彼の日常
ダムダム。
ボールの跳ねる音が空間に響き渡る。それに負けないというように、男たちの叫び声がこだましていた。
「チェック遅いぞ」
「スイッチだ」
「パスパスッ」
「速攻だ」
何かしらのスポーツをしていると思わしき声がある。激しく動き回ることを想起させることができる言葉だ。
「ゲッターを止めろ」
「やつをフリーにするな」
それにもかかわらず、足音の類は一切しない。……いや、一切は言いすぎた。ただ、滅多にしないのは事実だった。
それほどまでに滑らかにしていると思ってしまうかもしれない。もしくは、非常に優れた防音性でもあるのかと考えるかもしれない。だが、その光景を見たら、目から鱗が落ちるといわんばかりの気持ちになってしまうだろう。
奇しくも、ワタシも初めてその光景を目撃した時は、同じような気持ちになってしまった。
「どうした歩夢、遅刻なんて珍しかったじゃないか」
「そうだぞ、拙冬っ。ポジションが一つ欠けているようなものだから大変なんだぞ」
そのような独特な音がこだます場所に歩夢は入っていく。フロアに繋がる扉を開けた瞬間、数人の目が彼に集中した。
絡んでくる男たちに平謝りしながら、この空間でひときわ存在感を放つ男のもとへと歩夢は歩いていく。
「すいませんコーチ、少しトラブルに巻き込まれてしまって。警察にお世話になってないので許してください」
その男の前に着くなり頭を下げる歩夢。自分の責任で遅刻したわけではないはずなのに、なんとも難儀なものであった。そんな事情を感じ取ったのか、彼からコーチと呼ばれた男は頭ごなしに叱ることはなかった。
「拙冬のことだから過失はないんだろう。早く準備するといい」
一瞬たりともとも歩夢のほうに目を向けることはなかった。だが、口調には一切の怒気が含まれてないこともあり、彼が怒ってないことは分かった。
その言葉を聞き届けると、ありがとうございますと歩夢は感謝を述べ引き下がる。
「良かったですね、怒られなくて」
「ほんとにね」
フロアの隅で歩夢が動的ストレッチを繰り返していると、動きやすそうであるスポーティな服に身を包んだ女性が話しかけてきた。彼の所属するチームのマネージャーだ。
「あなたの車いすの準備はできています。調整もしておきました。それとコーチから伝言が。すぐに使うから早く来いとのことです」
「うん、ありがとう」
「いえ、それが仕事ですので。……では」
淡々とした口調で物事を告げてくるマネージャー。彼女を見たときは歩夢のことが嫌いなのかとも思ったが、特別そうではないらしい。ほかの人たちにも同じ対応であり、また、特別好待遇の人間もいない。
彼女について歩夢のチームメイトは、もう少し愛想が欲しいとか、向いた話一つ聞かないとか、もう少し気遣ってもいいんじゃないかとか、思い思いの言葉を述べている。
ワタシからしてみれば、チームの雰囲気を乱すことはないのだからそのほうが良いのだろうと思えるのだが、どうやらこの世界の住人はそうではないらしい。
「ディフェンス」
「パス回せ」
中央で繰り広げられている試合のほうを見る。そこには、十人の男たちが何色とも言いにくい感じの――あえて言うならば、革色――ボールを使ってスポーツをしていた。
体育館にひかれている線は、四角形と円で基本的に成っている。エンドラインには、バックボードがついたリングとネット。中央には電子タイマーと得点板があり、誰がどう見ようとバスケットボールをするために設営されていた。
男たちのユニフォームもよく見るそれだ。――ただ、
「いけるか、拙冬」
違うものが一つだけあった。その違いとは、競技そのものを変えてしまいそうになるくらいのものだった。
「はい、大丈夫です。でも、練習試合ならはじめから言っておいてもよかったではないですか。そうしたら、もう少し余裕持ってきていたものを」
いま、コーチに苦言を呈している歩夢も、それに乗っていた。
普通のものとは違い、浅く座れるようになっている座椅子。これまたほかの一般的なものと異なり、スタイリッシュにまとまった足置き場。その形状から、接触時に車のバンパーのような効果があるようにも思える。
ただ、それらよりも奇妙な形状をしたものがあった。
一般人ならば、それは地面に対して垂直であることがほとんどだといえよう。しかし、それに付属していた二つの車輪は『八』の字を描くように曲がっていた。
「……忘れてたんだ」
そのような、奇妙というか定型から外れたような形の車いすにまたがっているにもかかわらず、歩夢もコーチもほかの面々でさせ気にした様子もない。彼らにとっては、これが常識だということだった。
それまさしく、運動性能を追求した形。スポーツをするために生まれた車いすだった。
「また、ですか」
ワタシもこれに乗ってみたい、というのは失礼なのだろうか。目の前にいる歩夢の、義足の外された足を見てそう思う。
見方を変えれば、彼はこの夢の世界のワタシであるはずだから、すでに乗っているとも言える。しかし、ワタシはアユムとしてこれに興味があった。
「……すまん」
「はあ、今に始まった話じゃないですからいいですし、本当に重要なことはしっかり連絡してくれるんでいいですけど。……主に氷室さんが」
ちらり、と歩夢が先ほどのマネージャーのほうを見る。その視線に気が付いたのか、彼女は歩夢のほうを向くと首を傾げた。
ピィ、という短いホイッスル音が体育館内に鳴り響く。コートを見ると、審判が何かしらのジェスチャーを行っていた。手を高らかに上げて選手を差し、その後手を腰に当てている。たしか、何かしらのファールという意味だったはずである。
「ほら、時計が止まったから行くぞ」
「わかってますよ」
そうコーチに返しながら、バレないように親指を彼に立てる歩夢。何を言いたいのかを察したのであろう、ご苦労様というように氷室は嘆息した。
「何かプレイブックはあるんですか」
「ないが、一応はお前中心の攻めでどうだ」
車輪を回しながらそう歩夢はコーチに訊くと、背中越しに返答があった。彼がそれを聞き届けた瞬間、雰囲気が変わるのを私は感じ取った。それは、日陰で休んでいる獅子が得物を駆るために立ち上がるような、もしくはカワセミが得物めがけて飛び立つような、そんな空気の豹変を感じた。
獅子のようにゆっくりとなのか、カワセミのように急になのかは判断しかねた。ただ、今朝のトラブルでもあまり感情を表に出してまで昂らせなかった歩夢が、フェロモンをぷんぷん匂わせ始めたのは感じた。
彼は、彼自身の戦場に足を踏み入れたのだった。
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