僕にとっての英雄
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「……つ」
気持ちを切り替えようとしていた歩夢に、一筋の痛みがはしる。嫌なことは忘れようとしていた彼だったが、今までのことが夢ではないといわんばかりに、左手の甲には転んだ時にできた擦過傷が酷く残っていた。
浅黒く刻まれている傷から糸を引くように、赤黒い血液が手の甲から中指を伝い、ぽとぽとと落ちていく。その光景を見て、あーあと歩夢はつぶやいた。どうしようか、シャツでふくわけにもいかないし、でもこのままでは。そんな感情が伝わってくる。
「あっ……」
その声は歩夢のすぐ横から上がった。見てみると、先ほど声を上げてくれた女性が、とぼとぼというように彼のもとに近づいていたのが分かる。そのとき、歩夢が負った傷跡を見てしまったのだろう。
「だだ、だ、だいじょうぶ……ですか。――いや! 大丈夫なはずはないですよね、……そうですよね」
緊張に声を震わせながらも、歩夢に心配の声をかけてくれる彼女だったが、その言葉は後半に行くにつれて萎んでいった。最後のほうは、ほとんどかすれて聞き取れないほどだ。
「ええ、まあ」
「そそ、そうですよね」
気まずい空気が二人の間を流れた。急に話しかけられたことにより頭が回らなかった歩夢は、情けないことに彼女のことをフォローできずにいる。それが、この雰囲気をさらにっ罪深いものにしてしまった。
ぽと……ぽと……。砂時計の砂が時を刻むのように、歩夢の手から生命の潤滑油が落ちていく。その本来聞こえるはずのない針音が、この状況を意識させる幻聴として歩夢の脳内に反芻していた。
「「あ、あの……」」
さだめか、声をかけるタイミングが一緒になってしまう。一度は破られたその雰囲気が、また一層強いものとなって二人を覆う。ここから先の言葉を絞り出す度量を二人とも持ち合わせてなかった。
「こ、これをっ!」
恥ずかしいことに、この空気に一石を投じたのは、またもや女性のほうだった。男のくせに何をしているんだ……とワタシは言ってやりたかったが、当然ながらその声が歩夢に届くことはない。
「えっと」
女性が差し出してくれたのはハンカチだった。桜色の生地に桜の花びらのワンポイントが見て取れる。汚れた部分もなく、これなら傷当てにすることはできるだろう。
だが、
「だ、大丈夫ですよ。こんなの唾つけておけば直りますから」
ワタシも歩夢も、このような綺麗なものを――それも見知らぬ恩人の私物を、自分の遺伝子で汚すのはごめん被りたかった。民間療法を示し、どうにかしてその行為から逃れようとする。
「そ、それじゃ汚いですから」
「……っ」
どういう意味で放たれた言葉か定かではないが、自分の唾液が汚いといわれた気がしてならなくなった歩夢は、心の中でショックを受けていた。
ワタシも面と向かってそう言われたら同じようになっていただろう。
「ととと……とにかく! このままじゃバイ菌が怖いので使ってもらいます」
歩夢の左腕を無理やり手に取ったと思ったら、そのまま素早く手当をしていた。思いのほかハンカチもきれいに巻かれ、気にするほどのようなものには見えない。
纏っている雰囲気から、こういう積極的なことはしなさそうな人だと思っていたが、私が間違っていたようだった。先ほどに比べたら薄くはなっているが、何かしらの使命感のようなものに駆られれば、このような行為はできるようだ。
「あ、ありがとございます」
「い、いえ。こちらこそ……」
再び何とも言えない空気が二人に流れる。それらに包まれる中。歩夢はまじまじと左手にまかれたハンカチを見つめていた。
『――つきます。お降りのお客様は……』
そんなことをしていると、次の駅が近づいてきたことを知らせる放送が聞こえてくる。
ぷしゅー、という独特な音とともに扉が開く。別に示し合わせていたわけでもないのに、歩夢とその女性はその駅で降りていた。
「その、助けていただきありがとうございました。よろしければ、名前やご連絡先を教えていただければ幸いです。これも返さないといけませんし」
左手を軽く掲げて目の前の女性に示す。外の空気を吸ったおかげか、歩夢の脳は澄んでいると思わせるくらい働いており、お詫びをしたい旨を伝えていた。しかし、件の女性は先ほどから俯き、一向に顔を上げようとしない。
失礼ながら、姿が見えないことをいいことに、ワタシは彼女の安否を確認しようと覗き込もうとした。そういたら――、
「ゴメンナサイ。ゴメンナサイ。ゴメンナサイ。ゴメンナサイ。ゴメンナサイ。ゴメンナサイ。ゴメンナサイ。ゴメンナサイ。ゴメンナサイ。ゴメンナサイ。ゴメンナサイ。ゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイ――――」
ワタシの口では到底表せないようなことになっていた。
もはや全自動と化したとしか思えない口は、常にある言葉を吐き続けている。目はぶるぶると震え、焦点が定まっていなかった。それにもかかわらず、顔は青くなるどころか逆に赤面している。先ほどの強情な性格を見せたものと同一人物とは、にわかに信じられない事実だった。
ここまで情緒不安定な人物がいるとは。
「あのー、大丈夫ですか」
のぞき見していたワタシがそう思っていると、歩夢が彼女を心配してくる。あまりの惨状に、心配される側からする側へと形勢が逆転してしまった。
「…………っ! だだだだだだ、じょう、ぶで――」
残念ながら、大丈夫そうには見えなかった。むしろ、何かしらの重要な疾患を抱えているのかもと勘繰りされそうなほどであった。
「ほ、ほんとに大丈夫ですか」
さすがの歩夢も彼女の言葉をうのみにできずに、先ほどよりも真剣みが増した顔で彼女に迫る。しかし、それが逆効果だったのだろう。
「……っ……」
彼女は後ずさりをするようにして歩夢から距離を取った。その顔は焦燥に歪み、口は先ほどの言葉の代わりというように、断続的に吐息を吐き続けている。
「は……」
「――は?」
彼女の口から漏れた言葉をオウムのように繰り返した歩夢。その顔は、心配と疑問の半々に染められていた。
彼女が何を口にするのだろうか、本当に大丈夫だろうか。そんな思いが見え隠れしている。かくいうワタシも、女性が何を口走るのか気になっている一人だった。
「ん」
「ん?」
「かち」
「かち?」
緊張や焦りのあまり呂律がうまく回らないのか、断続的に言葉を紡いでいく女性だったが、それが原因で歩夢にうまく伝わっていなかった。
当の本人は、何を言っているか理解できずに首をかしげるばかりだ。
「……っ!」
それがもどかしいのか、女性は口をつぐみ、今にも泣きだしそうな雰囲気を醸し出す。現に、目じりには涙がうっすら浮かんでいる。
ただ、ここまで相手にさせておいてもうまく感情を汲み取れないのが、この世界の自分だった。いまだに伝えたいことを理解できないでいる。
「ハンカチっ!」
「は、はんかちぃ!?」
そんな愛すべき馬鹿は、癇癪のようにして放たれた女性の大声に腰を抜かしそうになった。先ほどまでは、ぼそぼそと何か口にしていた人が、唐突に大声を出せば仕方ないことなのかもしれない。
それでも、さすがにこれはないとワタシは嘆息するしかなかった。
「じ、ジブンにあげるから、もう返さなくていいからッ!」
「え、ちょっ――」
もう我慢できなかったのだろう。歩夢の恩人はそれだけを叫び、プラットホームの向こうへと姿を消していった。
見物人や事情が分からない人々の合間を縫い、一回だけ躓くもすぐに起き上がった彼女は、一回も歩夢のほうを振り向かぬまま走り去っていく。
「なまえ…………」
呆然とそう呟く。歩夢は、連絡先どころか名前すら教えてもらえなかった。
人ごみの中に消えていった彼女の――影を追うことはもはや叶わず、歩夢はただ、ハンカチで手当てされたその手を虚空に向かって伸ばすことしかできない。
その光景が、滑稽を通り越してもはや哀れ以外の何物でもなかった。
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