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一方、ローゼンリーリエは舞踏会で夢のような一時を過ごしていた。
深窓の美姫もかくやといった彼女の美しさはとどまるところを知らず、純白のドレスを翻すたびほう……と老若男女のため息が零れる。
当然、彼女の美しさに目を引かれない男などいる筈もなく。
「──一曲、よろしいでしょうか。美貌の方」
「──ルートヴィッヒ殿下……」
王子の目にまで止まってしまったローゼンリーリエは、緊張のまま彼の手を取った。王子のための演奏が始まる。
フロアには優雅に舞う二人の姿だけ。まさに二人のためだけの空間だった。
今でこそ義家族から不遇な扱いを受けるローゼンリーリエだが、本来の彼女は非常に位の高い令嬢だ。それも直系の姫である。礼儀作法からダンスまで、一通りの上流階級教育は叩き込まれていた。
ガラスの靴でステップを踏みながら、踊りに隠された秘め言が囁かれる。
「不思議だ……。貴女ほどの美しい方を一目見れば到底忘れることなどできないだろうに、私は貴女の名を知らないようだ。どうか教えてはくれないか? 美貌のひと」
「わたくしなどルートヴィッヒ殿下のお耳に入れるほどの者ではございません。……ローゼンと、ただのローゼンとお呼びくださいませ」
「ローゼン……薔薇か。舞踏会を飾る高貴なる花に相応しい名前だ」
「恐縮でございます」
王子の目にかかったあげく今宵の宴の花とまで謳われる誉れに、ローゼンリーリエは心の底から震えた。
王子もまた類い稀なる美貌を持つ貴き御方だ。そんな方から声をかけられるだけでなく賛辞を送られるなど、乙女に心浮かせるなという方が無理難題というもの。
「ローゼン。君は此度の舞踏会の目的を知っているだろうか」
「勿論、存じております。ルートヴィッヒ殿下」
「では、こんな少女を知らないかい? その子は金色の髪に薄青の瞳。名に二つの花を与えられ、母に同じ色の病弱な人を持つ天使のような女の子──そう、歳は君くらいの」
その時、会場に十二時を告げる鐘の音が響いた。
「──っ何処へ!」
「申し訳ありません!」
ローゼンリーリエはダンスを中断して城を飛び出した。
アンデルセンとの約束は十二時。
れっきとした魔法ではないのだから、十二時を越えてもドレスが粗末な普段着へと変わるなんてことはない。宴はまだまだ続くようで、継母たちがすぐに帰ってくることもないだろう。余裕はある。アンデルセンとの約束は違えてしまう形になるが、一曲踊り続けるくらいの時間は作れた。
けれども、ローゼンリーリエは舞踏会を後にすることを決意した。王子との時間よりもアンデルセンの約束を取ったのだ。
夢のような一時は所詮夢。
大階段のすぐ下。客室戸を開き馬の手綱を握るその人たちに向かって一心にかけ降りる。
「──ローゼンリーリエ!」
「──!」
途中、夢の人の声で確かに呼ばれた自身の名に、動揺のまま躓いてしまった。ガラスの靴が片足だけ階段を転がっていく。
「あ……」
アンデルセンからの贈り物であるそれに思わず足を止めかけるが、後ろ髪を引かれる思いで振り切り、やがてローゼンリーリエの姿は馬車の中へと消えてしまった。
「ローゼンリーリエ……」
王子は、心奪う輝く人の欠片を拾い上げそっと口付けた。
「必ず迎えにいくから、待っていて。──初恋の人」
「──アンデルセン!」
「ローゼンリーリエ……」
ドレス姿のまま月光を背負い草花を踏み締める妖精に、アンデルセンは呆然と美しい人を見上げた。
「……帰って、きたのか」
「勿論よ。大切なお友だちとの約束ですもの」
足音を吸収する柔らかな土が、ひしっとガラスの靴を包む。
「そうか。なら早く屋敷へと帰ろう。君の服はここに……」
「急がなくても大丈夫だわ。お義母さまたちはまだ帰られない。帰ったとしてもきっと疲れて寝ちゃうわ。気分の良い日に、わざわざ私の確認なんてしやしないわよ」
あっけらかんと首を振られ、尚更アンデルセンは呆けた。
──ならば、何故帰ってきたのだろう。ローゼンリーリエは。十二時の約束は、継母たちが帰ってくる時間帯への推測基準でしかなかったというのに。
「──アンデルセン。私と、踊っていただけるかしら」
腰を真っ直ぐに下げ、貴族令嬢として恥ずかしくない完璧な礼を見せたローゼンリーリエは、佳麗にアンデルセンを誘った。彼との森中のダンスのために、ローゼンリーリエは帰ってきたのだ。王子との一時を振り切って。
「──っ、君って、本当に……」
噛み締めるようにアンデルセンが情けない顔を見せる。眉は垂れて、下唇は顎を見せるように盛り上がっている。けれど、左右の口角もまたゆるりと上がっていた。
一歩を踏み出す。そこで、ふと、彼女の足元に輝きが足りないことに気が付いた。
「ローゼンリーリエ、靴は」
「──ごめんなさい。慌てていたものだから、落としてしまったの」
次はローゼンリーリエが情けない顔を見せる番だった。せっかくの贈り物を贈り主であるアンデルセンの前で無くしたと告げるのは、礼儀を重んじるローゼンリーリエにとってこの上ない辱しめだったのである。
「そんな。このままでは足が傷ついてしまう。待っていて、すぐに代わりの靴を」
ローゼンリーリエの失態を叱るでもなく、アンデルセンは慌ててミニチュアな我が家へと戻ろうとして。
「──いいえ、必要ないわ」
柔らかな声が彼を引き留めた。
「だって、この森の草木たちはこんなにも優しいのだもの」
ローゼンリーリエは残っていた片方の靴を脱いでいた。裸足で、地を踏みしめていたのだ。
「な……」
「ほら、あなたも脱いでごらんなさいよ。柔らかくてとっても気持ちがいいわ。どこまでも駆けて行けそう」
ふわふわとドレスを浮かばせ草の上で足を踊らせるローゼンリーリエは羽のように軽やかで、ドレスの白と日に当たらない足の白さを月光が映し出していて──妖精のダンスのよう、なんて陳腐な言葉しかとうとうアンデルセンは思い付かなかった。
「さあ踊りましょう。私、今とても気分が良いの。このまま一晩中だって舞っていられるわ。けれど──あなたと、あなたの魔法があればもっともっと楽しくなりそう」
「──ははっ。君はお転婆だからね」
足首まで革のブーツで締めていたアンデルセンは、しがらむ全てから身を解放するように靴を放り出した。
純白のレースであしらわれた少女の手袋。ぴったりと腕まで囲まれた白の手を取り、ヒラリと円に回って。
「それならば、一晩中お相手いたしましょう。姫君。──明日も、明後日も、その先だって、ローゼンリーリエが幸せであれるように」
ホウホウと鳴くミミズクは語る。夜の貴公子と月光の妖精の舞踏会は、確かにここにあったのだと。