2.続く煩悶
曇りがちな毎日の、僅かに晴れ間が見えるとある日に、アルギンは双子を連れて王城まで出かけた。王妃に報告しなければならない事も幾つかあり、ついでに双子の成長も伝えるつもりだった。
幸い、待遇は送迎の馬車が来るほどだ。馬車に乗るのはアルギンだけだが、速度を出さず街中を走ってくれる御者は双子を気遣ってくれた。
そして通されるのは謁見の間ではなく、地位ある者以外では家族や友人が通される――王妃の私室。
一歳でこの部屋の常連となってしまった双子は、今日も自由に部屋中を這い回ることが許された。
向かいのソファに腰掛けるのは、その日は私的な時間としていつも身に着けている顔前の垂れ幕を取り払っている。くるくると動く葵色は、ここ最近見られるようになった王妃の瞳。
「あの、王妃殿下」
一通りのギルドの報告も終わり、近況も伝え。
堅苦しい雰囲気の無くなった室内で、アルギンが口を開く。
「どうした」
「お聞きしたい事があるんですけれど、……その」
床に敷かれた若草色の絨毯の上を、我が物顔でどしどしと這う双子。「あぅー」なんて言いながら、王妃の側に仕えている者の足へと縋り付く。
アルギンは王妃のお気に入りだ。その子供となれば無下に扱えず、動けないまま棒立ちになっているのは――階石 暁。
さっきから双子に纏わりつかれては「ちょっと」「離れなさい」などと小声で苦情を申し立てている。しかし、相手は一歳児。話を聞く訳もなく。
「歯切れが悪いな? 其方から聞きたい事、などと言われれば答えるのも吝かでは無いが、質問内容が分からぬと答えられぬ」
「……はい。その、………その、殿下はこれまでの恋人とか……陛下に浮気されたことがありますか?」
「え?」
年齢や立場に見合わない、どこか少女的な雰囲気さえ漂わせた疑問形。
王妃は元から大きな瞳を更に大きく見開いて、言われた言葉を反芻した。
「浮気? 浮気と言ったか。これまでの、……」
「す、すみません。流石に突飛な質問でしたか」
「……言えと言ったのは私だ。そこは気に病むな。……しかし、これまでの恋人……なぁ。陛下は浮気は無いからな。そもそも、一国の主が他に側室がいる方が当たり前の話でな」
「そくしつ」
「ふふ、陛下の場合は名ばかりの側室だよ。私の機嫌が悪い時に、陛下は秘密裏に外出なさるんだ。そうすれば、私の不機嫌は陛下の寵愛を側室に向けられている事が原因だと周囲は理解するだろう。私は直接的に不機嫌の理由を聞かれずに済む。……以前の私は、聞いて来た者達全員に折檻していたからな」
「え、……」
「昔の話だ!」
顔を垂れ幕で隠していた頃は分からなかったが、王妃の表情はころころと変わる。アルギンと年齢も十と離れていないから、そう不思議ではない。
こうして接すると、王妃も普通の女性だ。数奇な運命に巻き込まれた、不遇の王妃。
「まぁ、だから、私はその質問に否と答えるしか無いのだよ。……私が特別な関係を結んだ者は、それまではどうあれ誠実だった。……というか、浮気したら殺すからな。私が居ながら他所にも手を出すなんて痴れ者は存在してはならん」
「すっごい自信だぁ……、流石殿下。……でもその口振り、陛下以外に親しくしていた人がいた……ってことですか?」
「……それも、昔の話だよ」
遠い目をして、再びアルギンから提出された書類に目を通す王妃。
内容は裏ギルドに纏わる事ではない。
口頭で伝えるだけでいい内容を、こうして書類に纏める生真面目さは騎士隊長だった時から変わらない。……その報告書の中にある、酒場に住む者の名前に目を細める王妃。
「昔の話も、もう風化していくだけのものだ。……しかし、どうしたアルギン。恋愛事には特別疎かった其方がそんな話を聞いてくるなんてな」
「……あ」
「近所の婦人と井戸端会議とやらで愚痴を聞かされたか? 世に蔓延る愚かな男にはそういった願望を持つ者も多かろうが、あのディルを伴侶に持つ其方には縁遠い話だろうになぁ? ははっ!」
「………」
「……」
「………」
「おい……?」
軽く笑い飛ばした王妃であっても、アルギンの気分の沈んだような沈黙には意味を感じずにはいられない。冗談にしても有り得ないが、笑ってはいけないように感じられる空気が針のように肌を刺す。
王妃でさえ、ディルへの認識がそうなのだ。あの男だけは、世界が二度三度と引っ繰り返っても浮気をする訳がない、と。
他の女に靡くような男だったなら、アルギンと結婚するために王妃に刃を向ける訳もない筈だから。
「『あの』ディルがか? 何かの間違いだろう。汝等夫婦は今でも仲睦まじい事で有名で、ディルの子煩悩さを噂せぬ者はいなかったほどだぞ。其方等家族を何よりも愛するあの者が、そう他に現を抜かすなど――」
「あい、する? 殿下には、あの人が、アタシ達を……アタシを愛しているように見えますか」
「……アル、ギン?」
一瞬不穏な言葉を漏らしたアルギン。
ディルのあの視線が、瞳が、家族を見る時の穏やかさを愛でないなら何というのか。
あんな人形崩れが今になって漸く覚えた感情が、愛でないなら何なのか。
王妃の言葉が出るより先に、アルギンの頬に涙が伝う。
「言葉が無かったらね、アタシ、馬鹿だから分からないんです。アタシはディルの事大好きだし愛してるから、事ある毎にそう伝えているのに、あの人はずっと言ってくれない。隠し事されてるのは確実で、不安なのに、あの人は何も言ってくれないんです」
「……」
「ああいう人だって、分かってます。でも、ここ最近は……ちょっと、辛いなぁって……思っちゃって」
側に長く居ればその分だけ、これまで思わなかった不満が出てくる。
愛の言葉を求めていたのはずっとだが、ぽんぽん愛を示すアルギンと違ってディルの口は重い。通常の人との交流さえ最低限しかしない男なのだ、愛の言葉は更に言いにくいだろう事は分かるけれど。
それが、彼の性質だ。
王妃はそれが昔から分かっていたので、アルギンの涙に慰めを差し出せない。
そんな男が良いと言ったのはアルギンなのだから。
「……しかし、アルギン……。あの男は」
涙を流す『友人』に心苦しく思う王妃だ。なんとか頑張って、その場を取り持てるだけの言葉をかけようとした。
けれど。
「あの男が浮気ですか! ついにやりましたか!! 離縁届いつ出します!? ここに独身の男が一人いますよ、ウチはいつでも貴女との婚姻届け出せるから大丈夫ですよ!」
話を隣で聞いていた暁が、いつも閉じている瞼を開き濁った緑を喜色に輝かせていた。
真っ直ぐにアルギンを見つめながら熱に浮かされたように語る声は、アルギンの慰めにも聞こえるが急かしている。自分がいるから早く離婚しろと、そればかり。
涙に濡らした瞳で暁を見ているアルギンは、どこかその言葉が理解出来ずにいる顔をしている。
アルギンが暁の言葉に関心が薄いのは以前からだ。こうして目の前で口説かれているというのに、心が動く様子を見せない。
「だぁ!!」
「痛ぁっ!!」
母親よりも敏感に反応したのはウィスタリアで、それまで暁の足許でゴロゴロしていたかと思いきや脛を思い切り拳で殴り上げた。
一歳程度の子供の力では大した痛みでもないが、場所が場所だけに暁は瞼を開いたまま悶絶するに至る。
「何ですかぁこの子! 血の繋がらない父親になるかも知れない男に!」
「ぶぶぶぶぶ!!」
「汚ぁ!!」
大声を出した暁に嫌悪感を覚えたのか、今度はコバルトが唇を震わせて抗議している。
誰かから好かれる性質ではない暁だが、赤子にここまで露骨に嫌われてしまえばその場から退散するしかない。少し距離を空けて、双子に威嚇するような顔を向けている。
「……目の前で母を口説かれては、幾ら物心のつかぬ子供でも不愉快に思ったのだろうな。猛省せよ、暁」
「くぅっ……! ウチ悪い事してないじゃないですかぁ!」
「反論は許しておらんぞ」
「……」
それまではじゃれ合いの延長線上のような雰囲気ではあった筈なのに、王妃の言葉に急に棘が増えた。
暁は宮廷人形師という立場上、王妃に逆らえる訳もない。自分は父親からその位を引き継いのだし、父にその位を与えたのも王妃だ。
それまで和やかに遊んでいた双子も、暁を警戒して唸り声をあげている。まるで幼獣のようだが、母親が手招きをすると這って近づこうとする。そろそろ立って歩いてもいい頃だが、二人にはまだつかまり立ち以上の行動が見られなかった。
「ぁうー」
「ぁあう」
「よしよし。二人共、大丈夫だから。ごめんね、びっくりしただけだよね」
涙に潤んだ瞳もそのままに、双子を片腕ずつで抱き上げては膝に乗せる。行儀よく、嬉しそうに、双子は膝の上で言葉にならない発語で会話を楽しんでいた。
「……しかし、アルギンはそんな所まで変わらぬな」
「そんな所?」
ぽつりと王妃が漏らした言葉。思い当たる節が無くて不思議そうに聞き返すアルギン。
「以前から、アルギンは暁に言い寄られても全く靡かぬ」
「え、これ口説かれてるんですかアタシ?」
「ちょっと!?」
「……其方、流石に鈍すぎやしないか?」
「違いますよ。ほら、アタシ城に仕える前から酒場で暮らしてたじゃないですか。兄さんに引き取られた時から」
「ああ、そうだな。エイスの養い子にして、妹として育てられた。覚えているぞ」
「兄さんから教えられた言葉そのものだなって前から思ってたんで」
「エイスの?」
それは王妃として初めて聞く話だ。二人が兄妹として暮らして交わした言葉など、これまでは知りようが無かった。
特に――既に、エイスが殺された今となっては。
「兄さんから、この城下や酒場で暮らしていく中で一番大事な事を覚えなさいって教えてくれたんです」
「ほう? あの者がそんな大層な事を知っているとは思えぬが」
それは、一人の女である王妃には考えさせられる話で。
暁には耳の痛い話だ。
「『酔っている時の好意の言葉を疑え。素面の時に好意を口にしない男を信じるな』。……匂わせるだけで好意自体をはっきりと口にしないなら、それは逃げだ、一考の価値も無い。……って、ずっと聞いてました」
「………」
「……」
「アタシ、暁から『好き』とか『愛してる』とか聞いた事ありませんから。でも、ディルは言ってくれた事もある。……だから、信じてた。ううん、ずっと、愛してるって言われる前から、アタシは、ディルを信じたかった」
ディルですら好意を伝えたのに、暁はただの一度も無い。
それに気付いた時の本人が一番愕然としていた。表面から見ていれば気持ち悪いほどに露骨な暁の好意も、確実な言葉無しにアルギンは受け入れたりしない。
言葉さえ無かった頃のディルでも、傍にいたいと望んだのはアルギンの方だったのだ。
「……すみません、殿下。こんな無駄話聞かせちゃって」
「あ、……いや、そんな事、気にする必要は……」
「もう、アタシお暇しますね。……早く帰らないと、ディルが心配しちゃう、……、してくれるのかなぁ」
どこか譫言のような声は、ちゃんと王妃や暁の耳にも届いていた。
双子を抱きかかえる腕はちゃんとしているのに、足取りがどこか覚束ない。ふらふらと出て行くアルギンを、暁も見送りはしなかった。
まさかあの男が浮気をする訳が無い。
二人の認識は同じだ。
けれど、それとは別に妙に心に引っかかるものがある事も、二人をアルギンの見送りに行かせない足枷のようになっていた。




