1.予兆
愛する人と四六時中一緒の生活。
……聞こえは良いが、その実態は案外ろくでもない。
どちらかが片方を疎ましく感じ一人の時間が欲しいと望むようになるか、或いは破滅が待つ共依存になるかだ。それでも余程の精神異常者同士でなければ、後者になる事も難しいのだが。
嘆かわしい事に、自ら喜んで精神異常者になろうとした者もいる。どの道、恋や愛に身を窶す者など精神に異常を来しているのだ。でなければ、恋も病扱いなどされなかっただろう。
騎士隊長の職を引退して酒場で暮らすディルとアルギンの夫婦は、周囲にもそれはそれは仲睦まじいものとして知られている。
酒場の主として、家庭の長として、全てにおいて優先権と決定権を持つアルギン。
そしてその妻を支え、強く愛され、感情こそ薄いものの人並みの生活を謳歌し始めたディル。
二人の間に愛らしい双子も生まれて、誰もが疑いようもないほどの順風満帆な生活を送っている。
騎士団を離れても、二人は寄り添い合って生きていた。他人から見た二人の間には、障害は何もないと思われた。
二人が周囲を巻き込んだ騒動は、夫婦の間に産まれた娘である双子が一歳を数えようとする季節に起きる。
雨の降る前の、空の翳りが増える頃の話だった。
春を過ぎて緑色の濃度が増す木々や草花。アルギンの心の中は、陰りと活気が同居している今の季節のように複雑だった。
「……ディルがね、浮気してるかも知れないんだ」
最近、表情が暗くなることが増えたアルギンからその相談を受けたのは、まだ日が高く昇っている時間帯に酒場一階まで下りてきていたアルカネットとアクエリア。
二人は日常的に作り置きされている温い珈琲を淹れたカップを手に、目を点にしていた。
今日は双子に逢いに遊びに来ていたソルビットも同席している。同じく目が点だ。
「無いな」
「有り得ないですね」
「絶対無いよ」
即座に返される返答は、言葉選びこそ違うが全員一致。
三様の返答に激昂したアルギンは、背中に長女、腕に次女を抱えたまま声を荒げる。
「だって! 最近のディルおかしいもん!!」
「おかしかろうがおかしくなかろうがあの男に浮気は無理だよ。少し考えて見たらどう? あのディルだよ?」
「……でも」
母の体温を感じて、安堵と心地よさに眠る双子は煩いだろうに起きる気配が無い。爆睡といっても過言ではない熟睡具合に、母親は言葉を溢し始める。
「……週に一回、お互いにお疲れ様って事で、交代で休みの日を作ったんだ」
「ふぅん?」
それは夫婦が互いに騎士を辞めてからの話だ。設立されて間が無いその制度は、互いの心の衛生の為なのだが。
「まだウィリアもバルトも小さいから目が離せないし、酒場だってもう店開いたし、ディルもそんな素振り見せないけど、あれで結構疲れててね。だから一日くらい休んでよ……って言ったのに、ディルったらアタシも休まないといけないって言ってくれてね? だから週に一日だけ、どっちかが休んで、次の週は交代して休むって事にしてくれてさ。アタシの事も気遣ってくれるなんて、あの人やっぱり優しいと思わない?」
「惚気部分は省いて貰っていいかな」
「なんだよソルビットー。……ん、まぁそんな感じで今日までなんとか来たんだけど。……ディルがね、最近その休みの日が変で」
腕に抱えた次女のコバルトの背中をとんとんと優しく叩きながら、アルギンが俯く。
父親と同じ色素を体に宿した、愛らしい子だ。
「最初は、少し夕食残すようになったの。……量多かったかな、ってその時は思ったんだ」
「……確かに、お前の飯はいつも量が多いが。でもあいつ、確かに普段は完食してるな」
「だろ? 普段食べてるのと同じ量出して残すって事は、外で何か食べてるってことだよな?」
アルカネットがアルギンの言葉に同意した。ディルが食事を残すところは殆ど見たことが無くて、そのお陰かディルの元々恵まれた体躯が更に逞しくなってきている。肌も髪も質感が独身だった頃より調子が良くなった。
それはそれとして、休日に設定された日で、外出して何かを食べる――なんてことは普通の事であるはずなのだが。
「珍しいな、って……思ってて。でもそのうち、休みが近付くと、ディルがそわそわし始めたんだ」
「そわそわ?」
「何か楽しみな事でもあるのかな……って思ってたら、朝も早い時間から食事も摂らずに外に出てって。……帰りは夕食時間ギリギリ。何してるんだろうって思って聞いてみたら、『そのうち、いずれ』ってだけ返ってきて」
「今は教える気がない、ってことっすかね?」
「それとも、……今だけだから、知る必要はないって事でしょうか」
ソルビットとアクエリアの言葉に、アルギンの表情は更に暗くなる。
「昨日がね、ディルの休みだったんだけど。……服の匂いが変わってた」
「え」
「は?」
「アタシ、いつも決まった石鹸で洗濯してるんだ。……でも昨日の夜は服の匂いが違ってた。石鹸か香水か分からないけど、なんだろう……甘い、濃い匂いって言うか……それが服全体からして。……おまけにね、昨日、『風呂は入って来た』って」
「あ!?」
風呂に入って来た。
それはつまり、入浴するような出来事があったということ。
公衆浴場に入るような男ではないというのはこの場に居る誰もが知っている。ならば風呂を課して貰える程に懇意にしている誰かが他にいる訳で。
「……ちょっと待ってアルギン、整理させて。なに? あのお人形、食事も風呂も余所で済ます器用さがありながらそれを直接言っちゃう? 言っちゃったの? あたしのアルギンを何だと思ってるの?」
「ソルビット、アタシいつからお前さんのになったんだよ。アタシはディルのだ。そんでディルの事はもう二度と人形って言うな」
「アルギン、その服まだありますか。どんな匂いか気になります」
「あ、あるにはあるんだけど……すまん。辛くて、もう洗っちゃった」
ソルビットが激昂し、アクエリアが香りの詳細を確認しようとする。
けれどソルビットの言葉は今言っても仕方のない事で、アクエリアが提案した確認はもう出来ない。
濃い、甘い匂い。それが女の香りだというのは疑いようのない事だった。
「……ディルが本当に浮気してたらどうしよう……」
誰に憚るでもなく、大粒の涙を流し始めるアルギン。
アクエリアもソルビットも、アルカネットでさえその涙に言葉を失った。
アルギンはずっと、ディルを愛している。
交際するずっと前から、結婚した今でも。
「浮気なんてする訳ないよ。……ねぇ、アルギン。浮気出来るような男だったら、とっくの昔に誰かと浮名を流してたって思わない?」
「……でも、それは……ディルが、そういう気分じゃなかっただけかも知れないし。それに、アタシ以上に好みの人がいたら分からないもん」
「……」
好み。
アルギンがディルの好みを何と思っているか三人には分からないが、泣き濡れるアルギンより分かっている事がある。
――毎日子供を風呂に入れ、その面倒をほぼすべて見て、毎日嫁の手料理に舌鼓を打ち、毎日妻と同じ寝台で寝に入り、日中も妻の傍からなかなか離れないような男が浮気をする訳が無い。
積極的に誰かと関係を持ちたがらない男が、傍から離れたがらないのがアルギンと双子達だけだというのに。
少なくとも、同じ敷地内で生活しているアルカネットやアクエリアには、言われるまで浮気の兆候にも気付けなかった。あれだけ妻と子供達にべったりな父親を疑う事も有り得ない。
「んで? その渦中の人は今どちらに?」
「買い出しお願いしてる。近所の店三箇所くらいにだけど……そろそろ帰って来ると思って、待ってるんだけどね」
「……へぇ?」
「待ってる、けど……随分遅いなって……思って。……だから、こんな話……したんだ、けど……まだ、帰って、こなくて……」
四人の間に重苦しい沈黙が流れる。
確かに、ソルビットは酒場に遊びに来てから一度もディルの姿を見ていない。近所に買い出しに行くくらいなら、ソルビットが紅茶の二杯目を飲み干すまでに帰って来ているはずだった。
いや、でも、そんなまさか。
どうにかアルギンを慰めようとする三人が、この酒場出入り口に備え付けられている鐘が低い音を立てるのを聞いた。
「……?」
荷物を持って入って来たのは、噂の当人であるディルだった。
両脇に紙袋を抱える、その天辺からは野菜が顔を覗かせている。他にも肉だったり干し魚だったり、色々な頼まれ物が入っていた。
「お、おかえりディル。ありがとう」
「ああ」
一先ず厨房へと荷物を持って行ったディルが戻ってくると、妻の異変にいち早く気付く。
「どうした」
「……え?」
「目が赤い」
アルギンの腕の中のコバルトを、当たり前のように受け取り抱きかかえながらの言葉。結婚後にこんな気遣いが出来る男になるなんて、誰が想像できただろう。
妻の顔を覗き込むディルに、アルギンは言い訳を用意していた。
「え、えへへ。そう? お昼の準備に玉葱切ってたからね。今日は玉葱のスープとピクルスのソース用意しようと思ってて、バゲットも焼くよ」
「そうか」
アルギンは苦笑しながら顔を逸らすが、他の三人はその一瞬のディルの表情をちゃんと見ている。
愛おし気に細められた瞳でアルギンを見る、その顔。
これで浮気しているなんて有り得ない――と、思ったが。
「ん?」
ディルの腰に提げられた小さな荷物入れに気付いたのはアルカネットだ。言われなければ気にも留めないような黒い袋。持ち主の体で言うなら、握り拳程度の大きさだ。
なんだこれ、と小声を漏らしながら、興味本位でそっと近寄るアルカネット。そして、伸ばした人差し指で触れてみようとした、その瞬間。
「――触るな!」
大声をあげたディルが、アルカネットの指を拒んで避ける。
腕の中のコバルトは眠りから目覚め、父親の怒声に似た大声に驚いて泣き出してしまった。
わぁあ、わぁあ、と甘え泣きのような声に、ディルの表情も苦虫を嚙み潰したようになる。
流れる、緊迫した空気。
「……部屋に戻る。用が有れば後から呼べ」
「う、……ん」
ディルはコバルトを抱いたまま、一緒に部屋に連れて行ってしまった。
素っ気ないのはいつもの事の筈だが、その様子のおかしさに気付かない三人ではない。
何かを隠そうとしている違和感は、あの男にしては有り得ないものだ。探られて痛い腹なんて持っていたのかと、ソルビットの顔が驚愕に染まる。
「……ソルビットさん」
そんな彼女に声を掛けたのはアクエリア。
「貴女から見て、今のディルさんの怪しさはどのくらいですか」
「……怪しさ……つったって………」
――そんな事を言われても。
悪い意味で裏も表も無いような男が、あんなに分かりやすく隠し事をするものなのか。
これが浮気に直結するかといえば疑問が残るが、隠し事をしているのは確定した。
それに、ディルはこれまで持ち物にあんな異様な執着など見せなかった筈だ。
「他の男なら面白いから傍観も出来るけど、……相手はあのディルだよ? 浮気する訳ないじゃんって頭じゃ分かってるけど……他の奴だったらほぼほぼ浮気に繋がる怪しさなんだよなぁ」
「俺も同意見です。……ねぇアルギン。あれ、何なんです? 中身知っていますか」
アクエリアが問いかける先のアルギンは、虚ろな目をしている。
「……知ら、ない。朝の、出掛ける時、……持ってなかった」
「持ってなかったぁ?」
「買ってきたのかな。誰かから貰ったのかな。中身、何が入ってるのかな」
他の者が疑問に揺れたということは、アルギンの疑問は深まってもおかしくない。
疑惑が深まれば、心はより深い闇に落とされる。
背中で眠っていたウィスタリアもその頃には目が覚めて、母の背中におぶさり続けている事にも飽きて暴れ始めた。
「ぅあー。ぅえー」
「あぁあ、ウィリア。おはよう、ソルちゃんだよ。こっちおいで」
「うぇい!」
今は気分の落ち込んでいるアルギンを休ませるほうが先だ。以前のようにディルを手放しに信じられていないのは、育児で疲れているからだ――と、ソルビットは考えた。
「大丈夫だよ、アルギン。ディルが浮気なんて出来る訳ないんだから。本当に浮気してたら、あたしが張り倒してやる」
「……ん」
「ディルを信じようよ。アルギンも休みな、疲れてるでしょ。アルギンの休みって来週だっけ? またあたし兄貴も連れて来るから、ちょっと気晴らしにお出かけすればいいじゃん」
「……うん」
生返事のアルギンは、近場の椅子に座る。いつも活力に溢れて精力的に行動していた騎士時代が嘘のようだった。
ぼんやりとした目で自分の掌を見るアルギンは――これ以上ないと言うほどに、疲れていた。
それは決して育児だけが理由ではなく。