第三話 科学的密室
「遠坂さんは、この話がミステリだと思いますか?」
わたしは概要をにらみつつ、じっと推理にふけった。
「自由に考えていいなら……結界破りみたいなのが気になります」
我ながらボキャブラリが貧困だと、痛感した。豊臣秀次の怨霊が、高野山で宴会をひらいている。その矛盾を言いたかった。夢然の話によれば、高野山は神聖な場所らしい。怨霊が出るのは奇妙だ。卒論にも〈高野山の密室性〉と書いてある。
「なかなか着眼点がよろしいですね。その矛盾は、学界でも指摘されています」
ミステリ気分で答えただけなのに、感心されてしまった。
「文学研究者の土佐亨氏は、一九七三年に発表した論文の中で、『高野はひとかけらの霊験も見せないで終わった』ことを指摘しています。土佐氏はこれをミステリとはとらえずに、上田秋成の僧侶批判だと解釈していますが、高野山の神聖性と秀次の怨霊跋扈が矛盾しているという点では、遠坂さんの考えと一致しています」
正解だ。こういう瞬間にこそ、知的なよろこびが感じられた。
それにしてもこのひと、日本語の論文までしらべてるのか。すごい。
わたしは推理をつづけた。
「となると、密室トリックですね。物理的な密室じゃないですけど」
「霊的密室、とでも名付けておきましょうか」
仙人、ネーミングセンスがある。
ところが、すぐに疑問にぶつかってしまった。大神磯良さんの説によれば、「仏法僧」は歴史ミステリだ。単なる密室では、歴史ミステリとはいえない。霊的密室なんていかにもな名前をつけたとしても、だ。わたしはこの疑問を率直に述べた。
すると、老師は、
「遠坂さん、歴史ミステリというのは、どのようなミステリですか?」
とたずねてきた。わたしは慎重に言葉を選んで、ゆっくりと答えた。
「歴史に関する従来の通説がまちがってますよ、というオチのつくミステリです。映画にもなった『ダ・ヴィンチ・コード』が有名じゃないでしょうか」
「だとすれば、『仏法僧』のなかでも、従来の通説が改められているはずですね」
そういうことになる。わたしは卒論の概要をみなおす。
「……和歌がヒントになってるみたいです」
和歌は、作中に三回も登場している。ひとつは「松の尾の、峰静なる曙に、あふぎて聞けば、仏法僧啼く」という古歌。もうひとつは「鳥の音も、秘密の山の、茂みかな、芥子たき明す、みじか夜の床」という、夢然と山田三十郎の共作。最後のひとつは弘法大師の歌で、「わすれても、汲やしつらん、旅人の、高野の奥の、玉川の水」だった。大神さんは、どれが重要なのかを述べていない。
「老師は、目星がついてたりします?」
「もはや『さん』付けですらないのですね」
「あ、すみません」
「かまいません……目星はついています」
なんてことだ。はったりじゃないかと思うくらいの早さだった。
「ヒントをください」
「ヒントと言っても、わたしが正解を知っているわけではないのですが」
その通り。大神さんの卒論の本文が見つかるまで、正解はおあずけの状態だ。
でも老師は、和歌に関する知識だって豊富にちがいない。
「推測でかまいません。物理法則だって、最初は仮説からはいります」
老師は膝のうえに本をおいて、そっと目を閉じた。
「わたしは、弘法大師の歌があやしいとみています」
弘法大師? ……三番目? あんまり疑っていなかったところだ。
「どういう意味の歌でしたっけ?」
「『旅人は、たとえ忘れても、この川の水を汲んでよいのだろうか、いや、いけない。高野の奥山にある玉川の水は、汲んではいけない』という意味の歌です」
思い出した。そこに、註釈がついているのだ。玉川の上流には毒虫が多いから、下流の水を飲まないように、和歌で注意した云々――これがこじつけなのは、さすがのわたしにも理解できた。毒を匂わせる単語は、和歌のなかに出てこない。そもそも、川の水を飲めなくしてしまうほど毒性の強い虫がいるとも思えなかった。
「紹巴法師の亡霊が、解釈を修正するんですよね。玉川の水があまりにも綺麗だから、我を忘れて、思わず飲んでしまうって。こっちのほうが自然だと思います」
「記憶力がよろしいようで」
今日は冴えている。
「これが歴史ミステリとどう関わるのか、考えてみてください」
また丸投げされた。
しばらくの沈黙。サッとあたたかな風が吹いた。
その心地よさに刺激されたのか、パッとひらめいた。
「弘法大師の歌は、当時、間違った解釈をされていたんですよね? それを作中で訂正する……これって、歴史ミステリそのままじゃないですか?」
満点の回答だと思ったのに、老師の反応はかんばしくなかった。
「おもしろい解釈ですが、卒論の概要と一致していません」
老師は、最初の段落をゆびさした。
「この段落の末尾に、『今回論じる四つの短編について、秘められた真相があることを明らかにする』と書かれています。『秘められた真相』……つまり、大神さんによれば、上田秋成はミステリの解決編を書いていないのです。一方、弘法大師の歌については、秋成自身が解釈を提示しています。したがって、ここには当てはまりません」
見事に論破されてしまった。わたしは半分あきらめて、答えを尋ねた。
「老師は、どういうお考えですか? この歌があやしいと思ってるんですよね?」
「豊臣秀次がなぜ自害を命じられたか、ご存知ですか?」
わたしは、日本史の知識を掘り返す。
大学に入ったあとは、すっかり忘れてしまっていた。
「たしか……日頃のおこないが悪かったからです」
「どのように悪かったのですか?」
「プライベートで人を殺してたって噂があったような……」
殺生関白という彼のあだ名を、わたしはようやく思い出した。
「秀次がひと殺しだったという証言は、たしかにあります。当時、ポルトガルから来ていた宣教師たちは、彼に殺人趣味があったと書き残していますので」
老師は、そこで言葉を切った。ミステリと、どう繋がるのだろうか。
わたしは時計を確認する。そろそろ大学へもどらないといけない。
「老師、やっぱり読書室の事件を、いっしょに解決していただけませんか?」
「おやおや、遠坂さんはやはり、物語よりも現実に興味がおありなのですね」
ちょっと皮肉っぽく言われた気がして、わたしは弁解しかけた。
老師は本をふたたびひらく。
すべてがはぐらかされてしまった。
「わかりました。じぶんで考えます」
席を立つ。
老師にお礼を言って背をむけたところで、ふいに声をかけられた。
「今日の遠坂さんは、物語にあたらしい光を照らしてくれました。わたしもお礼にヒントをさしあげましょう。古代中国では、漢字が持つ音になんらかの魔術的な意味があると考えていました。今でも、不吉な漢字と音が似ているものは忌避されます。日本人もそうでしょう。四と死など……しかし、音の本性とはなんですか? 理科系の学部に進まれたあなたならば、ご存知のはずですよ……では、よい読書日和を」
翌日の昼休み、わたしは文学部の図書室で、朝茅くんとばったり出会う。
朝茅くんはカウンター前のテーブルで、タブレット型コンピューターをさわっていた。わたしの登場に気づき、サッと画面を変えた。
これは小説を書いていたな、と察する。
「朝茅くん、読書室で書かないの?」
「……」
「なるほど、幽霊が怖いんだ」
「幽霊なんかいるわけないだろ」
そのとおり。でも、ビビっちゃってるじゃないの、非科学的少年。
「わたしが幽霊の正体をあばいたら、このまえのゼミの件、謝ってくれる」
「俺は謝るようなこと言ってない」
「ひとの卒論に難癖つけといて、それはないんじゃない? ここでわたしが『朝茅くんに小説なんか書けるわけないじゃん』って言ったら傷つくでしょ?」
朝茅くんはめんどくさそうに頭をかいた。
「わかった。謝るよ。言いすぎた。だけど、どうせ幽霊の正体はわかってないんだろ?」
「ほら、そうやって勝手に決める。だったら、実証してあげる」
「おい、はったりは……」
隠れてないで、こっちに来なよ。俺たちと遊ぼうぜ。
朝茅くんは飛び上がるほどおどろいた。
椅子を蹴飛ばして、読書室のドアノブをがちゃがちゃやる。
「し、閉まってる……!」
おもしろいくらいのあわてっぷり。
そうそう、悪いようにはしないからさ。
「ん? ……こんどはうしろから聞こえる?」
朝茅くんはふりむいた。わたしは、手に持ったボイスレコーダを見せびらかす。
「はい、これが答えです」
「録音……? いや、でも、最初は読書室のほうから……」
「読書室のほうから聞こえたんであって、読書室からじゃないんだな、これが」
わたしは、ボイスレコーダを棚の花瓶のあいだにおいた。微妙な調整をくわえる。
いい加減にしろよ! 俺の女に手を出しやがって!
「ま、また読書室のほうから……いや、ちがうか。よく聞くとちがう」
「朝茅くんに質問です。パソコンの音声は、左右どっちから聞こえますか?」
「左右? モニタの真ん中からだろ?」
「それっておかしくない? スピーカはモニタの中央にはないけど?」
朝茅くんは、たしかに、と答えて、考え込んでしまった。
「……そうか、音響か」
「正解。人間は左右の耳で音の方向を確認してるんだよね。逆に、音を調整することで方向を勘違いさせることもできるってわけ。パソコンの音声がモニタの真ん中から聞こえるような気がするのは、左右のスピーカをそう調節してるからだよ。最近のデバイスには、音が聞こえる方向をタッチひとつで変えられる機種もあるでしょ。これってその応用」
「じゃあ……犯人はきみか?」
わたしはあわてて否定する。
「ち、ちがうし。わたしはトリックに気づいただけ。音源が読書室の外なら、この部屋のどこかにデバイスが隠されてるはずでしょ。今朝、小嶋さんといっしょに見つけたの」
最初から勝敗の決まってる勝負だとわかって、朝茅くんはくやしがった。
「くそぉ、そういうことだったか」
「というわけで、謝ってもらうよ。なんでわたしの卒論の報告会にわざわざ来て、あんな捨て台詞を残していったの?」
朝茅くんは、ぐっとくちびるをむすんだ。
「……じぶんでもよくわかんないんだ。最初は、きみの卒論のテーマ……『機械学習は完璧な贋作小説を作れるか?』っていうのに興味があって、おもしろそうだと思ったから、こっそり忍び込んだ……報告を聞いてたら、なんか急に腹が立ってきて……」
「わたしの報告のどこに怒られ要素があったの?」
「たぶん……創作は簡単だ、みたいなことを言われたのが癪にさわったんだと思う」
なんですか、それは。まるで『雨月物語』に出てくる豊臣秀次みたいだ。
短気にもほどがある。あやうく報告会が修羅道になるところだった。
朝茅くんは気をつけして、すなおに頭をさげた。
「あのときは悪かった。謝る」
よろしい。というわけで、おたがいに和解を達成。
「にしてもなぁ、こんなお芝居しないで、口で教えてくれてもよかったんじゃないか?」
「あ、それはね、朝茅くんが犯人で、自作自演だったんじゃないかって疑ってたの」
「……ウソだろ?」
「ほんと。朝茅くん、あのときけっこう冷静だったじゃん。警備員さんを呼んだりさ。だから、朝茅くんの自作自演もワンチャンあるかなぁ、って。だけど、さっきのおどろきかたは演技じゃなかったね」
朝茅くんは大きくタメ息をついた。
「その調子で、真犯人をさがして欲しいね」
「イヤ。どうせ文学部のだれかのイタズラでしょ。文学部の問題は文学部でかたづける」
わたしは単なる愉快犯だろうと、たかをくくった。
朝茅くんは納得がいかなかったみたい。読書室をよく使ってるらしいから、じぶんのテリトリを侵されたみたいで気にくわないのだろうか。
だったら、なおさらじぶんでさがして欲しい。
「それとぉ、朝茅くんが国文学科だと見込んで、ひとつお願いがあるんだけど……」
お昼休み。わたしと朝茅くんはおだやかな風に吹かれて、葉桜のしたを歩いていた。
本屋の仙人と出会ったこの道も、今日は現実的な景色をとりもどしている。
それもこれも、例の事件を科学的に解決できたおかげだ。
「しっかし、ほんとにやるのか?」
「さっき打ち合わせしたばっかりでしょ……と」
本屋にさしかかった。老師はいつものように籐椅子に座って本を読んでいる。
わたしがあいさつをするよりも早く、老師は緋色のくちびるを動かした。
「どうです、音の秘密はわかりましたか?」
最悪のタイミング。
朝茅くんは、わけ知り顔でわたしを見た。
「ははーん……なるほどねぇ、名探偵はほかにいた、と」
「ち、ちがうって、これは……」
「わたしは独り言をもうしあげただけです。すべての手柄は遠坂さんに」
老師はわたしたちに席をすすめた。
まるで予知していたかのように、客人用の椅子がふたつ用意されていた。
わたしたちはしずしずと腰をおろす。朝茅くんはすこし緊張しているらしい。面接のときみたいに背筋を伸ばして、両手をひざのうえに乗せた。文学部のひとにとって、仙人はとくべつな存在感があるようだった。わたしには、ちょっと(かなり?)変わった美形の青年、性格はがんこな老師にしかみえないけど。
わたしはひとつ深呼吸をして、事件の経緯を話した。
「老師、今日は最初から小説の話だけします。上田秋成が『仏法僧』に隠した歴史ミステリって、いったいなんなんですか?」
わたしは、あの卒論に隠された謎にせまった。
老師は本から顔をあげずに、ゆっくりとくちずさむ。
「霊的密室です」
「それは昨日も聞きました。くわしい解説を」
老師はようやく本を閉じた。涼しげなまなざしをわたしにむける。
「神聖な高野山に、秀次の霊が現れた……これは、物理的密室ならぬ、霊的密室と表現することができます。霊山と悪霊は相容れないもの……しかし、もし秀次が悪霊ではないとすれば、どうなりますか?」
わたしは一瞬眉をひそめて、それから息を呑んだ。
「上田秋成は、豊臣秀次が悪人であることを否定したかった、ってことですか?」
「ご明察。『仏法僧』は豊臣秀次悪人説を否定する歴史ミステリである……これが、大神磯良さんの解釈だと思われます」
神聖な場所に、悪霊は立ち入れない。豊臣秀次は悪霊だった。だから、高野山に立ち入れなかったはずだ。霊的密室は、この三段論法で構成されている。「秀次は悪霊だった」という前提さえ否定できれば、密室全体が氷解してしまうのだ。
「でも、小説のなかにヒントがありましたか?」
「あります」
「どこに?」
「和歌です」
「和歌? ……鳥の音がどうのこうのですか?」
「そちらではありません。弘法大師の和歌です。弘法大師の歌の解釈、すなわち、玉川の水は穢れていないという新説の提示……これは、豊臣秀次に関する歴史的評価の変遷と一致しています」
「変遷? 豊臣秀次って、実際に悪人だったんですよね?」
「それは、江戸時代の講談によって作られたイメージです。戦後の研究によれば、彼は悪人ではなく、優秀な天下人候補だったとされています。玉川には毒虫が住んでいる。この悪評が俗説だったように、秀次もまた、汚名を着せられていたわけです。上田秋成はこのことに気づいて、秀次の亡霊一行に、弘法大師の和歌の解釈をさせた。本作は、秀次の無実を暗示した歴史ミステリである……以上が、卒論の構想なのでしょう」
わたしは両手を握りしめ、ぼんやりと口をひらいた。
「それって変じゃないですか? 戦後の研究で分かったんですよね?」
「江戸時代の書物に目を通すと、濡れ衣という説は既にあったのです。ただ、豊臣秀次のゆがめられたイメージが強過ぎて、広まらなかっただけでしょう。無論、秀次に粗暴な性格があったのも事実。无风不起浪……風がなければ波はたたない、というわけです」
老師は語った。秀次悪人説を流布したのは、太田牛一という武将が残した『大かうさまくんきのうち』という伝記だ。歴史は勝者が作る。このモットーを徹底した本で、史書というよりは、儒教的な評伝らしい。秀吉は天下をとったのだから、彼が正義で、粛清された秀次は悪者のはずだ、という理屈。
「明治維新が起きてから、その説が改められたんですね」
「そう簡単に、事は運びません。戦前の日本史学は、江戸時代に成立した物語を、そのまま信用する傾向にあったのです。『近代日本国民史』を書き、日米開戦を強烈にアジテーションした徳富蘇峰も、秀次悪行説に依拠しています」
わたしはうなった。歴史を見直す難しさ。それを目の当たりにした感じがする。
同時に、あの不気味な卒論の第一章を再構成できたことが、うれしかった。この調子で機械学習も使えば、もっとおもしろい発見があるかもしれない。
「あ、ところで、老師、今日はプレゼントがあります」
わたしはとうとつに話題を変えた。
朝茅くんは、マジでやるのか、という顔をした。もちろん。
一方、老師もなにかを察したらしく、先手をとろうとしてきた。
「ここでは本以外の……」
「本の話です。この書店、名前がまだないんですよね?」
「つける気もありません」
「では、わたしと朝茅くんで、『我輩堂』と命名しまーす。你理解吗?」
仙人のちょっぴり困惑した顔に、わたしは初めて一本とった気がした。