その日は一段と酷かった
その光景を遠目から眺めるようにしてみていたのワタシだったが、流れが少し悪いように感じた。何も知らない第三者からすれば、座っている若者に説教するご老体としか映らないのが大きな原因だ。
事実、無駄に正義感の強い熱血漢が、周囲の状況も鑑みずに、自らの正義を振りかざしてくる。いわゆる『正義マン』とか揶揄されている人種だろう。
「部外者が口を挟まないでほしいのですが?」
「この騒動に迷惑をしている時点で、私も関係者のはずだが」
老人に向けていた眼差しとは一転、まるでゴキブリを見るかのような瞳を持って、歩夢は乱入してきた中年の男を見る。
「そもそも、自分のほうが被害者だという見方が自然だと思うのですが、あなたはいったいどういう目的で介入してきたのですか」
とりあえずはといわんばかりに、自分を下げた口調で問いかける歩夢だったが、やはり節々にとげがあるように感じる。まあ、それを取り除けというほうが無理なお願いなのだろうが。
「どうやったらそういう見方ができるんだい」
「はぁ、どうやら論外みたいですね」
「論外、とは?」
深いため息とともに、この騒動に首を突っ込んできた男に向かって歩夢は落第を突きつける。その態度に不満を感じとったのであろう男は思わず聞き返してしまう。
「一部始終だけを見て良く介入なんてしようと考えましたね。いいですか、自分は何もしていないのに杖で小突かれ、挙句の果てに蹴られたんですよ」
「し、しかし、老人は君に何かされたと」
「そもそもですね、自分は暴行を受けたわけです。その侵害に対して自分の権利を守るためにやむを得ずした行為であれば、それは防衛です。何より、私はいまだその権利を行使すらしていない。これがお分かりですか」
「……だが、君はケガをしたわけじゃないだろう」
ここまで丁寧に説明をしてもなかなか納得してくれず、どうにかして歩夢のことを悪者にしようとする雰囲気すら感じさせる正義マン。そんな彼に、歩夢の堪忍袋の緒は限界を迎えようとしていた。
「だから、ケガを負わなかったから暴行なんですよ。何か事があったら、それは傷害罪になるんすよ。――そのくらいわかれよ、馬鹿がっ!」
緒が切れるというまではいかなかったが、膨らんだ堪忍袋から漏れだすくらいには怒りがたまっていた。先ほどまでの言葉遣いとは一変し、若さに任せるような乱暴な口調になってしまう。
それが祟った。
「ば、馬鹿だと……。せっかく私が穏便に片づけてやろうと思ったのに」
「うるさいですよ。その年で自分の善意はすべて正義だといいたいのですか」
「減らず口を……。市議会議員の私を怒らせたらどうなるかわかっているのかっ」
「その言葉一つで脅迫罪ですね、犯罪者」
売り言葉に買い言葉は怖いものであるとワタシは感じた。歩夢もこの正義マンも、ここまで事態が発展するとは思っても見なかっただろう。互いに引き際を見失った雰囲気が流れ出している。
この正義マンも、本気で歩夢を脅迫しようと思ったわけではないことがあきらかだ。その証拠に、その額や手のひらには冷や汗のようなものが多く浮かんでいる。瞳孔も定まっているわけでもなく、動悸が激しくなっているのか呼吸も荒い。
そんな時、
『まもなく……到着です。車内にお忘れ物、落とし物がございませんよう、ご注意ください。降り口は左側です』
ちょうどよく歩夢が下車をする予定の駅にたどり着く。
「自分はおりますので、二人ともこんなくだらないことに時間を費やすほど暇ではない、というっことで手を打ちましょう。先ほどの言葉も本意ではないでしょう」
「あ、ああ。そう……だな。ああ、えっと……悪かった」
「いえ、こちらこそ」
それだけを言って席を立つ歩夢。あとはクールに立ち去ればすべて丸く収まる。この空間に居る人全員がその気持ちになっていると、彼は確信していた。ほかの乗客も声は上げないものの、互いに目配せをするなりでようやく騒動が収まることに安堵しているようだった。
さすがに平日のこの時間に、この安寧を壊そうとする悪ガキは乗っていないだろうと、歩夢はもちろんワタシもそう思っていた。
だが――、
「……っ」
びたーん、と壁が倒れたのかと思うくらいにきれいな格好で地面に転ぶ歩夢。上半身は地面と平行であり、こける原因があったと思しき下半身はエビぞりしたような形で曲がっていた。
ワタシははじめ、ドジにも歩夢が何もないところでつまずいたのか、それとも義足の不調化と思った。しかし、顔を上げた瞬間の彼の憎悪に染まる表情と、ある人物の声でそれが間違いだったことに気が付いた。
この空間には、一人だけ小学生がいたことを皆忘れていた。騒動の発端であり、簡単に人に手を出してしまうそいつを、歩夢は忘れていた。
「わしをこけにしよって、いい気味じゃ」
歩夢の通り道だった場所には、老人の杖が差し出されていた。良く注視はしていなかったが、この言葉を汲み取るのならば、歩夢の足をかけるために杖を故意に突き出したのだろう。
列車のドアが閉まる音とともに、車両内が静寂に染まる。
「そもそも、若者が椅子に座るのが間違いなんじゃ。若くて健康なくせしよって」
その言葉が静寂に色を付けるように染み渡る。正直、この空間に居る半分くらいが、歩夢が義足をはいているところを見ており、彼が健常者ではないことを知っている。
しかし、人は誰かも知らない人物のために危険を冒すような善意を皆が持っているわけではない。この中で唯一そういうことができそうな正義マンも、歩夢の足が作り物であり、彼が障害者であることを知らないだろう。
すべては不運だった。そう言ってしまえばすべてである気がするが、歩夢にとっては人生の中で自らにつき纏ってきた不運の一片に過ぎない。
ワタシから見ても、彼は不幸な体質の持ち主だった。
「わしと違って杖もいらず――」
この場に助けてくれる人物なんていなかった。
いままで、歩夢を助けてくれる見ず知らずの人間なんていなかった。
彼は、それをしょうがないことと片付けていた。昔は、どうしてと葛藤していたが、大人に近づいた彼は、そうやって無理やり納得できるようになっていた。
「昔と違って――」
ワタシの夢は、なぜこうも不自由で不幸なのかと考えたことがある。
現実のワタシは自由だ。想像できることであれば、一瞬で日本からオーストラリアまで行ける。面倒くさい機材など背負わずとも、無限に水中に入れる。死を味わうスリリングなゲームで死んだとしても、ボタン一つで甦る。
そんな不自由の欠片もないワタシが見る夢は、突き詰めるほどに不自由だった。不細工だった。不器用だった。
鳥のように自由に空を飛べるはずのワタシが、この世界では飛ぶことすらままならない生き物になっていた。
「だから今の日本は――」
毎日、ワタシという夢を見続けていた歩夢はいったいどんな気持ちなのだろうか。
ワタシという夢から覚めたとき、歩夢はどんな気持ちで世界を見ているのか。
何かを叶えたくて、ワタシという身体を手に入れた歩夢は何がなしたいのか。
――ワタシには、わからない。
「や、やめ、やめてくださいっ!」
歩夢がすべてを呑み込もうと我慢しているとき、そんな声が車内を駆け巡った。
おどろおどろしい震えた声音で、誰にでも無理していることが分かる響きだった。今にも逃げたしたいという感情が込められていた。
それにもかかわらず件の人物は何かに押されるように、弱々しい雰囲気を纏いながらも細く高い音色を上げていた。
「もう十分じゃないですか。なんでそんなことするんですか。年寄っていうのがそんなに偉いんですか。人生の先輩だからって何でもしていいんですか」
「なんじゃと!?」
吐き捨てるような老人の言葉に、ビクッとなってしまう声の主。声音からも分かっていたが、この状況に一石を投じてくれた人影は女性だった。
黒縁の大きな眼鏡の向こう側に見える瞳は、酩酊しているかのように震えており、見方によってはグルグル回っているようにも感じる。肩付近まで伸ばした髪は、ブラッシングはしてきましたと言わんばかりのまとまり方であり、とてもこの状況に介入してくれそうな人の見た目には見えない。服装も非常に雑だった。おしゃれとは言えないだろう。
「だ、だって……!」
そんな薄幸そうな雰囲気を纏った女性は、老人の圧に負けないよう声を上げる。
「だぁってぇ~?」
「ひぃい」
しかし、いら立ちを含む言葉とともにガンを飛ばされ、どうしてもというように女性は日和ってしまう。
「なんじゃというんじゃ」
それでも、彼女は老人から目をそらさない。その心意気にワタシは少し感心すると同時に、少しだけ歯がゆくなってしまった。
この女性を直接助けられないということに。
「う、ウチは知ってます。この人が義足をはいているところをウチは見ました。そ、それも両足です。ウチには義足の生活がどういうものかわかりませんが、きっとウチのような健康な人よりは不便だと思います」
何に駆られているのかと問いただしくなるくらいに、その女性は歩夢のことを弁護してくれる。
声は震えていた。とても恐怖していることが分かる。握ったこぶしを見せないように、身体の後ろに隠していた。足を竦んでいる。
でも、彼女は一歩だけ踏み出した。
「それなのに、そんなこと言うなんてひどい」
はぁはぁ、と肩で息をするように息が上がっている。彼女にとっては、一〇〇メートル層を走ることくらいにきついものだったことが分かる。
「そうだね、そうと知っていたら私としても対応は変わっただろう」
彼女の言葉に正義マンが反応する。それを皮切りに、今まで静寂を保っていた人たちがここぞとばかりに声を上げる。
「調子に乗るな、おいぼれ」
「引っ込んでろ」
「障害者なのに、そんなことするなんてないわ」
まさに日本人だなと思えてしまうような光景に、歩夢もワタシも唖然としていた。誰かが先を行かないと進めない、そんな国民性にげんなりしてしまう。だが、その国民性が同調圧力として働いたのも、また事実だった。
「ぬぐぐ……」
後ずさりをしてしまう老人。その顔にはひどい汗が浮かび、無意識に口を動かしてワナワナとしていた。
「認めんぞ、こんなこと」
非常に頑固な性格なのだろう。こんな劣勢になっているにもかかわらず、老人は自分が悪いことをしている自覚がないようだった。
その事実が、彼をさらに追い詰める。
「「「謝れ、謝れ、謝れ…………――」」」
全体からそのようなコールが響いてくる。はじめは誰か一人があげ始めた声だったが、次第に広がっていき、このような始末になってしまった。
「何の騒ぎですか、お客様」
それゆえに、とうとう車掌に見つかることになる。それと同時に、列車が駅のプラットホームに進入する。
いつの間にか次の駅に到達していた。騒いだ結果、車内放送を聞き逃したらしい。
「わしは認めんぞ……ッ」
老人後方のドアが開く。これを好機と見たのか、彼はそんな負け惜しみを残しながら、その足で逃げおおせようとする。その足取りは軽快の一言であり、杖が必要なのかはなはだ疑わしいものだった。
歩夢は、事情聴取をしたがっている車掌のもとに行こうと立ち上がろうとするが、正義マンが手をかざしてそれを制した。
「ここは私が行こう」
「ですが」
「なに、君が不利になるようなことは証言しないよ。こんなに大勢の見物人もいることだし。それに、このまま君を矢面に立たせたら私の立つ瀬がないだろう」
そういって車掌のもとに歩き出す正義マン。彼は良くも悪くも、己の正義を振りかざす男だった。
そんな彼の行動に呆然としながらも、もうすでに止められる状況でもないことを悟った歩夢は、静かに彼から目をそらした。悪いことになるような雰囲気でもなかったということで、すべてを忘れることにしたようだった。
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