規制が無ければ決められた手順で終わる。
城下外に住んでいる者は、名前と住所を書けばいい。他にも、手持ちに何かあればそれも書きつける。
別に外に出る事も無いのに、この行列に並ぶのか――と、アクエリアがげんなりした表情を浮かべる。けれどアルギンは行列を素通りして、城下外に続く門の側にある手続き場の側に向かう。
「邪魔するよー」
「え、うわっ!!」
小屋の裏手、関係者が出入りする扉を引っ掴んで無理矢理開ける。中で作業中の係員が驚いていた。
アクエリアも急いで駆け寄った。
「ちょっとアルギンさん! 何してるんです!!」
「え、別にアタシら城下出ないし別に良くね」
「貴女ねぇ!!」
「え、えっと……アルギン様? そちらの方は」
やいのやいのと口論し始めた闖入者に、行列はやや離れて行ったし中に居た係員は先の行動に悩んでいる。これが完全に知らない者であったら排除対象だったが、相手はあのアルギンだ。
「これ? うちの仕事人。ちょっと相談があってお邪魔させて貰ったよ」
「相談、ですか?」
「ちょっと城下外行った奴等の名簿見せて」
「は……、はぁっ!?」
これもまた、無理難題。アルギンの側に居るのが今更ながら恥ずかしくなってきたアクエリアは頭を抱えた。
言われた側の係員も、眉を下げた困った顔をするのが精いっぱいだ。
「……無理です……」
係員は頑張った。
「なんでだよ!!」
「外部の方には見せられない事になってるの、御存知でしょう? アルギン様も、第三者に勝手に出街履歴見られるの嫌じゃないですか?」
「アタシに疚しい所ないもん! 出街履歴見られたって何も思わんな! アタシも騎士だったから!」
「胸張るところ違いますよ。駄目って言われてんだから諦めなさい」
威勢よく係員に突っかかり、変な所で自信に満ち溢れた顔をする。
これが先程までめそめそしていた女か、と思えばその百面相ぶりに不気味になってしまう。
暫く押し問答が続いて、アクエリアが無理矢理にでも引っ張って帰ろうかと思った時。
「――喧しい蝿でもたかりに来たのか、と思ったが」
どこかで聞いた声がした。
「お前か、アルギン。少しは場所を考えたらどうだ」
濃紺の髪を撫でつけて、神経質そうな目元と不快そうに曲がった口。
白と深緑を基調とした騎士服に、金色の縁取り。
第一王子、アールヴァリンだ。
二人の背後から現れた彼は、露骨に不機嫌そうな顔をしている。




