第七話 コピーキャット、ふたたび
翌日、私は国文科の図書室をふたたび訪れた。予約した本を借りるためだ。十一時を過ぎた頃で、だれかいるだろうと思ったら、小嶋さんしかいなかった。それどころか、七階自体がガランとしていた。人気がない。土曜日だからひとが少ないのは分かるけれど、さすがにいなさすぎではないだろうか。
「おはようございます……どこかでイベントでもやっているんですか?」
私が話しかけると、小嶋さんは苦笑いした。
「逆です。土曜の午前中にある授業が、ふたつとも休講なもので」
朝茅くんがいないなら、かえって好都合だ。OCRはもう終わったのか、とか、いろいろと訊かれそうだったから。当然のことながら、OCRにかける暇がなかった。大学生は忙しいのだ。
「じゃあ、私が一番乗りですね」
「白河さんが来てましたよ。残念ながら二番手です」
「あ、むしろよかったです。どちらにいらっしゃいますか?」
「すぐにお帰りになられました」
古い単語を調べるため、辞書を引きにきただけらしい。私なら、ネットで検索してしまうような事案だった。白河先輩、ひょっとしてITオンチかも。それとも、国文科にある辞書には、ネットに載っていないレアな単語が見つかるのだろうか。
ともかく、そういう詮索はさておき、わたしは用事を済ませることにした。
「昨日、予約した本があるんですけど」
「はいはい、タイトルはなんでしょうか?」
「『雨月物語』です。上下巻なので、二冊」
「あ、貸し出されてて見当たらなかった本ですね。少々お待ちを」
小嶋さんは鍵束を取り出すと、スチール製の棚へ歩みよった。受付机のうしろにある代物で、ガラス越しに中身が見えた。小嶋さんは鍵を開けて、一列に並んだ本を順番に調べていった。そして、小首をかしげた。
「見当たらないですね。請求記号は覚えていますか?」
さすがに、請求記号までは……覚えている。
めずらしい記号だったし、連番になっていたからだ。
「白の三八、三九だったと思います」
わたしは遠目に、スチール棚をのぞき込んだ。講談社学術文庫は小さな青い背表紙が特徴で、すぐに分かるはずだった。でも、そんなサイズの本は、視界に入らなかった。
「まだ返却されていないのでは? 遠坂さん、マイページは確認しましたか?」
「昨日、返却通知メールがありました」
「べつの本だったという可能性は?」
わたしはスマホの画面を見せた。
「……失礼しました。昨日の夕方に返却ですか」
メールには、タイトルと請求記号と返却時刻が明記されていた。
小嶋さんは眉間にしわをよせて、ウーンとうなった。
「十六時四十五分……閉室直前ですか……さすがに思い出せません」
「棚に入れ忘れたんじゃないですか?」
「それはありえません。予約済みの本は、返却された段階でパソコンの画面に表示されます。その場で棚に入れますから、行方不明になったりはしないですよ」
そういう機械頼みの安心感が、一番危ないと思う。
情報学科のわたしが言うのも変だけど、普段から機械をいじっているひとのほうが、機械頼みは危ないという意識があるように思う。開発現場におけるバグや不良品の問題を、リアルに体験しているからかもしれない。小嶋さんみたいなエンドユーザに届くのは、デバッグが完了した正規品だけだ。
「あ、遠坂さん、その目は信じてませんね」
「信じるとか信じないとかじゃなくて、紛失は困るんですけど……」
「そ、それもそうですか……ちょっと待ってください」
小嶋さんは、受付テーブルのまわりを調べ始めた。
ほら、自分でも信じていない証拠だ。
「ちがう棚にもどした可能性も、若干……」
小嶋さんは、書庫へ移動した。
わたしは暇をもてあまして、窓から遠くをみやる。この街は学園都市で、遠くにみえる市街地も、それほど大きくはない。駅を中心に、ショッピングモールや住宅街が数キロほど円形に広がっている。それより遠くは、自然の豊かな緑地になっていた。休日には、遠方からピクニックに来るひとたちが大勢いる。
我輩堂はあのへんかな、と目をこらした瞬間、書庫から悲鳴が聞こえた。
ゴキブリでも出たのかと思って、わたしは書庫をのぞきこんだ。
「どうしました?」
「す、すみません、おっきな毛虫かと思って」
毛虫はやめて欲しい。うねうねするものは好きじゃない。
おっかなびっくりな私に対して、小嶋さんは棚の隅を指した。黒い毛の束が見えて、わたしも悲鳴をあげかけた。よくよくみると、黒い糸――髪の毛の束だった。
「なんですか、これ……気持ち悪いですね……」
わたしは距離をとったまま、じろじろと観察した。黒いロングカールのウィッグ、十センチくらいのつけ毛が、赤いまだらの紐でくくられていた。置き場所は、棚の中空になっている部分だ。うっすらとマニキュアの香りがする。赤色の正体は、マニキュアだ。
でも、これって……髪に赤い液体? まるで――
「こんなところにウィッグを忘れるなんて、うっかり屋さんですね」
小嶋さんは、あきれぎみにつぶやいて、わたしのほうへむきなおった。
「本は引き続き捜します。受付室で待っていてください」
「は、はい……」
高鳴る心臓を押さえて、受付室にもどった。イヤな予感がする。
わたしは、「吉備津の釜」で正太郎が殺された場面を思い出す。
不思議に感じて灯火をかかげると、開け放たれた戸の脇の壁に、生々しい血が一斗、地面にしたたっておりました。死体も骨もなく、目をこらしてみれば、軒の下になにかがぶらさがっているばかり。それが男の髷であることに気づいた彦六は、言葉もなく、ただただ、その場に立ち尽くしていたそうでございます。
どういうこと? ……また模倣犯?
読書室の事件に続いて、ふたたび卒論を真似したイタズラだ。
だとすれば、犯人は同一人物かもしれない。いや、そうにちがいない。
わたしが考えに沈んでいると、男のひとが入ってきた。
眼鏡に七三分けの、知らない三十路男性だった。グレーのスーツを着ている。おそらく教職員だろう。その男性は、いきなり図書室に入ってきた。やや不機嫌そうな面持ちで、眼鏡の位置をなおした。
「小嶋くんは、いるかね?」
小嶋さんが書庫の奥で返事をして、いそいそと受付室にもどってきた。
「お待たせしました。なんでしょうか、行方先生?」
やはり教員だった。珍しい名前だな、と思う。
「本が紛失したと聞いたんだが」
小嶋さんと私は、おたがいに目配せした。
「あの……どちらでその話を?」
「きみたちの会話を、通りがかりの事務員が耳にしてな」
事務員という言葉に、私はしっくりこなかった。ウソくさい。このナメカタっていう先生が廊下で立ち聞きしていたと考える方が、もっともらしかった。
小嶋さんは困ったような顔をして、その場を取り繕おうとした。
「まだ捜している最中で、紛失と決まったわけでは……」
「講談社学術文庫版の『雨月物語』らしいが、ほんとうか?」
ほら、これは廊下で立ち聞きしてたでしょ。
だって、その本の名前をわたしが口にしたのは、だいぶまえの段階だ。
小嶋さんはすなおに答える。
「は、はい……文庫本ですので、最悪の場合は買いなおせば……」
小嶋さんの言いわけに、ナメカタ先生は顔をしかめた。
「司書がそういう考えでは困る。最近も、読書室で幽霊が出ただのなんだの、おかしな噂が広まったばかりじゃないか。きみの管理責任に繋がる話だ。買い直しだって、きみのポケットマネーから出すわけじゃないだろうに」
「……もうしわけありません」
ナメカタ先生は事情聴取を始めた。
わたしに向きなおる。
「きみが予約した学生か?」
「はい」
「名前は?」
「遠坂です」
「どこの学科だ? 国文科ではないようだが……」
「情報学科です」
ナメカタ先生は眉間にしわを寄せた。
「情報学科? ……情報学科のきみが、『雨月物語』を借り出した理由は?」
先生は小嶋さんのときと同じように、根ほり葉ほり訊いてきた。わたしが疑われていると、はっきり察するレベルだった。あまりにも先生の語気が強いせいで、わたしは思わず口答えをしてしまった。
「すみません、図書室に来たのは、わたしだけじゃないんですけど」
ナメカタ先生は尋問をやめて、眉をひそめた。
「ほかにだれがいた?」
しまった、今のは失言だった。だって、わたしより先に来たのは、あの白河先輩以外にいなかったからだ。わたしは逡巡する。ここで先輩の名前を出したら、彼女が容疑者だと告発しているようなものだ。すくなくともナメカタ先生は、そう受けとるだろう。
しびれを切らしたのか、先生は小嶋さんのほうを見た。
「今日入室した学生を覚えているか?」
「は、はい……ふたりしかいなかったので……」
小嶋さんは嘘がつけないタチらしく、あっさりと認めてしまった。
「この学生と、もうひとりだな? ……きみ、名前は?」
「遠坂です」
「荷物を持って、そこのセキュリティゲートをくぐってみたまえ」
わたしはしぶしぶ、入り口にある防犯ゲートをくぐった。なにも音はしない。
「ちがうか……小嶋くん、もうひとりの学生の顔はおぼえているか?」
「……はい」
ナメカタ先生は、その名前をたずねた。
小嶋さんが答えようとするまえに、入り口に人影が現れた――白河先輩だった。
「失礼します」
白いカーディガンをまとった白河先輩は、セキュリティゲートをくぐって、何ごともなかったかのように受付室へ入って来た。当事者が勢ぞろいしてしまう。
「小嶋さん、こんにちは」
先輩は小嶋さんにあいさつして、それからわたしに目線をむけた。
「遠坂さんも、こんにちは。今日はどうしたの? 卒論のお勉強?」
うまく答えられないわたしに代わって、ナメカタ先生が答える。
「書庫から『雨月物語』が紛失したんだ」
「紛失?」
「おそらく万引きだろう」
ん? なんでそんな話になるの?
図書の紛失なんて、だいたい配架ミスだと思うのだけれど。ゼミの研究室でも、本を入れる場所をまちがえて、しばらく見つからなくなることがあった。何千冊とある図書室なら、なおさらそういうことが起こるはずだ。
一方、白河先輩は右手で口もとを隠し、驚いたような表情をみせた。
「大変ですね。わたしも今日は一度書庫に入りましたが……」
マズい。先輩の失言を、ナメカタ先生は聞き逃さなかった。
「今日、書庫に入ったのか?」
先輩は手のひらを返したように、めんどくさそうな雰囲気をかもした。
先輩はさっき、ナメカタ先生にだけあいさつをしなかった。
ひょっとして険悪な仲? 教員と生徒なのに?
「はい……それが、なにか? まさかわたしを疑ってらっしゃるんですか?」
白河先輩の質問を無視して、ナメカタ先生は小嶋さんに確認をとった。
「図書室に入ったのは、ふたりだけだと言ったな? もうひとりは彼女か?」
小嶋さんは、不承不承うなずいた。
「ということは、白河くんとこっちの情報学科の子の、どちらかが犯人だ」
白河先輩は、あきれたようにくちびるを動かした。
「わたしはやっていません」
「だったら、トオサカくんがやったというのか?」
「なぜ二者択一なのですか? ここは共用の図書室ですよ?」
これには、小嶋さんが説明をくわえた。授業が連続で休講になったこと、そのせいで私と白河先輩以外にだれも来なかったことを告げた。申しわけなさそうな口調だった。
自分のおかれた状況を理解して、白河先輩は青ざめた。
「そんな……容疑者がわたしと遠坂さんだけだなんて……わたしはやっていません」
「そうです。白河先輩はやっていないと思います」
わたしは横合いから応援した。ナメカタ先生はわたしをにらんだ。
「それは、きみがやったという自白かね?」
この先生、どこまで嫌味なんだろう。わたしは腹がたってきた。
一歩前に出て反論する。
「ナメカタ先生、ひとついいですか? 先生は、なんで万引きだと思うんですか?」
「大学で本が紛失するといえば、学生の万引きだと相場が決まっている。本のバーコードシールを剥がして、それを屋外に捨てたか、あるいは適当な場所に隠しているだけだ。禁帯の本に挟めば、当分見つからないからな。セキュリティゲートが反応するのは、本じゃない。バーコードのなかのチップだ。こういう力技は、昔からある。わたしは、学内の図書委員を務めたこともあるのでね」
そんなバカな。断定にもほどがある。
わたしはナメカタ先生の憶測をくずしにかかる。
「それって、統計的にどのくらいの割合ですか?」
「統計? いや、調べたわけではないが……」
「調査したわけでもないのに、万引き犯の確率が高いと考える理由はなんですか?」
「情報学科らしい屁理屈だな。こういうのは教員の経験則で分かる」
「経験則ってなんですか? それがバイアスフリーだという根拠は?」
「ばいあすふりい?」
「偏見が入っていないって意味です。ナメカタ先生は、本の紛失事由について統計データをお持ちじゃないんですよね? 万引き事件というのは印象が強いので、少ないケースでも記憶に強く残る可能性があります。つまり、バイアスがかかってる可能性があります。そうじゃないと言い切れる根拠はありますか?」
ナメカタ先生は反論に窮してしまった。ここでとどめの一発。
「これ以上わたしが疑われるようなら、ゼミの先生と相談します」
これが効果テキメンだった。
情報学科の教授とはさすがに揉めたくなかったらしく、ナメカタ先生は、
「わかった……小嶋くん、これについては内部で調査する。トオサカくんだったか、きみはもう帰りたまえ。小嶋くん、白河くん、きみたちはここに残って、『雨月物語』を捜すのを手伝って欲しい。五分ほど研究室へもどったあと、わたしも手を貸す」
と言って、わたしにだけ帰るように指示した。わたしはこれに抗議したけど、小嶋さんと白河先輩も、国文科だけで調べるから大丈夫だと、変に気を使ってくれた
ナメカタ先生は「すぐにもどる」と言って、図書室をあとにした。
小嶋さんはホッとしつつも、肩を落とした。
「ひとまず助かりました……が、問題は解決していないっぽいですね」
たしかに、ナメカタ先生は徹底的に今回の事件を調べるらしかった。
「単に紛失したってことにしちゃダメなんですか?」
わたしの質問に、小嶋さんは、
「紛失自体が問題なので……しかも、持ち出されたのは、予約済みの本を置くスチール棚からです。書庫からではありません。となると、わたしの管理責任です」
と答えた。
わたしは、これが前回の読書室の模倣犯と同一人物の可能性を指摘しかけた。でも、すぐに思い直した。そばに白河先輩がいたからだ。白河先輩には、『雨月物語』とあの卒論の模倣犯がいることを、まだ伝えていない。伝えるのも、はばかられた。すべてはまだ憶測の域を出なかったからだ。
案の定、なにも知らない白河先輩は、
「スチール棚から紛失したとは考えられません。鉄とガラスをすり抜けることはできないんですから。この部屋のどこかにあると考えるのが合理的です」
とアドバイスしてきた。
ふつうに考えれば、そうなのだ。
「そうですね……四年生の大切な時期に巻き込んでしまい、もうしわけありません」
小嶋さんは平謝りだった。
わたしも白河先輩に謝る。
「すみません……あの先生を、ちょっと挑発しすぎたかも……」
「いいの。あのひと、あんまり好きじゃなかったから」
だからこそ、わたしの行動には問題があったような気がした。けど、白河先輩はそんなことをおくびにも出さなかった。そして、ナメカタ先生がもどってきた。
「ん? まだいたのか。きみはもういい。あとは国文科で処理する」
わたしは図書室を追い出された。ゼミ室へ行こうかと思ったけど、気乗りしない。
家に帰ることにした。大学を出て、ゆっくりと坂をくだる。どうしよう。文学部の教員を挑発してしまった。このこと自体は後悔していない。ただ……あのようすだと、小嶋さんに圧力をかけてくるような気がした。だとすると、わたしのせいで小嶋さんがパワハラに遭ってしまう。それに、白河先輩も文学部だから、ひょっとすると不当な成績評価を受ける可能性もある。
傘をさしたまま、うつむきかげんに歩く。どうすれば──
「今日はお立ち寄りにならないのですか?」
とつぜんの呼びかけに、わたしは顔をあげた。
左手のほうをむく。老師が店内で本を読んでいた。
いつの間にか、我輩堂のところまでやってきていたのだ。
「あ、すみません」
「いえ、謝ることはありません。客引きのつもりはありませんでしたので……ただ、ずいぶんと深刻そうな顔をしていらっしゃいますね。『吉備津の釜』の件ですか?」
老師にはめずらしく、はずれていた。とはいえ、老師は現実に興味がないのだから、そういう質問の仕方になったのだろう。どこかしら事情を察しているような、そういう雰囲気が老師にはあった。
「珈琲でも飲んで行かれますか?」
「……はい」
わたしは傘をたたみ、玄関のところに立てかけた。店内は、あいかわらず薄暗い。オレンジ色のランタンが、本の背表紙を照らしている。老師の白い肌も。わたしもまた、その温もりのある色彩に、目をぱちぱちさせていた。
竹製の椅子にすわり、気持ちをおちつかせる。珈琲が出てきた。今日はホット。
わたしはお礼を言って、ひとくち飲んだ。
老師はふたたび籐椅子に座り、本の頁をひらいた。簡体字がならんでいる。
「遠坂さんは、なにかトリックに気づきましたか?」
トリック……そう、あの文学部図書室のトリックなら、今すぐにでも知りたい。
だけど、これを言い出してもスルーされることはわかっている。
「そうですね……ちょっと雲をつかむような話で、具体的には……」
「遠坂さん、概要に書かれていた『二重の密室』とは、なんのことですか?」
「あ、それについてなんですけど……」
昨日の夜、寝る直前に思いついたと、わたしは答えた。正太郎は、護符をうけとっただけでなく、全身に呪文を書いてもらった。だから、お札と合わせて、二重の密室だ。耳なし芳一の名前が出てくるのも、わたしの推理を裏づけていた。芳一は怨霊から身を隠すため、お経を全身に書いてもらった。違う点があるとすれば、耳なし芳一では耳の部分に書き忘れたというオチが、吉備津の釜では髷になっていることだろう。髪の毛に文字は書けない。
「そこまでお分かりなら、大神さんの意図も読めるのではありませんか?」
「……いえ」
「正太郎が殺されるシーンを、具体的にイメージしてみてください」
わたしは目を閉じて、吉備津の釜のクライマックスを思い出す。まず、正太郎は自分の部屋に閉じこもっている。おびえながら物忌みをしていると、外が明るくなった。朝がきたのだと勘違いして、正太郎は彦六に話しかける。そして、部屋から出る。ところが実際にはまだ夜で、磯良の怨霊に襲われて――わたしは、すばやく目を開けた。
「正太郎をおびき出しただけじゃ殺せない……ってことですか?」
遠くで、雷の音がした。
「ご明察。全身に書かれた文字が魔除けであるならば、たとえ正太郎をそとにおびき出そうとも、彼を殺すことはできません」
「でも、あの呪文は実際に、おまもりですよね?」
「そのような記述が、作中のどこにありましたか?」
……ない。意味不明な文字を体に書いた、としか言っていなかった。
「だとすると……犯人は、陰陽師?」
「おそらく、それが大神磯良さんの解釈かと思われます。正太郎の体に書かれた文字がなんであったのか、これについては、諸説考えられます。耳なし芳一の体に書かれたのは、般若心経でした。しかし、『吉備津の釜』の登場人物は、僧ではなく陰陽師。お経を書いたとは考えられません。もっと呪術的ななにか……お札に触れると死んでしまうような、呪いの一種だった可能性もあります」
わたしは、ポンと手拍子を打った。
「そっか、やっと分かりました。陰陽師に呪いをかけられた正太郎が、入り口のお札にさわって、雲散霧消してしまったわけですね。物理トリックで使う火薬や毒薬を、呪いにおきかえただけです。『内部から』密室が崩壊することとも一致します」
文字の書かれていない髪の毛だけが残ったのも、納得がいった。
「つまり、この呪いは家の内部で完結しているから、そとに出る必要がない、と」
「ご明察です」
そのときだった。内部で完結している、というじぶんの言葉に、わたしはハッとした。
珈琲をテーブルのうえにおく。
「……すみません、急用を思い出しました。これで失礼します」
「どうぞ、お気に召すままに」
わたしは珈琲のお礼を言って、我輩堂を出た。
傘をさし、大学へもどる。多少の泥がはねるのも気にせず、正門をくぐった。
文学部の図書室をのぞくと、小嶋さんたちはまだ解放されていなかった。
腕まくりをしたナメカタ先生といっしょに、本棚をあさっていた。
「失礼します」
わたしははっきりとした口調で入室を告げた。
その場にいた全員がふりかえる。
ナメカタ先生はメガネを持ち上げて、
「なんだ、きみは帰っていいと言っただろう」
と、怪訝そうにわたしをみた。もしかすると、情報学科の教授をつれてきたと思い、牽制したのかもしれない。
わたしは意を決して答える。
「今回の事件のいきさつがわかりました」
ナメカタ先生は一瞬、呆けたような顔をした。すぐに気をとりなおして、
「でたらめな憶測でこの場をおさめようとしてもムダだ」
と答えた。
「ほんとうです」
「だったら、本はどこにある?」
「本は、最初から図書室になかったんです」
ナメカタ先生は口をぽかんとあけた。
「最初から……図書室になかった……だと……?」
「はい。紛失した『雨月物語』は、この図書室には最初からなかったんです」
「一度返却されているんだ。それはありえない」
「先生、この大学の図書管理システムを、ご存知ですか?」
「もちろんだ。図書委員だったと、さっきも言っただろう」
「では、各図書館の返却システムが統合されていることも、ご存知ですよね?」
昨日、小嶋さんと本を運搬したときの記憶、あれがヒントだった。
あのとき、わたしと小嶋さんは、国文科図書室にまちがって返却された本を、総合図書館へ移動させた。もし返却システムが各窓口でバラバラなら、総合図書館の受付で、返却処理をやりなおさないといけないはずだ。けれど、受付のおばさんは、パソコンを起動させることなく、そのまま地下倉庫へ運ばせていた。
ナメカタ先生も、心当たりがあるらしかった。
わたしは畳みかける。
「国文科の本は、かならず国文科の図書室へ返さなければならない……そういうシステムには、なっていません。ですから、返却があった=この図書室にある、じゃないんです。データの処理が返却口とは無関係にサーバの内部で完結しているからです。データは外部の図書の物理的な位置を示していません」
そう、陰陽師の用意した密室が、内部で完結しているように。
ナメカタ先生は、なにか反論を考えようとしているようだった。
なぜ? 事件が解決したんだから、納得すればいいのに。
「……小嶋くん、図書館全体の貸出履歴は、ここのパソコンから確認できるか?」
「い、いえ……マスターIDとパスワードは、総合図書館の管理です」
「マスターIDを持っているのは?」
「閲覧課の課長さんだけです」
先生は備えつけの電話を借り、総合図書館に内線をかけた。
「もしもし、国文科の行方ですが……閲覧課の加藤さんですか?」
先生は、本の話を切り出した。
「はい……分かりました。学籍番号は……ええ、お手数をおかけしました」
先生は電話を切ると、わたしたちに顔をむけた。
すこしくやしそうだった。
「きみの言うとおりだ。『雨月物語』は昨日の夕方、総合図書館へ返却されている」
やった。どんなもんですか。
わたしは内心でガッツポーズをとった。
ナメカタ先生はスーツを着なおして、出口へむかう。
「小嶋くん、わたしは閲覧課へ捜しに行く。総合図書館からこちらへ『雨月物語』の移送がなかったかどうか、もういちど念入りに確認しておいてくれたまえ」
「は、はい……」
先生はそのまま小走りに姿を消した。
小嶋さんは大きくタメ息をつき、
「た、助かりました……ありがとうございます」
と感謝してくれた。
わたしは、老師との会話がヒントになったことを伝えた。
ただ、白河先輩のまえだったから、大神磯良さんの論文については伏せた。
白河先輩は、ずいぶん痛快だったようで、
「ざまみろ、って感じね」
と、お行儀の悪い言い方をした。
一方、わたしはすこしばかり、気分の晴れないところがあった。今回の事件も、『雨月物語』の模倣犯だった。陰陽師は呪術によって、正太郎の肉体が屋内で消失するように仕向けた。犯人は、これを図書管理システムに置き換えて、システム内部で本が消失するように仕組んだわけだ。
とはいえ、事件は解決した。わたしはそのあと、ゼミの研究室へ移動し、思う存分データをいじくりまわした。ゼミの先輩や助教の先生から、いろいろアドバイスももらった。夜になって家路につこうとしていると、バス停のところでふいに名前を呼ばれた。
「遠坂さん、まだ大学にいたの?」
ふりかえると、白河先輩が立っていた。先輩はバス停の停留所で、次の便を待っているようだった。両手で鞄を持ち、夏の夜風を受けていた。
「お、おつかれさまです……先輩も、まだ大学にいらしたんですか?」
「総合図書館で調べものをしていたの。あそこは土曜日でも九時まででしょ?」
わたしは徒歩通学だったけど、すこしばかり立ち話をした。ナメカタ先生がわたしに論負けしたときのことを、白河先輩は、ひどく愉快がっていた。
「あのときは助かったわ。行方先生、絶対にわたしを疑っていたもの」
「ひとつ、おうかがいしてもいいですか?」
「ずいぶんと他人行儀なのね」
ナメカタ先生は、なぜ白河先輩にキツくあたっていたのか。私はそれを尋ねた。
すると先輩は、くすりと笑った。
「あの先生を、パワハラで大学に訴えたことがあるからよ」
どう反応していいのか分からなかった。先輩のあっけらかんとした告白に、困惑してしまったのだ。先輩は、淡々と先を続けた。
「匿名でも、状況から察しがついちゃうでしょ? 行方先生は、わたしが密告者だって気づいたの。講義は冴えないのに、権謀術数は得意なんだから。蛙鳴蝉噪ね」
そのときだった。路上にバスのライトがみえた。
「それじゃ、今日はここで」
「はい、またよろしくお願いします」
またどこかで――そう言い残して、白河先輩はバスに乗り込んだ。
わたしが手をふって見送ると、ポケットでスマホが振動した。確認する。
「あれ? 国文科の図書室から……?」
遠坂茉白さん
国文科図書室の小嶋です。今日はお疲れさまでした。さきほど前任の司書から連絡がありまして、お捜しの卒論について分かったことがあり、メールをさしあげます。これは個人情報に関わることなので、ほかのひとには絶対に教えないでください。
作者の大神磯良さんは、在学中に亡くなられています。彼女の卒業論文「雨月物語にひそむ志怪ミステリ」は、タイトルと概要のみで、本文は存在しません。私のほうで勘違いしていました。もうしわけありません。
では、卒業論文、がんばってください。応援してますよ。
白峯大学文学部国文学科図書室室員 小嶋唯